第36話 魔が差すと碌な事にならない
(何だ? 腕が動かない…)
湊が目を覚ますと片腕がピクリとも反応しない。
不思議に思って隣を見ると、湊の腕に頭を乗せてすやすやと気持ち良さそうに眠る愛梨が目に入った。
(!?)
至高の芸術品のような寝顔を至近距離で見てしまい、寝起きに似合わず心臓が拍動のペースを早める。
思わず腕を愛梨の下から動かそうとしたが、そんな事をすれば彼女が起きてしまうので必死に抑えた。
二人共寝返りを打った時に偶々こうなってしまったのだろうか。愛梨は寝相が悪いタイプなのかと思ったが、いつも湊が起こす時はしっかりと枕に頭を乗せているので寝相は良いはずだ。
愛梨が普段と違う状況になっている事について考えられる理由としては、今日は湊が隣に居て寝苦しくて何回も寝返りを打った、というのが妥当だろう。
頭の中で今の状況が納得できるだけの原因をまとめると、ようやく胸の鼓動が落ち着いてくる。
冷静になった頭で何とか現状を変えられないかと確認の為に愛梨を見てしまい、思考が止まった。
(……ここまで近くで見るのは初めてだな)
寝起きの顔をじろじろ見るのは悪いと思ってあまり見ないようにしているが、吐息すら感じられる距離で寝ている愛梨に思わず見惚れてしまう。
いつも髪や表情ばかりに目を向けていたが、睫毛は長くて綺麗だし、頬もすべすべしてそうだ。
つい魔が差してそっと頬に触れてしまう。予想していた通りの滑らかさを持ちつつも、ふにふにとした柔らかさもある。虜になってしまいそうだ。
そのまま感触を堪能していると愛梨の目がゆっくりと開いた。透き通るような碧色の瞳が今は何も映していない。いつも通り意識が無さそうだ。
「いま、なんじですか……?」
今のうちに愛梨の頬から手を離そうとしたのだが、舌足らずの声で止まってしまった。
愛梨が寝起きに声を出すのを初めて見た。完全に無意識だと思うので、このままもう一度眠ってもらう。
「まだいつも起きる時間より早い、もう少し寝てていいぞ」
「はぁい……」
愛梨を起こさない為に囁くように告げると、彼女が安堵の笑みを浮かべて再び目を閉じる。
頬から静かに手を離してしばらく様子を見たが、すうすうと規則正しい寝息が聞こえてきたのでとりあえず一安心だ。
このまま腕枕をしていたら意識がハッキリした愛梨に怒られそうなので、何とかしなければと思って本来愛梨が使っている枕を探す。
(枕はどこだ? ……あった)
愛梨の頭をゆっくりと持ち上げて、布団から飛び出している枕と腕と入れ替えた。ようやく腕に血が通ってしびれてくる。
これはしばらく動けそうにないなと苦笑すると、隣から唸り声が聞こえてきた。
起こしてしまったのかと思って愛梨の様子を見ると、頭を動かされた事に不快感を覚えたのか眉を寄せている。
「む、ぅ……」
「ごめんな、愛梨」
「……んぅ」
あやすようにやんわりと愛梨の頭を撫でると、安心したのか安らかな寝顔になった。
腕のしびれも治ったので、湊は立ち上がって洗面台に内心を呟く。
「無防備過ぎるだろうが……」
火照った顔に冷水はちょうどいい。しっかりと頭を冷やすために水を被った。
「湊さん、しっかり眠れましたか?」
「ああ、やっぱり布団は違うな」
「でしょうね。だからあれほど布団で寝ようって言ってたんですからね」
「実感したよ」
朝食を摂っていると布団の寝心地を愛梨に尋ねられた。
やはり床とは全然違い、寝起きの体の痛さが全く無い。
疲れが残らないなとしみじみと答えると、呆れたような目をされたが湊には反論出来ないので苦笑を返した。
「そういえば湊さん。私が寝ている時に何かしました?」
「……何もしてないぞ。何でだ?」
愛梨が不思議そうに首を傾げた。
動揺して反応が遅れてしまったものの、起きたら腕枕していて、頬を触った後に頭を撫でたなど言える訳が無い。
出来るだけ動揺を表に出さずに愛梨の言葉を否定すると、彼女は訝し気な顔になる。
「いえ、何だか妙に気持ちいい瞬間があったんですよね。起こされて、でも気持ち良くて寝てしまって……というのを繰り返した気がするんです」
「さあな、俺には分からん」
「……そうですか」
本当に知らないという風を装って答えると、愛梨は湊の顔をジッと見つめてくる。
澄んだ碧色は湊の心の中すら見透かしてしまいそうだ。
「何だ? 俺の顔に何か付いてるか?」
「……私の頬、触りたかったんですか?」
「ぶっ!」
湊の心臓に悪い、ニヤニヤした悪戯っぽい笑顔で爆弾を投下された。
あまりにも唐突だったので咽てしまう。愛梨の意識は無かったはずなのになぜバレたのだろうか。
「え、な、何で?」
「やっぱり当たりでしたか、頬を撫でられる感覚があったんですよ」
「……すまん。今度から気を付ける」
「いえ、湊さんなら別にいいんですけどね」
湊の行動に嫌悪感の欠片も持っていないような、柔らかな笑顔をされると忠告しか出来なくなってしまう。
「そこで納得するなよ」
「信用しているという事ですよ。触りますか?」
「そういう事を言うんじゃない」
一応家族ではあるものの、恋人では決して無いのでいくら許可があっても頬を触るのは駄目だろう。
これから寝起きの時は気をつけようと湊は思った。
ぴしゃりと注意すると愛梨は目を細めながら微笑する。全く反省していないようだ。
「はいはい、分かりましたよ」
「それで、愛梨はちゃんと寝られたか?」
「はい、大丈夫ですよ」
「そっか、なら良かった」
寝苦しくて枕を布団から弾き出したのかと思ったが、愛梨のやんわりとした笑顔を見るとそうでもなさそうだ。
彼女は昨日の寝たフリの件を持ち出さないし、湊も触れることはないだろう。
それに愛梨は頬を触られただけだと思っているようだが、実際は腕枕の後に頭を撫でたというのが事実だ。
昨日の寝る前から今日の寝起きにかけての恥ずかしすぎる自分の行動を思い出してしまい、その記憶を頭の中から追い出そうと学校の準備をした湊を、愛梨は穏やかな微笑みで見つめていた。