第116話 愛梨の隠し事とは
「おかえりなさい」
湊の誕生日である十一月の末。待ちに待った日ではあるが、急にバイトが入って帰るのが遅くなってしまった。
扉を開けると愛梨がすぐ傍に居たので、おそらく湊の帰ってくるタイミングに合わせて玄関で待っていたのだろう。
そんな事をさせてしまったという罪悪感を抱きつつ、声を掛ける。
「ただいま。ごめん、遅くなった」
「いえ、いいんですよ。寒い中お疲れ様でした、預かりますね」
「ありがとな」
顔を綻ばせた愛梨が手を差し出してきたので、遠慮なく荷物を預ける。
居間に着くと既に温かい晩飯が用意されていた。
「時間ぴったりです。私の予想もなかなかのものでしょう?」
「……そこまで把握されてるとは思わなかったな」
どうやら愛梨には連絡してから帰り着くまでの時間を完全に把握されているようだ。
その行動は嬉しいが、もし湊が急な用事で遅れていたらと考えると肝が冷える。
そうならなくて良かったと安堵していると、彼女は穏やかな笑みを浮かべた。
「今日くらいはいいでしょう? 湊さんの行動を管理なんてしませんよ」
「それで頼むよ。……俺の所為で飯が冷えるのを避ける為だからな」
「ふふ、分かってますよ」
ちゃんと説明すると愛梨がくすくすと笑いながら座る。
今日のような事は普段しないという決まりになったが、帰るとすぐに温かい飯が食べられるのは良い事だなと思いながら手を合わせた。
「それじゃあ早速、いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
誕生日が既に把握されていたので、晩飯が豪華になるのではと思ったが、普段よりおかずが多いくらいだ。
それに不満は全く無いものの、愛梨の性格であればもっと手の込んだ物を作るのではないだろうか。
疑問が顔に出ていたのか、彼女がほんの少しだけ申し訳なさそうに眉を下げる。
「本当はもっと豪華にしたかったんですがね。コンロが一つしかないですし、そもそもこの家のキッチンはそういう事が出来るようには作られてないでしょう?」
「なるほど、確かにな。そりゃあどうしようもない」
愛梨の言う通り、六畳一間の家のキッチンなどコンロと流し台があるだけで、とてもキッチンと呼べるものではない。
となれば、あれこれと手の込んだ物を作れないのは納得だ。
気にするなという気持ちを込めて笑みを浮かべると、彼女の顔がいつもの穏やかなものになる。
「とはいえそれでは私が納得いかないので、ちょっとした物を作ってますよ。食後のお楽しみです」
「ホントにありがとな」
「いいえ、気にしないでください」
どうやら愛梨は何らかの食べ物を作っているようだ。
これは後が楽しみだなと思いつつ、とりあえず目の前にある素晴らしい料理を平らげる事にした。
「ご馳走様。美味かった、いつもありがとな」
「こちらこそ、いつもそう言ってくれてありがとうございます。それで、お腹は大丈夫ですか?」
「ああ、まだ多少は入るぞ」
いつものように愛梨にお礼を言うと、彼女はまだ食べられるかと尋ねてきた。
普段より量は多かったが満腹ではない。そう応えると彼女は冷蔵庫の中から丸いものを持ってくる。
「どうぞ、レアチーズケーキです。結構大きめに作ったので、今日中に食べきらなくても良いですよ」
「おぉ……。凄いな」
ケーキは好きだが、コンビニ等で毎日買いはしない。
本格的な物と遜色無い見た目をしているので、非常に味が楽しみだ。
とはいえ、この家にはケーキを作る設備も道具も無かった気がする。
「これ、この家で作れるんだな」
「意外と簡単に作れますよ。そんなに手間が掛かるような物でも無いので、心配しなくて大丈夫ですからね」
「ならいいんだ」
この日の為にあれこれと買ったのではあまりに申し訳ない。だが、愛梨の話を聞く限りそんな事は無さそうなので一安心だ。
肩の力を抜くと、彼女がにこやかに笑いながら言葉を紡ぐ。
「では今日の本題ですね。……誕生日、おめでとうございます」
「ありがとう」
真っ直ぐな言葉にはこちらも真っ直ぐな感謝を返した。
嬉しそうに笑う愛梨が早速ケーキを切り分け、差し出してくる。
「どうぞ」
「それじゃあいただきます。……うん、美味い、最高だ」
見た目から美味いだろうとは思っていたが、やはりその期待を裏切らない出来だ。
短く褒めると、愛梨はほんのりと頬を赤く染める。
「……なんだか湊さんの誕生日なのに、私ばっかり嬉しくなってる気がしますね」
「そんな訳あるか、俺も嬉しいよ。……誰かに祝ってもらえるのは良いもんだ」
一真達からは軽いお祝いの言葉をもらっているので誰からも祝われなかった訳ではないが、それでも心からのプレゼントと言葉は胸が温かくなる。
となれば、この気持ちはしっかりと返すべきだろう。
「だから、愛梨の誕生日の時はしっかり祝うよ。絶対に忘れない」
湊だけ祝われるというのは納得出来ない。
愛梨の時も祝うと伝えると、彼女がきょとんと首を傾げた。
「私の誕生日? ……あぁ、そう言えばもうすぐでしたね」
「忘れてたのか……」
その様子からして、本気で自分の誕生日を忘れていたようだ。
若干呆れながら言葉を零すと、愛梨は少しだけ苦しそうな笑みになる。
「私の家で誰かが祝ってくれたと思いますか?」
「古傷を抉ってごめん」
よく考えれば、浩二さんが愛梨の誕生日を祝うとは思えない。
そうして誰も祝わない内に、自らの誕生日に興味を失ったのだろう。
心からの謝罪をすると、彼女はゆるゆると首を振る。
「いいえ、もう過ぎた事ですから。……と言うか、私の誕生日って伝えてましたっけ?」
「いや、聞いてないな。でも愛梨が風邪を引いた時に生徒手帳を落としただろ? その時に見えたんだ。……盗み見して悪いな」
隠しておくべきではないと思って正直に伝えると、愛梨は複雑な笑みになる。
嬉しいような、気まずいような表情なので、知られた事は嫌ではないらしい。
「別にそれは良いんですが、祝ってくれるんですね」
「そんなの当たり前だろ。愛梨の誕生日を知らないと分かった時はゾッとしたんだ、もし過ぎてたら多分俺は立ち直れなかったぞ」
一緒に住んでいる人の誕生日がいつの間にか過ぎていたなど、考えただけで寒気がする。
ましてやそれが恋人なのだから、絶対に許されるものでは無い。
全く意識しなかった湊も悪いが、そもそも知りようがないだろうとほんのりと愛梨を睨むと、同じような顔をされた。
「その言葉をそっくりお返ししますよ。どうして直前になるまで言ってくれなかったんですか?」
「すみませんでした」
「はぁ……」
そう言われると反論出来ない。しかも湊の方が早いので尚更だ。
素直に謝ると盛大に溜息を吐かれた。
「しかも私に対して普段あれこれと買ってくれているのに、本人は物欲が無いんですから大変でしたよ」
「……ん? 俺に欲しい物が無いのはその通りだけど、何かおかしくないか?」
愛梨の言い方はプレゼントを用意しているように聞こえた。
準備する様子など見せていなかったはずだと振り返っていると、彼女が急に立ち上がってクローゼットを開ける。
「おかしくはないですよ、だってプレゼントがあるんですから。どうぞ」
「……え?」
渡されたのは紺色のロングマフラーだ。
まさかそんな物があるとは思わず、つい呆けた声を出してしまった。
「私が作業してるの、何となく気付いてたんじゃないですか?」
「あぁ、これを作ってくれてたのか。……大変だったんじゃないか?」
最近愛梨が湊の居ない所で何らかの作業をしている事は知っていたが、これを作っていたなど全く考えに無かった。
湊が家に居ないタイミングは確かにあるが、これほどの物を作ってくれた事に胸が温かくなりつつも頭が下がる。
尋ねると苦笑が返ってきたので、やはり大変だったようだ。
「まあ、それなりには。とは言っても単に湊さんにバレないようにしたかったので、あまり時間が無かっただけですが」
「本当にありがとな。大事にする」
こんな大切な物を乱暴に使うなど絶対に有り得ない。きちんと宣言すると、愛梨の顔が綻んだ。
「ありがとうございます。でも、ちゃんと使ってくださいよ? 大事だからって取っておくのは無しですからね?」
「……分かった」
一瞬だけ考えた事をしっかり見抜かれてしまい、顔が引き攣った。
そんな湊の態度にやれやれという風に愛梨が首を振る。
「言っておいて正解でしたね。あと、それの意味はちゃんと分かってますよね?」
「ああ、もちろんだ。一緒に使おうな」
わざわざプレゼントにロングマフラーを選んだのだ。その意味は理解している。
一応一人でも使えはするが、やはりこういうのは二人で使うべきだろう。
そう伝えると、愛梨が柔らかい笑顔を浮かべた。
「はい。楽しみです」
もうすぐ十二月なので、本格的に寒くなってくる。これの出番はすぐそこだ。
同じ物を二人で使うのは胸が温まるだろうと、その日を待ち遠しく思った。