第141話 バイト漬けの日常
「ふー」
「やっぱり辛いかい?」
「ですね、ここまで長時間働く事はなかったですし、覚える事も多いですから。でも、初日で折れる訳にはいきません」
閉店までのバイトを始めた初日。お客から見えない位置で大きく溜息を吐いた湊に店長が声を掛けてくれた。
趣味でやっている店なので人はそこまで多くないものの、客足が途切れはしない。
その対応と、今までバーとしての仕事をしていなかった事もあり、かなりの疲れが来ている。
とはいえ一日目で弱音を吐く訳にはいかないと、己を奮い立たせた。
「それでもやっぱり呑み込みがいいね。これなら大丈夫そうだ」
「ありがとうございます。ちゃんとやり切りますから」
褒められるのは嬉しいが、どちらかと言うと安堵の気持ちの方が大きい。
我が儘を言っている以上「出来ません」では済まされないのだから。
妥協はしないとキッパリと言うと、彼の顔が曇った。
「気負い過ぎないようにね。それと、約束を忘れない事。分かってるよね?」
「はい」
体調が悪ければ無理しないという約束はしっかり守らなければならない。
それが前提条件だからなのは勿論だが、万が一にでも目的を果たせなければ、彼や愛梨に向ける顔がなくなってしまう。
大きく頷くと、店長は穏やかな笑みを浮かべた。
「よし。ならもう少しだけ頑張ろうか」
「了解です」
「ただいま」
「おかえりなさい」
精魂尽き果てて家に帰ると、ここ数日で聞き慣れた、感情を抑え込まれたような声に迎えられた。
声の主は無表情に見えて、湊を慮っているのが分かる。
またキッチンからは良い匂いが漂ってくるので、本当に晩飯を食べていないようだ。
「ごめんな、腹減っただろ」
「私の事はいいんですよ。もうすぐ出来ますから、ゆっくりしていてください」
「……分かったよ」
日付が変わるという時間まで学校終わりから何も食べないというのは、いくら愛梨が小食だとしてもあまりに辛いだろう。
だが強い意志を感じさせる声色で応えられたので、やはり意見を変えるつもりはないらしい。
お互いに頑固だなと思っていると、湊の腹が大きな音を鳴らした。
「……ごめん」
「いえ、すぐに準備しますね」
夜飯を催促しているみたいで、恥ずかしさと申し訳なさが込み上げてくる。
謝罪をしたのだが、愛梨が気にしていないという風にくるりと湊に背を向けてキッチンに向かう。
その際に見えた横顔は、ほんの少しだけ綻んでいるように見えた。
そして晩飯と風呂を済ませた後、宣言通りに短いながらも愛梨を甘やかす。
「あの、無理してませんか?」
「いいや、全然。愛梨こそ眠いなら寝ちゃっていいからな」
愛梨はこんなに遅い時間まで起きて、風呂や晩飯の用意をしてくれた。それだけではなく、湊の髪の手入れもだ。
これらは身勝手な我が儘に付き合ってくれた彼女の優しさなのだから、厚意には厚意を返さなければならない。
それに寝る時は結局くっつくが、愛梨とこうして少しも触れ合わないとなるとあまりに寂しい。
依存しているのは湊の方だなと思いつつ、彼女を気遣う。
既に深夜なので眠いはずなのだが、愛梨は首を横に振った。
「いいえ、寝るなら一緒にです。貴方にこんな事をさせておいて、一人だけ寝る訳にはいきません」
「分かったよ。じゃあお互いに無理のない範囲でな」
「はい」
僅かな時間を大切にし、変化した日常は過ぎていく。
バイトを初めてから数日。ちょうど目的の日までの折り返し地点に来た。
家に帰ると、いつかのように電気は点いていても返事が無い。
連日深夜近くまで働いている事で重くなった体を引き摺って居間に行くと、湊が普段使っている枕を抱き締めて愛梨が眠っていた。
「そりゃあ眠くなるよな。無理させてごめんな」
湊達とて別に早寝早起きの規則正しい生活をしている訳ではない。日付が変わる時間まで起きている時も多い。
だが愛梨は晴れない心で料理や家事を行っているので、余計に疲れが溜まるはずだ。こうなるのも仕方ないと思う。
頭を撫でようかと近づいたところで、彼女の違和感に気付いた。
「……本当に、ごめんな。こんな状況で独りにさせて、泣かせてしまって」
絶対に離すまいとギュッと枕を抱き締めて眠る愛梨の頬には、うっすらと涙の痕がある。
あまりの寂しさに泣きながら寝てしまったようだ。
それだけ想われていると実感出来て少しだけ胸が温かくなるが、それ以上にこの大事な時に傍に居られない苦しさが襲ってくる。
しかし、それを選んだのは湊だ。視界が滲むが、そんな権利など無い。
後もう少しの辛抱だと自らに言い聞かせた。
「……とりあえず、起こすか」
本当は寝かせてあげたいのだが、このままにしておくと愛梨が起きた時に大変な事になるだろう。
今の彼女の精神状態なら、代わりに晩飯を作っていても駄目な気がする。
なので心を鬼にして、小さな体を揺さぶった。
「愛梨、悪いが起きてくれ」
「んぅ……。みなと、さん? あれ、わたし……」
本格的に寝ていた訳ではないからか、あっさりと愛梨が目を開けた。
湊を見て無垢な表情で首を傾げたものの、すぐに状況を理解したようでみるみるうちに顔を真っ青にする。
「ご、ごめんなさい。私、わたし……」
虚ろなアイスブルーの瞳がすぐに濡れていき、今にも雫が零れ落ちそうになった。
すぐに頭を撫でて、出来るだけ柔らかくなるように意識しながら言葉を発する。
「怒ってないから落ち着け。寝起きで悪いけど、晩飯を頼めるか?」
「は、はい、すぐ準備します!」
「あぁ、待ってくれ」
「え!?」
あまりにも切羽詰まった表情で立ち上がろうとしたので、細い腕を掴んで強引に腕の中に愛梨を入れた。
素っ頓狂な声が聞こえたが気にしない。今の状態の彼女に料理をさせる方が気になる。
「こんな時間までありがとな。焦らなくて良い、急がなくて良いから、そんな泣きそうな顔をしないでくれ」
こんな時間まで待っていてくれる恋人を怒る訳がない。ましてや寂しくて湊の枕を抱き抱えながら泣いていたのだ。
何も気に病む必要など無いのだとあやすように銀髪を撫でると、愛梨が肩の力を抜く。
「……本当にごめんなさい」
「こら、謝るなって。そんな愛梨にはお仕置きだな」
ぽつりと零された言葉を受け入れる気はないので、顔を上げさせて柔らかい頬を摘まむ。
滑らかな感触を楽しむと、何が何だか分からないという風に愛梨は目をぱちぱちと瞬かせた。
「ふぇ?」
「愛梨、そんな顔をしながら家事をするのは駄目だ」
どんなに気にしないで良いと言っても、愛梨は自分を責めてしまう。そんな心で以前のように機嫌良く家事をするのは不可能だ。
けれど、苦しそうにしているのを見過ごせはしない。
笑いかけながら言うと、再びアイスブルーの瞳に薄い膜が掛かる。
「でも、でも……」
「じゃあこう言おうか? 一緒にご飯を食べよう。普段通りの、物静かで、穏やかな食事がしたい。協力してくれるか?」
特別な事などしなくていいのだ。ただいつも通りの愛梨で居てくれればそれだけでいい。
一緒に頑張ろうと言うと、ようやく彼女はほんのりと笑ってくれた。
「はい、すぐ作りますね。湊さんはお風呂に――あぁ、多分温くなってます。温めますね」
「いいさ、偶にはシャワーだけで済ませるよ」
男の湊はシャワーでも何の問題も無い。
そもそも愛梨が来る前はずっとシャワーだけだったのだから、懐かしさすら感じる。
再び自分を責めないようにと出来るだけ軽く言ったつもりなのだが、愛梨の顔が曇ってしまう。
「……ごめんなさい」
「とう」
「ひゃん!」
どうしても謝ってしまう愛梨の頭に軽く手刀を落とすと、可愛らしい悲鳴が上がった。
それを無視して、今度は両手で整った銀髪をわしゃわしゃと乱暴に撫でる。
「愛梨が来る前はずっとシャワーだけで済ませてたから、俺は大丈夫なんだよ。だから、お前は何も気にせずに料理を作る! 分かったな?」
「……はい」
少し上から目線だったかと心配したのだが、愛梨の顔から険が取れたので一安心だ。
今日は念入りに甘やかすと決めて、乱れに乱れた銀髪を直して風呂場に行く。
くたくたになったはずなのに、不思議と体には元気が戻っていた。




