第32話 呼び方
「それじゃあ、二人共またね!」
「ありがとな、助かったよ」
「またな」
夜飯時になったので挨拶もそこそこに湊と愛梨は百瀬の家を出る。
どうやら一真はもう少し百瀬といるようで、二人に見送られた。
ここから先は恋人としての時間なのだろう。流石にそこに突っ込むほど野暮ではない。
夕暮れ時を二人でゆっくりと歩く。夏に近づいているとはいえこの時間帯はひんやりしていて過ごしやすい。
静かに勉強するのもいいが、大人数でするのも悪くない。充実した時間だった。
今回の勉強会には本来の勉強以外に愛梨と百瀬の親睦を深める目的もあったが、愛梨はどうだろうか。
「二ノ宮、今日は楽しかったか?」
「はい、自分の勉強という点でいうならあんまりでしたけど、凄く、凄く楽しかったです」
本当に楽しそうに愛梨は顔を綻ばせた、この顔が見れただけでも勉強会は大成功だろう。
確かに愛梨の勉強という観点で見るならそれほど出来ていなかったが、彼女の頭の良さなら期末考査は何も問題ないはずだ。
きっと愛梨にはいい経験になったと思う、なにせ今まで良い友達付き合いが無かったのだ。これから更に仲良くなって欲しいと思う。
「なら良かったよ。大分百瀬に絡まれてたが大丈夫だったか?」
「……紫織さんのあの感じは慣れませんね、悪意が無いのは分かってるんですが」
愛梨が苦笑気味に笑う。とはいえ本当に嫌な感じではなく、ああいう接触に慣れていないだけなのだろう。
申し訳ない事をしたなと湊も苦笑していると、愛梨が咎めるような口調になる。
「というか私を生贄にした九条先輩がそれを言いますか?」
「悪かったよ。ああするしか百瀬のやる気を出す方法が無かったんだ」
「理解は出来ますが……。本当に大変だったんですからね」
嫌ではないものの、かなり疲れたのだろう。愛梨が溜息を吐きながら湊を責める。
彼女が疲れたのは湊が生贄にした所為というのもあり、甘んじて愛梨の非難を受けるしかない。
「ごめんって。でも多分百瀬はもっと接触してくるから、早めに慣れた方がいいぞ」
「……頑張ります」
「無理しない程度にな」
「はい」
百瀬の接触に関して湊が出来る事はほぼ無い。
強いて言うなら、愛梨が無理して百瀬に付き合っていないかしっかり二人を見ておくことだろう。とはいえ百瀬が無理強いするような子では無いのは分かっているので、それほど深刻に悩んではいない。
湊の言葉に嬉しさと不安が半々の声で愛梨が返事をした。それきり会話が途切れる。
しばらく互いに無言で歩いていたが、唐突に愛梨が言葉を発した。
「九条先輩への呼び方、変えた方がいいでしょうか?」
「別に気にしなくてもいいぞ、あれは百瀬の冗談だ」
「……九条先輩は、どう呼ばれたいですか?」
「二ノ宮の好きな呼び方でいい」
「どう呼ばれたいですか?」
誤魔化そうとしたが駄目だった。前と同じで湊の意見を聞いているのだろう。
本音を伝える為に、言い聞かせるように話す。
「俺はな、名前呼びっていうのは本当に親しくないと駄目だと思ってるんだ。呼んでいいのは家族か、それこそ恋人くらいだと思ってる」
「私達、一応家族ですよね」
「それはそうだが。でも二ノ宮は男を名前で呼ぶのも呼ばれるのも嫌だろ。さっきも嫌そうだったし」
「あれは別に嫌だった訳じゃありませんよ。……単に恥ずかしかっただけです」
言われてみれば確かに家族ではあるので問題ないと言える。無理矢理は駄目だと思って百瀬を咎めたが、恥ずかしかっただけらしい。
お義兄ちゃん呼びの時点で一杯一杯だったのだろう。純粋な愛梨らしいなと微笑ましく感じる。
「恥ずかしいなら変えなくていいだろ」
「……そんなに私が名前を呼ぶのが嫌なんですか?」
隣を歩く愛梨の声が沈む。あまりにも湊が納得しないので勘違いさせてしまったようだ。
「嫌なんじゃない。……単に恥ずかしいだけだ」
「ふふ、私と一緒じゃないですか。なら恥ずかしいものどうしですし、私が呼んだら九条先輩も呼んでくれますか?」
「無理しなくていいんだぞ?」
「無理なんてしてません。いきますよ」
「おい」
無茶苦茶な理論を持ち出し、湊の制止を聞かずに愛梨は大きく深呼吸をする。そして――
「湊さん」
周りの生活音も聞こえる中、透き通った可憐な声が世界でそれだけになったかのようにはっきりと湊の耳に届いた。
たかが名前を呼ばれるだけ、一真や百瀬にも呼ばれている。なのに愛梨に呼ばれるとなぜか胸が甘く疼いた。なぜこんなにも疼くのか自分でも分からない。
「さあ、私は言いましたよ。次は湊さんの番です」
湊が胸の疼きによって何も言葉を発せないでいると、そのまま愛梨は湊にも同じことを求めてくる。
彼女は完全に名前呼びをするつもりのようで、「湊さん」という甘い響きが湊の心をくすぐる。
「あのな、二ノ宮――」
「駄目ですよ、二ノ宮じゃありません。さあどうぞ」
「いや、でも――」
「……あんまり駄々を捏ねるとお義兄ちゃん呼びにしますよ」
愛梨が凄みを帯びた声で呼び方を更に変えると脅してきた。
「それは、ちょっと」
「でしたら、この期に及んで言い訳しないでくださいよ」
「……分かったよ。確認だが、嫌じゃないんだな?」
「もちろんですよ。何で私から求めているのに嫌がるんですか」
念を押して確認すると「今更何を言うのか」というようにくすくすと笑われた。
ここまでされた以上もう逃げることは出来ないだろう、覚悟を決めて口を開く。
「愛梨」
愛梨と初めて会った日に一度だけ冗談半分で言っていたが、もう一度言う事になるとは思わなかった。
静寂が二人を包む。やはり失敗したと思って愛梨の顔を伺おうとしたが、ものすごい勢いで顔を逸らされた。
「えっと、ごめんな。そんなに嫌がると思わなかった」
「違います、嫌がってなんていません」
「でも顔逸らしてるし」
「これは違います、違うんです。でもしばらくこっちを見ないで下さい」
「本当に大丈夫なんだな? 名前で呼んでもいいんだな?」
「はい、ですのでもう一度お願いします」
「……愛梨」
何故もう一度呼ばなければいけないのかは分からなかったが、これで機嫌が直るのならと再び名前で呼んだ。
すると次は両手で自分の頬を抑えだした。
「……本当に大丈夫か?」
「ひゃいひょうふへふ」
「ならいいんだが」
下手につついて機嫌を悪くしたくないので、これは放っておくべきだろうと湊は判断した。
なんだか変な雰囲気になり話すことが無くなってしまうが、静かな時間であっても気まずさなど感じない。
暫く経つと愛梨が頬から手を離した。どうやら落ち着いたようだ。
「外ではお互い言わないようにしましょうね」
「当たり前だ、話の種になりたくないからな」
「なら二人の秘密ですね」
とっくに秘密など抱えているので今更名前呼びの秘密が増えても何も変わらないと湊は思ったが、愛梨は違うようで妙に上機嫌になっている。
軽いステップを踏んで急に愛梨が湊の前に出る。何事かと思った瞬間にくるりと湊に振り返った。
夕暮れの闇で薄暗くなっていても、その表情が花が咲くような美しい笑顔だというのが分かる。
「これからもよろしくお願いしますね、湊さん!」
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