2018 バレンタイン 甘い恋
Happy Valentine!
バレンタインのコーナー、ずらりと並んだチョコレートの中から焦げ茶色のタータンチェック柄のハート型の箱を手に取る。箱には金の縁どりがされた臙脂色のリボンがかかっている。チョコレートボンボン、8個入り。片手に余るくらいの大きさの箱の側面には金色で『Happy Valentine』の文字。1500円。本命チョコとしては手ごろな値段だ。赤やピンクの包装の箱に囲まれている今は地味に見えるが、上品でいいのではないかと思う。あまり子供っぽいものにしては台無しだから。
「よし、決めた」
これにしよう。
2月14日当日は晴天だった。何かを始めるには相応しい日だ。鞄にチョコレートを忍ばせて学校へ向かう。
教室に入ると、そこかしこから甘い匂いが漂ってくる。教室の隅でくすくすと囁き合う少女たち。それに興味のないふりをしながら、どこか落ち着かない様子の少年たち。口の開いた鞄の隙間から、ノートの下から、のぞいているピンク色の封筒。
彼らから距離を置いて窓際の自分の席に座り、薄く窓を開ける。冷たい風が吹き込む代わりに、甘ったるい香りが逃げていった。
バレンタインのこの浮かれた雰囲気は嫌いではない。しかしどうにもあの輪の中に入っていこうとは思えなかった。ふわふわと甘ったるくやわらかな集団に混じるには羞恥が勝ってしまうのだ。去年までは私もあの中にいたはずなのに、どうしてだろうか。
それでも、スクールバッグの底に入っている箱のことを考えると落ち着かない気分にさせられる。あの蓋はいつ開くのだろう。その時が待ち遠しい気もするし、永遠に開かないでいてほしい気もする。
見上げた空は薄い水色に染まっていた。
誰も彼もそわそわとして、うわのそら。意味ありげに交わされるアイコンタクト。薄紅に染まる柔らかそうな頬。時計だけはいつも通りに時を刻んでいたはずなのに、終わってみれば妙に速い一日だった気もする。とにもかくにも放課後。
私は鞄を持って真っ直ぐにとある場所へ。
靴箱付近で告白しているのは一年生で一番の美少女と評判の彼女。相手はこれまた優しくてかっこいいとモテているサッカー部の先輩。お似合いのカップルに悔しがる観客の横をすり抜けて部室へ向かう。
「こんにちは」
「やあ」
いつも通りの笑みで彼女はいた。我らが新聞部の部長様だ。この部室は彼女のお城のようなものである。たった4人しかいない部員のうち、私と彼女を除いた一年生の二人は今日は来ないはずだった。適当に開いている椅子を引き寄せて座って、チョコレートの箱を取り出す。
「おや、それは私にくれるのかい?」
意外だ、と彼女が眉を上げる。
「まさか。これは自分用ですよ」
冗談だとわかっているので軽く流す。箱の赤いリボンをそっと解いて、蓋を慎重に真上に引き上げる。綺麗に並べられた茶色のハートが8つ。
「甘そうだな」
濃くなったチョコレートの香りに鼻をひくつかせて彼女は言う。
「チョコレート、貰ったんですか?」
私がドアを開けた時には、部室には既にチョコレートの香りが漂っていた。
「いいや。私も、自分用だ」
彼女は私のものよりも一回り小さい四角い箱を出してきた。値段は倍はしそうなものだが。
「食べるかい?」
「いただきます」
口に入れると、すぐに外側から溶け落ちる。パリ、と突き破る感触がして、苦い味が口腔内に広がった。喉を焼くような刺激と、アルコールのつんとした匂い。
「これ、お酒入りじゃないですか」
よく見れば先輩の目元は薄らと赤く染まっていた。しかしそれは慣れないアルコールのせいだけではないことに気づく。鼻の先もほんのり赤くなってしまっている。そして彼女の後ろに掛けてあるカレンダーには今日の日付がハートで囲んであった。手っきり後輩たちがやったものだと思っていたが、少しラメが入ったオレンジ色のペンは先輩のお気に入りだったはずだ。そしてこの、明らかに大人向けのチョコレート。
「苦いだろう?」
私が気づいたことに気づいたのか、先輩は笑った。
「そういうことだ」
そういうこと、とは。先輩の好きだった人は、たぶん私の知っている人だ。だけれども、今ここでそれを追求するなんて無粋なことは必要ないし、きっと一生することはないだろう。
苦い、甘いチョコレートは恋の味。バレンタインらしい話だ。
「じゃあ、口直しにどうぞ」
私のは、ただ甘いだけのチョコレートだ。ゆっくりと舌の上で転がす。溶けていく。雪のように、たった一筋の甘さだけを残して、跡形もなく消えてしまう。ああ、私が欲しかったのはこれなんだと思った。サッカー部の彼の姿も消えていく。幼い、恋に憧れる恋を溶かすこと。
「初恋は、叶わないんだなあ」
溜息と同時に、一筋の涙が頬を濡らす。
「そうだな」
一つ一つ、記憶を溶かしていくようにチョコレートを食べた。
きっとこの味は、忘れられない。