番外編1 優しい彼への私の気持ち
愛梨視点となっております。
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「ただいま」
体育祭が終わって家に帰り、誰もいない六畳半の部屋に声を掛ける。
返事が無いのは分かっているが、単に私の気が済まないだけだ。
荷物を置いて居間に寝転び休憩する。彼といる時はだらしない所を見られたくないのでしっかりしているが、今くらいはいいだろう。
先程まで感じていた彼の温かさが無い事に寂しさを覚えると同時に、部屋に満ちる彼の匂いに安心する。
「私、変わったなぁ……」
たった約二ヵ月、彼と一緒に生活して随分と変わったと独りごちる。
正直なところ、最初は彼との同居生活に何の期待もしていなかった。むしろ、ここで私は体を差し出して終わるのだろうと入学式前日に泣いたくらいだ。
普通に考えてみれば初対面の男の人と生活するなど有り得ない。けれど、父に逆らうという選択肢は私には無かった。
父の元から離れたいという思いは確かにあったものの、見ず知らずの男とどちらがいいかと言われればまだ父の方がいいだろうとすら思う。
――けれど、彼は私の思っていた人と違った。
一週間も一緒の部屋で過ごしていれば必ず本性が出る。彼は安全で、信用できる人だ。
一ヵ月過ごした時点で私は彼を信用していた。
そして先程、校舎裏で彼に甘えてしまった。
誰にも「私」は見てもらえないと思っていた。けれど、彼は、彼だけは見てくれていたのだ。
『誰も二ノ宮を見てないなんて言うな、俺がちゃんと見てる。優しくて、しっかり者で、でもちょっとだけ抜けてるお前を、俺はちゃんと見てるぞ』
正直殺し文句だと思う。あんな言葉を信用している人に言われた時点で、私はハッキリと自分の気持ちを自覚してしまった。
温かくて、とても大きな気持ち。初めてではあるが、この気持ちを何と呼ぶかは知っている。
「好き」
たった約二ヵ月一緒に過ごしただけでこうなってしまった。
ちょろい女だなと自分でも思うが、私にとってはとても楽しく、安らいで、充実していた。
これからもこんな生活が続いて欲しいなと思いながら、私は襲い来る眠気に身を委ねた。
とても気持ちの良い感覚で私は意識を取り戻す。少しだけの休憩のつもりがぐっすり眠ってしまっていたようだ。
近くに彼の温かい体温と落ち着く匂いを感じる。まさか彼に撫でられるとは思わなかった。
嫌な気持ちなど欠片も湧かない。むしろ彼の手はあまりに心地よくて、もっとして欲しいとすら思う。
「二ノ宮、起きたか?」
「……」
バレバレの寝たフリをしてしまったが彼はいつも私を優しく起こしてくれているので、私の寝たフリなどすぐに分かったのだろう。
彼の手が頭から離れる感覚が寂しくて、思わず声が出てしまう。
「あっ……」
どうしようかと迷ってると彼の苦笑する気配がしたが、撫でるのを再開してくれた。
気付かないフリをしてくれる事が嬉しい。彼の厚意に甘えさせてもらおう。
「いつも本当にありがとな。学校では気を遣い続けて疲れてるのに、家では殆どの家事をやってもらってる。こんな形でしか感謝を伝えられないけど、本当に助かってるよ」
「そんなこと、ありません。私の方こそありがとうございます」
頭を撫でながらお礼を言う彼につい反応してしまう。
お礼を言うのは私の方だ。彼は私に居場所をくれた。私を見ていてくれた。「ありがとうございます」なんて言葉では足りない。
「……おい」
彼の問い詰めるような声が聞こえて、撫でる手が止まる。
もっと撫でて欲しいという意味を込めて、うっすらと目を開けて彼を睨んだらまた再開してくれた。
本当に、彼はどれだけ優しいのだろうか。
「二ノ宮に感謝される事なんて何もしてない」
「九条先輩がそう思っていても、私は感謝しているんです。暖かい家がある、私を心から気遣ってくれる人がいる、それだけで嬉しいんです」
「当然のことをしてるだけだ」
「先輩にとってはそうかもしれませんが、私は違うんですよ。それに放課後の件、本当にありがとうございます」
彼の言葉に私がどれだけ救われたのか。この感謝の気持ちの大きさは彼には分からないだろう。
「俺は俺の意見を言っただけだ、それで何が変わる訳でも無いだろ」
「それでも、ですよ。あの時は少し楽になったと言いましたが、本当は凄く救われたんです。我が儘になれ、なんて初めて言われましたよ」
「お前は優しすぎるんだ」
私は彼の言うように優しくなどない。
男は嫌いだ。私を物のように扱う事しか考えていないのだから。
女も嫌いだ。私を見た目でしか判断しないのだから。
その思いは今も変わらない。けれど、彼だけは違うとハッキリ言える。
「そんな事ありません。じろじろ見る男子は嫌いですし、私の外見に目をつけて、地位を上げるために近づいて来る女子も嫌いです」
「そんなの当たり前だろうが」
「でも、九条先輩の事は受け入れてるんですからね。信頼してるんですよ」
「……そっか、ありがとな」
「私は私が認めた人しか受け入れない」という人の中に彼はとっくの昔に入っている。
校舎裏では私を救ってくれた。そして今、私は彼に甘えている。
きっと彼は私の望んでいる言葉をくれるだろうと、ずるい心が言葉を紡ぐ。
「私、独りじゃないんですよね」
「そうだ」
「先輩が見ていてくれるんですよね」
「ああ」
「……嬉しい」
独りじゃない、彼が見ていてくれる。その事実に胸が温かくなる。
どんどん私の欲望は大きくなっていく。少しのお願いなら彼は許してくれるだろうか。
「ねえ先輩、もう少し、頭を撫でてもらっていいですか?」
「ああ、こんなのでよければいくらでもだ」
「ふふ、ありがとうございます」
やっぱり彼は優しい。私の我が儘を聞いてくれた。
いつまでもして欲しいと思ったけれど、間の悪い私のお腹の音が邪魔をする。
「お腹空きましたね、ご飯にしましょうか」
名残惜しいけれど我が儘も終わりだ。もし、いつかもう一度お願いしたら彼は撫でてくれるだろうか。
期待はあるものの、今はそれどころではない。寝てしまって何も準備していないのだから。
「……ってそういえば、寝てしまってて夜ご飯もお風呂も準備してません。すみません先輩、すぐ準備しますから!」
「落ち着け。とりあえず前と同じでお前が夜飯、俺が風呂の準備だ、いいか?」
「……はい」
焦った私を彼がもう一度撫でる。怒らないでいてくれる彼の優しさが私の心に沁み込んでいく。
この生活が続いて欲しい。願わくば、いつまでも。
先程まで抵抗していたが、ようやく彼が寝てくれた。彼の寝息を聞きながら私はホッと安堵の溜息吐く。
体育祭とバイトを終えて疲れているにも関わらず、それでも彼はマッサージする私を気遣ってくれた。
床で寝続けて文句の一つも言わないのだから、彼は本当に優しい人だ。
もちろん布団を買っても敷くスペースが無いのは私にも分かるし、彼の性格上一緒に寝ることもしないだろう。
彼が起きたら罰ゲームとして言ってみようとは思うものの、どうせ拒否するだろうなと私は苦笑しながら寝てしまった彼の頭を撫でる。
先程私の頭を撫でてくれたので、そのお礼として。……まあ、私が触れたいと思ったのもあるが。
特別な手入れをしていないはずなのにさらさらの黒髪は、いつまでも触り続けられそうだ。
万人が見ても彼の見た目は平凡だろう。私から見てもそう思う。
けれど、それがどうしたと言うのだ。
彼の柔らかな笑顔、優しく私を気遣ってくれる声、いつも穏やかな空気を私にくれる彼の全てが好きだ。
寝ているのならどうせ聞こえていないだろうし、言ってしまっていいだろうと口を開く。
「九条湊さん、貴方の事が好きです」