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その日も、いつもと変わらない朝だった。
侍女の一人が部屋へ入ってきて、分厚いカーテンを引くと、明るい陽射しが部屋へ差し込む。
「お嬢様、お時間でございます」
カーテンを開け終わった侍女がこんもりと盛り上がっている寝台へ声をかけた。
「お時間でございますよ」
ーーーしばらく辛抱強く待っていた侍女だったが、ついに痺れを切らし、上掛けを剥がす。
そして、上掛けを持った手がそのまま止まった。
ーーー包まれていたのは、この家の長女であるエレノアではなく、クッションだったのだから。
*****
(今頃、屋敷は大騒ぎになっている頃ね。尤も、お父様は興味もなさそうだけれど)
王都から走らせ続けた馬に水を飲ませてやろうと、土手から川岸へと降り立ち、手綱を握って馬が水を飲んでいるのをぼんやりと眺めながら、ふとそんなことを考えたエレノア。
ダークブラウンの、緩く癖のある髪を編んでから一回り大きい帽子に無理矢理詰め込んでいるその出で立ちは、せいぜい下級の貴族子息か休日の騎士かと言ったところだろうか。
ただ、どうしても体格の貧弱さは隠しようがないので、マントを外すことは出来ない。まだ肌寒い季節なのが幸いだった。
貴族の、それも侯爵家令嬢であるエレノアが、なぜ男の成りをしてまで屋敷を出奔せねばならなかったのか。
その理由は一年前まで遡るーーーー。
「エレノア嬢、どうか私めの手をお取りください」
「君、私のほうが先に申し込んでいるのだが」
エレノアの前で、貴族子息が二人、牽制し合っている。
扇を口元に宛て、緩く口元を引き上げるように見せかけて、エレノアは小さく欠伸をする。
王家主催の夜会で、エレノアは退屈し切っていた。
エレノアの生家であるサージェント侯爵家には、子はエレノアしかいなかった。侯爵夫人亡き後、サージェント侯爵が後添いを勧められても悉く撥ねつけたせいで、直系であるのはエレノア一人だ。
サージェント侯爵家は名門貴族であり、直系の血筋を絶やす訳にはいかないということで、エレノアは婿を取り、その婿が家を継ぐ予定になっていた。
そのお陰と言っては何だが、有象無象、沢山の求婚者が現れては消えていく。エレノアは美しい訳ではない、少なくとも自覚はしている。
求婚者が惹かれているのはあくまでもエレノアと婚姻することによって、自動的に転がり込んでくる爵位なのだ。決してエレノアの見目や人柄に惹かれている訳ではない。
エレノアは、父譲りの吊り気味の目は奥二重なのだが、化粧をしなければ一重に見えてしまい、少々きつい印象を相手に抱かせる。
瞳の色はノーマルな茶であるし、こぢんまりとした鼻と、少々ぽってりした唇……どうせ父親に似るのであれば、完璧に似ればまだ救いもあっただろうが、目の形以外は母によく似た面差しだった。
母親はくっきりとした二重のやや垂れた目を持つ、ふんわりとした印象を持たれる女性ーーー要するに、両親共に似てはいるが、バランスが悪い顔立ちなのだと、自分で結論付けていた。
だが、そんなエレノアとて、幼い頃はお伽噺の一つも信じていなかったわけではない。美しい王子様がいつか迎えに来てくれる、自分はお姫様なのだとーーー。
事実、この王宮で初めて王子に会った時、エレノアは一歩も動けなかった。絵本の中から王子様が飛び出したと思ったら、足が震えてうまく動かすことが出来なかったのだ。
エレノアが動けない様子を見て、サファイヤのように深い青い瞳が眇められ、そこではっと我に返った。
「サージェントの娘は礼儀も知らないのか」
慌てて頭を下げて淑女の礼をとったが、王子は礼を返すどころか、それ以降、にこりともしなかった。それでも、幼いエレノアにとっての王子は、この最悪の出会いをした【ジークフリード】しかいなかった。
初めて王子と会ってから一年ほど経った時、別荘地で偶然出会った。沢山の人々と挨拶を交わしているだろう王子は、エレノアと会ったことはすっかり忘れているようだった。
それどころではなかった、というのが正しいのかもしれない。なぜなら、王子は森の中で足を挫いてしまって、動けずに、泣いていたところをエレノアに発見されたのだから。
その時の王子は、あちこち泥だらけで、酷い有様だった。
「……どこか痛いのですか?」
しばらく木陰で様子を見ていたエレノアだったが、供も付けずに森の中で泣いている王子を放ってはおけないと判断し、恐る恐る近付いて行った。
「い、痛くなどない!」
乱暴に袖で涙を拭う王子の声が、上擦っていることは気付いていたが、王子のプライドを傷つけるつもりは毛頭なかったので、小さく頷くだけに留めた。
「ちょっと待っていてくださいね」
そう王子に告げて、近くの綺麗な小川でハンカチを濡らし、王子のもとへ戻り、そのハンカチを差し出した。
「お顔を、拭われたほうがいいと思います」
王子は素直にハンカチを受け取り、拭った後に気まずそうにそのハンカチを眺めた。
「汚れてしまったな、すまない」
「いいえ、それより、本当に痛いところはないのですか?」
重ねて聞くと、今度は素直に足が痛むと教えてくれる。見せてもらうと足首が赤く腫れていたので、ハンカチを小川で濯ぎ、そこにそっと宛てる。
王子は大人しくされるがままになっていたが、遠くから王子を探す大人たちの声が聞こえてきた。
「ここだ!ここにいる!」
王子は大きな声で居場所を知らせ、エレノアに礼を述べた。
「ありがとう、供の者が来たようだ。ハンカチは後日届けさせる。君の名前は?」
その時の王子の柔らかな笑顔と、明るい陽射し、緑の匂い、その情景をエレノアは今でもはっきりと思い出すことが出来る。
「あの……私、エリーと言います……お屋敷を抜けて来たことを叱られてしまうので……」
暗に家名を名乗りたくないのだと告げれば、王子は訳知り顔で頷いた。
「そうだな、私も知られたくはない。一週間後、またここで会うのはどうだろう?」
「え……」
思わず、王子の顔を見返してしまったが、大人たちの足音が近付いてきた。
「早く行け、待っているからな」
王子に促され、そっとその場を離れる。ーーーそんな風にして、その夏の出来事は始まった。
その年は、具合の悪い母親の療養を兼ねて別荘に来ていたのだが、薄皮を捲るように、本当に少しずつ少しずつ、母親の具合は悪くなっていって、子供心に不安を抱えていたエレノアは、別荘地の近くの森でぼんやりすることが多かった。
小鳥の鳴き声や小川の流れる音、時折聞こえてくるそれらや野に咲く花々に、ほんの少し心が慰められていた。
具合の悪い母を心配させたくない一心で名乗りたくなかったのだが、王子は使用人だと勘違いしていたのだと知ったのは、何度目かの待ち合わせだった。
だが、エレノアはその勘違いを訂正することはなかった。心のどこかで芽生えた感情に蓋をしたかったのだろうと、今では思う。
そんな王子は、大広間に設えられた豪奢な椅子に、国王陛下と王妃陛下と共に座っている。
王家主催の夜会であるから、まだ婚約者のいない王子の花嫁候補たちの色鮮やかなドレスが会場を埋め尽くしていた。
そんな中、エレノアは深い、夜の森を思わせるグリーンのシンプルなドレスを着ていた。既婚のご婦人でも、その色は着ないだろうというような、地味な色合いでデザインも少々野暮ったい。
もう少し綺麗なお色を、という侍女の言葉をねじ伏せ、エレノアは夜会では、特に王家主催や王子がお忍びでやってきそうな夜会には徹底して地味な出で立ちで参加していた。
通常、王子の花嫁は国内の有力貴族、または近隣諸国の王族から迎えられる。現王妃陛下は隣国の第三王女だった方だ。あいにく、王子の年齢に見合う諸外国の姫がいないので、国内の貴族達はみな自分の娘をと躍起になっている。
本来、侯爵令嬢であるエレノアも候補に上がるのだが、サージェント家は婿を取らねばならない。自ずと候補からは外れることになる。
そんな家の娘が、夜会で目立っても仕方がないだろうと、周囲の人々も考えていたし、エレノア本人も同じように考えていた。
それにーーー仮に嫁ぐにしても、エレノアの身体には、消えない傷跡がある。エレノアにとってはどこか誇らしいのと同時に、心を疼かせるこの傷は、嫁ぐには瑕疵となるだろう。
ならば、やはり婿を取る以外、選択肢はないのだ。
そう思い、少しずつ領地経営についても勉強を重ねていたのだが。
ある日、父が後添いを娶り、すぐさま懐妊した義母は珠のような男児を産み落としたーーー正当な後継者の誕生である。
それは、エレノアが侯爵家での立場を失った瞬間でもあった。今までエレノアを支えてきた一本の棒のような物があっさりと折れ、粉々に砕けてしまった。
その日から、一年をかけてエレノアは侯爵家を捨てる為に周到に準備を重ねた。
寡黙で多忙な父と心を通わせることもなかったエレノアにとって、新しい母と異母弟のいるこの屋敷は他人の家と化していた。一人娘に見向きもしなかった父が、異母弟をあやしている姿を見ると、心の中にどす黒い感情が渦巻くのを抑えられない。
そんな醜悪な感情を抱くことにも疲れたし、何より、王子の婚約者が内定したという噂を聞いてから、もう王都にはいたくないと考えるようになった。
エレノアは疲れてしまったのだ。
母を亡くした悲しみを振り払うように仕事に没頭した父は、エレノアを振り返ることはしなかった。だから、エレノアは幼いながらも必死に母の死と向き合い、たった一人でなんとか乗り越えた。
そうして、唯一の後継者として、勉学に励み、淑女として完璧に振舞えるように努力を重ねた。
(一人ではなかったわね……)
馬を労りながら、遠くを見つめる。
次の夏に母が逝ってしまった後、王子が何も聞かずに寄り添ってくれたから、乗り越えられた。だから、あの時、王子を庇って怪我をしたことも後悔はしていない。
エレノアは、緩く頭を振ると、馬を川岸から隣国へと続く街道に引いてゆっくりと跨る。
エレノアの荷物は、少しずつ貯めておいた金貨と母の形見、そして王子から汚れたお詫びにと貰った、綺麗な花の刺繍が施されたハンカチ。それだけだ。
馬上からゆっくりと来た道を振り返る。
ジークフリード様に幸多からんことをーーー密やかな呟きは、風に乗って消えていった。