第38話 夏休みの始まり
むやみに長い終業式と、毎度同じような連絡をするホームルームが終わって夏休みに入った。悪い事だとは思うが話の内容はほぼ頭に入っていない。
一真や他のクラスメイトは解放感からか皆笑顔だ。湊もなんだかんだで夏休みを楽しみにしており、少しだけテンションが上がっている。
とは言っても真夏の暑い中、学校に行かなくていいという嬉しさが大半なのだが。
「はー、終わった終わった。夏休みだな!」
「いいねえ、彼女がいる人は」
「お前も似たようなもんだろうが、家で二人っきりなんだし」
「別に二ノ宮は彼女でも何でもないんだが」
「はいはい。分かってるよ」
愛梨と付き合うというのはまずありえない。彼女はそういう関係を嫌がるだろうし、そもそも彼氏など作らないと言っていたのだから。
なので一真の言葉を否定したのだが、どうやらちゃんと聞いてもらえなかったらしく軽く流された。
「それで湊、しっかり夏休みの予定は空けとけよ?」
「バイト入れてる時があるんだが」
「ならバイトのスケジュールを教えてくれ」
「なんでだよ、俺の予定を聞く前に彼女とデートしてこい」
「まあいいじゃねえか。三人、いや四人で遊ぼうぜ」
「それなら別に二ノ宮を連れて行けばいいだろ」
「紫織と二ノ宮さんの二人きりならまだしも、湊じゃなくて俺がいる時に二ノ宮さんが一緒に遊ぶと思うか?」
「……無いな」
「だろ?」
愛梨には夏休みに沢山遊んで欲しいと思っている。だが百瀬と二人きりならまだしも、一真達カップルの所に一人で混じるのは精神的に辛いと思う。
というか愛梨は百瀬の彼氏だからという理由で一真と多少は話すものの、湊がいなくて一真がいる状況だと嫌がって遊びに行かない気がする。
そうなると湊も一緒に行って四人で遊ぶことにした方が愛梨も外に出やすいだろう。
「仕方ない、スケジュールは後で送っておくよ」
「さんきゅ、ちゃんと空けておいてくれよ?」
「お前、当日連絡やいきなり俺の家に来るのは無しだからな? ちゃんと事前に連絡してくれ」
「分かってるって」
妙にニヤけている一真が気になったものの、どうせ理由を問い詰めても答えなさそうなので放っておいた。
校舎から出ると蝉の声が響き、湿気を孕んだ空気が湊の体を包む。
大変な夏になりそうだと思ったが、溜息は出ずになぜか笑ってしまった。
今日はバイトが無かったのでさっさと家に帰る、愛梨は帰るのが遅れるらしい。
珍しい事ではあるが、大体の予想は出来ている。
相当疲れているだろうなと思いながら、美少女は大変だと苦笑し愛梨の代わりに家事をする。
しばらくすると玄関の扉が開き、透き通るような綺麗な声が聞こえた。
「おかえり」
「ただいまです」
「……なんだか違和感があるな」
「そうですね、普段と逆ですから」
普段の挨拶と全く逆になっていることがおかしくて二人して笑ってしまう。
基本的に湊が家に帰る時には愛梨は既に家に居るので、湊が彼女を迎えるのはかなり珍しい。
真夏の日差しの中、女の子が二人分の買い物をするのは辛いだろうと思って、最近はバイトが休みの時は愛梨の代わりに買い物に行っているから尚更だ。
お疲れであろう愛梨の鞄を持とうと彼女に近づいたら後ずさりされた。
「え、どうした?」
「その、あまり近づかないでくれると有難いです」
「……ごめん」
湊に近づかれるのが相当嫌のようだ。正直なところ、かなりショックを受けてしまった。
顔に出てしまったのか愛梨がふるふると首を横に振る。
「違うんです、私、いま汗かいているので」
「そりゃあそうだろう、真夏に外から帰ってきたんだからな」
「ですから、その、今あまり近づかれると汗臭いので駄目です」
「別にそんな事気にしないぞ?」
「私が気にするんです! ……だって湊さん、私の匂い好きみたいですから」
愛梨の匂いは好きだけれど、湊が匂いフェチみたいな反応をされると対応に困る。
しかも、うっすらと頬を染めて上目遣いで湊を見上げてくるので質が悪い。
別に愛梨の言葉は間違っていないが、ここで「そうだ」と言える度胸は湊には無い。
「……えっと、すまん」
「いえ、折角ならいい匂いの方が湊さんも嬉しいでしょう?」
愛梨のからかうような表情は相変わらず苦手だ。心臓に悪い事ばかりしてくる。
肯定すれば愛梨がいい匂いだと褒める事になるし、否定すると特殊な人間だとからかわれるだろう。
じっとりとした目で愛梨を睨む。
「……これ、俺がどんな返答しても駄目なやつだよな?」
「おや、バレましたか。という訳でシャワー浴びますね」
「ああ、ゆっくりしてこい」
全く悪いと思っていないような微笑みをされれば、怒る気も無くなってしまう。
玄関にカーテンを取り付けているので居間をうろついて着替えが見えてしまう心配は無いものの、近づく気にはならないので大人しくしておく。
ふと疑問を覚えたので、玄関に向かう愛梨に質問する。
「なあ愛梨。俺、返ってきてからシャワー浴びてないんだが、汗臭くないか?」
「別に。湊さんはいい匂いですよ」
「……俺は汗かいてても大丈夫で、愛梨は駄目って理不尽じゃないか?」
「もしかして汗をかいた私の方が好みですか? そんな特殊な趣味を持っているとは思いませんでしたよ、変態さん?」
「……勘弁してくれよ」
「ふふ、すみません」
最近、悪戯っぽい表情をして湊をからかう時が本当に多い。
途方に暮れて、手で頭をガシガシと掻くと本当に楽しそうに愛梨が笑った。
「疲れましたー」
シャワーを浴び終えた愛梨は、畳んだ布団に背中を預けてグッタリしている。
ここまで気の抜けた彼女を見るのは珍しい。
「お疲れ様だ。大方予想は出来てるが、当ててみようか?」
「湊さんなら分かるでしょうね。何だと思います?」
この話を聞いていいかという確認のつもりで冗談っぽく言ったのだが、愛梨は特に気にしていないようだ。
おそらく少し前まではこの話に触れると冷たい表情をされていたはずだ。今のように軽く聞けるようになったのは多少の信頼の現れだろう。
「告白、相当多かったんだろ? 夏休み前の最後のチャンスだからって声を掛ける人が大勢いた。違うか?」
「……当たりです」
一番有り得る可能性を言ってみたが、やはり当たっていたようだ。
落ち込んでいないかと愛梨を見たが呆れ気味に苦笑しているだけで、振った事やその後の対応を気にしている様子は無い。
「みんな同じでしたよ。『夏の思い出を作ろう!』、『一緒に楽しもう!』だそうです。初対面の人と何を楽しめと言うんでしょうね」
「誰だって最初は友達からだろ?」
「ならこんな土壇場じゃなくて、もっと前に声を掛けるべきでしょう。拒絶している私が言う事ではありませんがね」
くすくすと愛梨は笑っているので単純に愚痴を言いたいようだ。
抱え込まずにこうやって吐き出してくれていることが嬉しくて、湊は小さく笑ってしまう。
「皆さん下心が見え見えなんですよ。この機会にあわよくばお近づきになろうっていうのがバレバレです。誰が引っかかるんですかね」
「今日は辛口だな」
「当たり前です。何人も何人も校舎裏で対応する私の身にもなってくださいよ。いくら日陰とはいえしんどいです」
「それは、まあ、キツいな」
「本当にうんざりしますよ。それで湊さん、私は疲れました」
「見たら分かる、普段とは全然違って、ぐったりしてるからな」
「疲れました」
「……何をご所望なんですかね」
こういう場合の愛梨は湊に何かを求めていることが多い。そしてその何かは大概碌なことにならない。
湊が引き攣った笑顔で尋ねると満面の笑みを返された。
「では、頭を撫でて下さい」
「おい、それは俺がやって良い事なのか?」
「当たり前じゃないですか。さあ、やって下さい」
「……分かったよ」
愛梨に許可をもらったので、彼女の傍に座りなおして頭を撫でる。今日は特に疲れたようなので特別だと自分を納得させた。
最近やったばかりな気がするが、当然ながら慣れる事は無い。
さらさらの銀髪に指を通すと引っかかりも無く指が抜ける。細く、滑らかな銀色はとても湊と同じ髪だとは思えない。
愛梨はお気に召したようで気持ち良さそうに目を細めている。
(信頼しているとは言われたものの、油断しすぎだろう)
湊の手が愛梨の頭を撫でる事に安心しきっており、不安や危機感など微塵も感じられない。
一応湊も男なのでこんな表情をされると悩ましいものがある。流石に注意すべきだろう。
「愛梨、油断しすぎだ」
「別に良いじゃないですか、大丈夫ですよ」
「俺が何かするとは思わないのか?」
「湊さんは私が嫌がる事なんてしませんよ」
湊の事を絶対的に信頼しているような表情をされれば、何だか注意するのも馬鹿らしくなる。
何を言っても駄目そうなので撫で続けているが、こうして愛梨から近づかれると距離感が狂ってしまう。
今回は愛梨を労う為なので特別だが、湊が普段から触れて良いのか、駄目なのか。そして愛梨はそれをどう思っているのか。
愛梨を大切にするために湊は行動している。この気持ちに嘘は無い、はずだ。
会話も途切れ、頭を撫でながら自分の気持ちに蓋をすると、碧色の瞳を蕩けさせた愛梨が口を開く。
「別に私は大きな出来事や、楽しいイベントなんて求めていなかったんですよ。ただ普通の、波風の立たない穏やかな日常さえあればいいと思ってました」
それはおそらく愛梨が一番望んでいたものだろう。
外に出れば視線を集め、聞いてはいないものの、前の家ではあまりいい思いをしていなかっただろうから。
「暖かい家が、私が居ていい場所がある。それだけでよかったんです」
後に続いた言葉は体育祭の時に聞いた言葉と同じようで少し違い、なぜか過去形になっている。
あれから約二ヵ月しか経っていないのにもかかわらず変化したことを不思議に思い、疑問が口から出る。
「今は違うのか?」
「そうですね、我が儘になっちゃいました。物足りなくなったんです」
「我が儘くらい言え、俺に出来る事ならなんとかするから」
「ほら、すぐそういう事を言う」
「……え、何か変な事言ったか?」
湊の心臓に悪いことをされることは多くなったものの、本当に嫌な事はされていない。
なのでもっと我が儘になってもいいと思ったのだが、愛梨の目がじっとりとしたものに変わった。
「本当に湊さんは湊さんですね」
「それ、悪口か?」
「さあ、どうでしょうね。そういえば、紫織さんから夏休みいろいろと誘われました」
「そりゃあよかった、楽しんでこい」
「何他人事のように言ってるんですか、湊さんも行くんですよ」
「……ちなみに、何に誘われたんだ?」
「内緒です。でも、紫織さんと二人で買い物に行く時は、流石に湊さんは留守番ですよ」
「当たり前だ。と言うか、百瀬と二人で買い物に行く約束したんだな」
順調に百瀬と仲良くなっているようで何よりだ。まさか二人で買い物に行くようになるとは思っていなかったが。
「はい。なので、夏休みが本当に楽しみです」
その声はとても生き生きとしている。
四月に初めて会った時とはまるで違い、たった約四ヵ月だが愛梨は本当に明るくなったと思う。
一真の言葉を思い出す。愛梨は湊と一緒に居る時が一番幸せそうだった。愛梨が心を開いたのは湊だと、自信を持てと言外に言われた。
ただの同居相手ではなく、もしかして――と考えが変な方向に行きそうだったので、頭を振って思考を止める。この思考をしてはいけないのでしっかりと蓋をした。
蝉の鳴く声が窓を閉めていても聞こえる。夏は始まったばかりだ。