第119話 有り得ない日常
『悪い、日直だからちょっと時間を潰してくれないか?』
寒さが一段と厳しくなってきたある日。日直の仕事があるので愛梨を待たせる事になった。
申し訳ないと思いつつメッセージアプリで連絡したが、既読がついてから反応が無い。
とりあえず伝える事は出来たので問題ないだろうと判断して仕事を進めていると、ようやく返信がきた。
『でしたら、湊さんのクラスで待っていていいですか?』
「……どうするかな」
日直で待たせる事は何度かあったが、こんなお願いをされたのは初めてだ。
後輩が先輩の教室に行ってはならないというルールは無いし、入っては駄目だという決まりも無い。
それに一人で時間潰しをしてもらうよりかは、傍で待っていてくれた方が安心出来る。
だが、先輩の教室に行くというのは普通緊張するものだ。
ぼそりと呟くと、一緒に日直をしている女子が首を傾げた。
「何かあった?」
「愛梨がここに来たいって言ってるんだが、気まずくならないか心配でな……」
「二ノ宮さんが来るの!? そんなの喜んでだよ!」
「え、ホント!? やったね!」
日直の女子ではなく、残っている数名の女子が弾んだ声を上げた。どうやら聞こえていたらしい。
聞かれて困る事ではないし、その反応を見る限り嫌ではなさそうなので、湊の心配は杞憂のようだ。
それどころか、彼女達に協力してもらえるかもしれない。
「じゃあ悪いけど、日直の仕事が終わるまで、愛梨の話し相手をお願いしていいか?」
「こっちがお願いしたいくらいだよ! ありがとね、九条君!」
なぜか湊が感謝される立場になっているが、お互いの利害が一致しているのでこれで良いのだと思う事にする。
早速連絡すると、想像以上に彼女は早く来た。
教室の扉からひょっこりと顔を出した愛梨が中を見渡す。湊と視線が合うと見るものを魅了する鮮やかな笑顔を浮かべたので、小さい頷きで入るよう勧めた。
「失礼します」
「いらっしゃい! さあさあ、九条君の日直が終わるまで私達とお話しようよ!」
「え? えぇ!?」
おそるおそる入ってきた愛梨はすぐにクラスメイトに捕まった。
動揺して目を白黒させているので、事情を説明しなければならない。
「悪い、俺の日直が終わるまでただ待たせるのも申し訳ないから、皆の話し相手になってくれないか?」
「そういう事ですか。……私は良いんですが、先輩方は大丈夫なんですか?」
「むしろこっちがお願いしたいくらいだよ! いろいろ聞かせて欲しいな、代わりに九条君の普段の事なら話せるよ!」
「でしたら私の方こそお願いします。湊さんの事を聞かせてください」
「おっけー」
話は着いたようで、愛梨を含めた女子達は教室の隅に移動して話に花を咲かせる。
それを残っている男子が羨まし気な目で見るのは、もはや予想出来た事だ。
クラスでの湊の様子がバラされるようだが、変な事はしていないので問題無いだろうと日直の仕事に取り掛かる。
一緒の当番である女子と仕事をしていると、彼女が気まずそうな顔をしているのに気が付いた。
「どうした?」
「ねえ九条君、なんだか二ノ宮さんの目が冷たいんだけど、私が何かしたかな?」
「いや、何も。というかあれは……」
言われてみると、確かに愛梨がこちらを冷たい目で睨んでいる時がある。
今の状況からして、あんな目で見られる原因は一つしか無い。
(あれ嫉妬だろうなぁ……。でも解決方法なんて一つしかないんだよな)
愛梨から向けられるその感情を無くす案は一応ある。
だが、それをすると仕事が大変になるのであまりやりたくはない。
(まあいいか、不機嫌にさせたくはないしな)
嫉妬の感情は愛されているという実感が持てて嬉しくなる。だが、愛梨には笑顔で過ごして欲しい。
「後は俺が日直の仕事をやるから、愛梨と話してもいいし、先に帰ってもいいぞ」
「え、いきなりどうしたの? 流石に仕事を放り出す訳にはいかないでしょ? ……それに、二ノ宮さんに嫌われてるようだし」
話を飛ばしすぎたのだろう。クラスメイトが訝し気に首を傾げた。
彼女の発言は確かに正論なのだが、今回は悪い方向にしか働かない。
ここは正直に言うべきだと重い口を開く。
「……多分、嫉妬されてるだけだ。視線がキツいのもそれが理由だから、嫌われてるとかはないぞ」
「えぇ……。まさかぁ、一緒に仕事してるだけだよ?」
湊達は普通の会話しかしていないため、クラスメイトの発言は理解できる。
だが愛梨の嫉妬は結構なものなので、ここは納得してもらうしかない。
「それでも駄目なんだよ。だから遠慮しなくていいぞ」
「それならお言葉に甘えようかな。ありがとね九条君、後で何かお礼するよ。にしても二ノ宮さんってあんな露骨に嫉妬するんだ。可愛いね」
「お礼とか気にすんな。まあ、愛梨のあれは愛されてるって分かるからいいけどな」
「ひゃー、熱いねぇ。じゃああの中に入ってこようかな」
「あいよ」
クラスメイトは先程まで愛梨に冷たい目で見られていたが、それでも会話したいようで女子の輪の中に入っていった。
その後の様子を見ているとやはり湊の予想は合っていたようで、彼女達が黄色い声を上げる。おそらく愛梨の嫉妬がバレたのだろう。
「さて、頑張りますかね」
一人気合を入れて仕事に取り掛かった。
「ごめんね九条君、お疲れ様ー!」
「ああ、お疲れ」
愛梨と話せて満足したのか、女子の一団は日直の仕事が終わる頃に帰っていった。
彼女達が最後だったので、教室には湊と愛梨だけになる。
今まで盛り上がっていた人達が居なくなり、急に静かになったように感じた。
「ごめんなさい、私の所為で湊さんの仕事が増えてしまいました」
一人で仕事をやる事になったのは確かに愛梨が原因ではあるが、それを責めるつもりはない。
なので、眉を下げて申し訳無さそうに謝る彼女の頭を撫でて慰める。
「良いよ、嫉妬されるのも嬉しいもんだ」
「湊さんは優しすぎます。普通怒るところですよ?」
「愛梨のそんなところも好きなんだから、誰が怒るか」
「……本当に、貴方は」
キッパリと告げると、愛梨は穏やかな笑顔になった。
普段過ごしている何の変哲もない教室でも、彼女の笑顔は輝いて見える。
「そういえば、湊さんの席ってどこですか?」
「うん? ここだな」
戸締りをしようと愛梨から視線を外そうとした瞬間、唐突に話し掛けられた。
その言葉の真意は分からないが、困るような事でもないので席に案内する。
彼女は湊の机を慈愛の目で見つめ、壊れ物のようにそっとなぞった。
「ここで湊さんはいつも授業を受けてるんですね」
「愛梨の教室と変わらない、普通の教室だろ?」
「そうですが、私も一緒の教室で、貴方と一緒に授業を受けたかったです」
愛梨が影を帯びた表情でぽつりと呟く。
以前言っていた、湊達の学年が違う事を憂いているのだろう。
確かにそれは変えようがないものだが、こうして一緒の教室に居るのだから真似事は出来る。
「じゃあ今だけクラスメイトになるか?」
「はい?」
愛梨は湊が急に言い出した言葉の真意が分からず、きょとんとした顔で首を傾げた。
流石に説明不足だったかと苦笑する。
「今この教室には俺達しかいない。だから、クラスメイトのフリをしてもいいだろ」
「なるほど。……そうですね、今だけでもクラスメイトになりたいです」
愛梨が頷きで納得の意を示した。
これから始めるのはただの劇に近い。けれど、それは絶対に叶えられない尊いものだ。
「では早速――湊は優しいね」
「……」
愛梨の唐突な変わりようと、ほぼ向けられる事の無かった敬語を外した口調に、心臓がどくんと鼓動して言葉に詰まった。
何かが違えばこうして一緒の教室に居られたのかもしれないと錯覚するくらいに、彼女の姿は自然に映る。
「そんなにおかしいかな? いつもさん付けで呼んでるから、呼び捨てしても良いかなと思ったんだけど」
「……好きにしてくれ」
硬直した湊がおかしいのか、からかうような笑みを浮かべる愛梨の姿と声に胸をくすぐられ、投げやりに応えた。
ぶっきらぼうな発言なのだが、彼女はより笑みを濃くする。
「ふふ、本当に湊は優しい。優しすぎるよ」
「そんなに褒めてどうしたんだよ」
「だって、私の我が儘をこうやって叶えてくれたんだよ? 湊には敵わないなぁ……」
「何言ってるんだか。どっちかと言うと俺が愛梨に敵わないよ」
湊は基本的に掌の上で転がされる立場だ。それに、自分を除いて優先順位の一番に恋人が来るのは当然の事だろう。
変な事を言う愛梨に呆れ気味に対応したが、彼女はゆっくりと首を横に振る。
「ううん、そんな事無いよ。前にも言ったと思うけど、私がこんなにも我が儘でいられるのは湊が許してくれるからなんだよ。だから、ありがとね」
「……気にすんな。愛梨が笑ってくれるのが一番だ」
「あー、照れてる―」
あまりにも真っ直ぐな好意を直視出来なくなってそっぽを向くと、穏やかな笑みを浮かべた愛梨がからかってきた。
図星ではあるが素直に認めるのは癪なので無言を貫いていると、甘い香りが近くに来る。
「すきだよ、湊。……んっ」
愛梨がいきなり湊の頬を抑えて唇を合わせてきた。
普段過ごしている教室で非日常な行為をしているという事実に頭がくらくらする。
「……はぁ。ふふ、ごめんね、したくなっちゃった」
「もう俺達が付き合ってる事なんて学校中に広まってるからな、別にいいよ」
「じゃあもう一回……」
もう夕闇が空を覆いつくす、静かな教室で二人の影が再び重なった。