プロローグ
朽木良介は嘆息した。
まるで今世紀最大の苦行を成し遂げに行くかのように、顔を歪ませている。
整った顔もこうなっては足の裏同然だ。
最も彼は、この頃毎日のように足の裏を生産しているのだが……
「よっ良介!まーた、嫌そうな顔して……
お母さんのことか?」
ずけずけとモノを言う彼は主人公の腐れ縁、高木俊である。
「って、ストレートだな。お前には遠慮ってもんが
ないのか?」
「えー、だって事実だもん」
幼い顔をにこにこ緩ませて良介を見ている。
本当の意味で無垢な彼を、良介は心底心配していた。いや本当に。
「俊、お前ってやつは……かわいそうに。
んで、その発言の根拠は?」
「だってさぁ、ホラ。」
皮肉に気づかなかった彼は、あれだよ、と言って窓の外を指差した。
高校の中庭は、まるで春の暖かな空気に抱擁されているかのようである。桜が満開だ。
「桜綺麗だね。それがどうしたの?いくら俺が捻く
れ者だって言っても、桜を毛嫌いするほどではない
よ。」
良介は桜が好きだった。……去年までは。
今でも嫌いではないが。
……もちろん、俊はそんなことを言っているのではない。
「けっ、とぼけやがって。羨ましい奴め!
何が嫌なんだよー、俺と変わってほしいぐらいだ
ぜ」
「そうできるならとっくにそうしてるさ。
俺は、お前と違って、ただ静かに日常をやり過ごし
たいの。あーいうのは、めんどくさいの。」
華やかな中庭と外を隔てる門の向こう、道路にどっしりと構える「それ」を睨む。
彼の静かな日常は、現在進行形でぶっ壊されている途中なのだ。
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ちょうど去年の今頃のことだ。
朽木大輔と名乗る男が、良介の前に現れたのは。
志望校に合格し、無事に高校に入学することができた良介は、その日、母親と妹と3人での楽しい花見を予定していた。
ぶち壊したのが、その男だ。
母親は笑顔で男を紹介した。
急に現れたかのように見えたその男は、どうやらその当時の2年ほど前から、母親の周りで巣を作ろうとしていたらしい。
その頃といえば、良介の父親が死んでから1年半ほどしか経過していない時期である。
やられた、そう、良介は思った。
頬を染める母親も、デカいくてゴツいのに、素朴で、どこか上品な雰囲気を纏ったその男も。
何もかもが気に入らなかった。
その日は彼の合格祝いのはずだった。
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校門をくぐり、駅に向かう。
他の生徒は、何故か学校の前に停めてある立派なリムジンに目を奪われているが、良介はそんなこと、気にもかけない。
足の裏は人間の顔に戻りつつあった。
今日も下校中の40分、静かな日常を取り戻すことができる。
そのことが、彼の心を軽くした。
早足で駅に向かいながら、学校に放ってきた俊の顔を思い浮かべ、一応心の中で平謝りしておく。
現実には一生無いことだろう。
いつもの平凡な並木道も、桜で飾り付けるだけでここまで美しくなるものだろうか。
学校は都会から離れている。
そのためか、大通りを走る車もまばらで、騒音もない。
都心育ちの良介にとって、これは少し不思議な光景である。
しかし、そのことが、桜の美しさを一層引き立てているように思えた。
空いた車道を流れるように走行する、車たちを眺めながら歩いていると、突然視界が遮られる。
ついさっきまで、視界を遮るものなんて無かった。
後方から突然「それ」は現れて、車道近くを歩いていた良介の横で動きを止めた。
見間違えるはずもない。それほどにインパクトのでかい代物。
……リムジンだ。
先程学校の前に停められていたもの。
彼は、このリムジンを知っている。
もちろん、学校の前で見たから、というのも間違いではない。
だが、それよりもっと前から知っていた。
(甘く見てた。今までこんなことしてこなかったの
に、なんで……
これじゃヤクザに追われてるみたいじゃないか!)
なるべく人目につきたくない彼は、車道から離れるため方向を変えようとする。
したのだが。
ふいに後ろから、ぽん、と肩を叩かれて我に返った。
そんな行動を取ったらもっと怪しいではないか。
自嘲気味に苦笑いを浮かべながら考える。
今後ろにいるのは誰だろうか。
俊だろうか。
……いや、そんなはずがない。
走ってきたのであろう。
息を切らしてそこに立っていたのは、背広を着込んだ男。
良介も、家ではよく見る顔だ。
……よく見るだけで、話をしたことさえないが。
(……これだからイヤなんだよ……)
背広の男とリムジン。
これは、最近良介の心を煩わせている要因のひとつ……いやふたつだ。
今日こそ逃げ切れなかった彼は、大きく嘆息した。