⑭
相手の影を負って走り出した彼女に、半拍遅れて冬夜も追いすがる。1階に上がり、外に逃げ出すかと思われたそれは、しかし二人の予想を裏切って更に上の階へと上っていく。
次々に階を超えて行き、ついに相手は五階で階段を飛び出し、手近な部屋に飛び込んだ。
かつてはオフィスだったのだろう。埃まみれになったカーペットに、取り残されたいくつかの机が置かれたままの開けた部屋の中、それは窓を背にして立っていた。
「ついに観念したってとこかいな?」
「ここで決着をつけるつもりだろうな」
京花に続き、冬夜も部屋に駆け込み、身構える。
窓から差し込む逆光の中、それは赤黒い瞳で二人を睨みつけ、獣の唸り声をあげていた。
人の形をした、人では有り得ないモノ。
ズタズタの体は先日墓場で対峙した時に比べいくらかはマシになっている。骨と皮ばかりで、向こう側が透けて見えそうだった体には薄ピンクの肉がむき出しのままついている。
人体模型を想像させる、不気味な怪物がそこにいた。
化物に片腕はない。前回の戦いで冬夜に吹き飛ばされ、まだ再生が間に合っていないのだった。
無言のまま構える冬夜を、しかし京花が手で制して半歩前に出る。
「おい」
「まぁ待ちや。この前のお詫びや。ここはおねーさんに任してもらえん?」
言いながら、京花は冬夜に目を向けることもなく化物に歩み寄っていく。
構えるでもなく、ごく自然な、無防備にさえ見える足取りだった。
「前の時はあたしがちゃちゃ入れてもうた所為で逃げられた訳やし。ちょっとは責任感じ取るんよ? だから、」
場の空気が張り詰めた。京花の体から放たれた殺気がこの部屋を満たしたのだった。
ゆらり、と。彼女の体が僅かに揺れる。
「任せた」
冬夜が一言、許可を出すよりも先に彼女は動いた。だらりと垂らしていた腕が閃いて、銀光が放たれた。そう思った瞬間には、化物の胸の真ん中に小さな刃物が生えていた。
手裏剣の直撃によるダメージか、それとも不意の一撃に反応が遅れたのか、化物が一瞬硬直する。その隙を見逃さず、彼女は一息で距離を詰めていた。
右足が跳ね上がる。
つま先が化物の顎を蹴り上げた。冬夜との戦いで見せた前蹴り……しかし、あの時は加減をしていたのだろう、今の彼女の技は、あの時と比べ物にならない程に鋭く、速い。
常人ならば顎の骨を蹴り砕かれていてもおかしくない、そんな一撃だった。
細身で、一見して華奢にさえ見える彼女だが、女性にしては身長がある。冬夜よりも五センチは高いだろう。まるでモデルのような均整のとれたプロポーションの持ち主だった。
その分、脚も長い。蹴りのリーチは冬夜を遥かに上回っている。そして、何より、彼女の持つ女性特有の柔軟性は冬夜にはないものだった。長い脚を自在に振るって放たれる蹴りは、とても真似出来そうになかった。
「よっと!」
突き抜ける衝撃に体を仰け反らせながら、化物は苦し紛れに腕を振るった。
片方しかない腕では、幾分攻撃にキレがない。だが、万全の状態において墓石を抉る怪力をもつそれである。片腕であっても、人一人を屠るには十分すぎる威力を持っている。
目にも止まらぬ速さで薙ぎ払われた腕を、蹴り脚が地面に戻るとすぐに、京花は危なげもなくバックステップで躱してみせた。
彼女の顔にはうっすらと笑みすら浮かんでいる。この状況を楽しんでいるのだ。
顔の前を爪の先が通過するのを見終えると、再び彼女は踏み込んだ。
先ほどよりも深い。彼女の脚技が逆に不利にさえ思える距離だ。
「ほぅ……」
冬夜は思わず感嘆の声を上げずにはいられなかった。
懐に踏み込んだ彼女は、今度は膝を相手の鳩尾のあたりにぶちこんだのだ。
間合いの取り方が絶妙だった。次の相手の動きを完全に把握し、利用し、己の術中にはめていく。
見事な連携技だった。
体をくの字に曲げて、化物がよろめいた。生じた大きな隙を、彼女は見逃さなかった。
京花の口元が吊り上がるのが見えた。決めにいくつもりなのだろう。彼女の顔に浮かぶのは、凄惨な笑みだった。己の全力を出す事を、技を思うままに振るう事を楽しんでいるのがひと目で分かる、獣の笑みだった。
「ひゅッ!」
彼女の息吹が、木枯らしに似た音を立てる。その瞬間に目にも止まらぬ速さで彼女の右足が跳ねあがった。
上段前回し蹴り。
冬夜をもってしても目で追うのがやっとだった。右足で繰り出された右のつま先の先端が、化物の側頭部を捕らえた。そう思った時には京花の体がその場で旋回し、左の踵が寸分違わずに先の一撃と同じ場所を蹴り抜いていた。
何が起こったのか、気がつくことが出来たのは化物が首を不自然な方向に曲げて床に倒れ伏した時だった。
最初の回し蹴りから、後ろ回し蹴りへの接続。一撃目から相手がよろめく間すら与えずに二撃目を見舞う、疾さと正確性を備えた蹴り。さながら芸術と呼べる程に洗練された技。
ぞわり、と。身の内から湧き出す物があった。全身が総毛立つ、凄まじい感覚だった。
それは、京花の技への感動と、恐怖が入り混じったものだった。
「ふぅ。まぁ、こんなもんかな?」
両手をぱんぱんと叩いて、京花は一息をつく。先程までの獣の笑みはそこにはなかった。
「見事だ」
何の感慨もなさそうに冬夜はそう言った。それしか言う事は出来なかった。
「もうちょい褒めてくれてもええんやない?」
彼女は不服そうに頬を膨らませるが、冬夜はそれ以上何も言わず、化物に近づく。
「滅ぼしたのか?」
「さぁ? 首の骨折ったから、人間なら即死やろうけど、この手の化物は不死性高いからなぁ」
用心深く化物を覗き込む。
まだ息があるのか、それは小刻みに震えていた。首が右側に不自然な角度で曲がっている。彼女言うとおり、骨がへし折れていた。
「前に見たときよりも、人間に近づいているな」
以前に比べ明らかに肉のついた体を観察して、冬夜が眉を潜めた。
最初に滅ぼした個体も、先日取り逃がした際のこの個体も、かろうじて人の形をしているだけの何かだったが、今目の前にいるモノはそれらに比べれば遥かに人間に近い。
どうやらこの化物は成長をしているらしかった。
「このまま放っといたらどこまで人間に近くなるんか、ちと興味でてくるなぁ?」
「笑えない冗談だ」
からかうような京花の台詞に、冬夜は吐き捨てるように答えた。
本当に、冗談では済まされない事だった。
口では面白そうにしているが、京花も既に笑ってはいない。事態の深刻さに彼女も気づいているのだ。
人を襲う獰猛性は最初の戦いで確認している。とても一般人では対処が出来ない。
それでも、今はまだ良い。闇に潜んで獣の肉を喰っている今のうちならばまだ、少なくとも人への危険性は少ないだろう。
だが、このまま行けば人の肉の味を覚えるのは時間の問題だ。
今の時点でも獲物を隠すだけの知能があるのも非常に厄介なところだった。人を喰らう化物が、街の中に人の姿で隠れ潜む……想像するのも嫌になる展開が脳裏をちらついた。
「こいつどうするん?」
京花は、まだ痙攣を続けている化物を軽く蹴飛ばして仰向けにしてみせた。
折れ曲がった首のまま、化物は双眸に赤黒い光を湛えたまま二人を睨みつける。
かたかたと、歯がなる音がする。今にも食いつかんばかりの凶相だった。
内にある憎悪が、そのまま形になったような顔だった。
「……滅ぼす。今、この場で」
僅かな沈黙の後、冬夜はそう判断を下して、自らを睨みつけるそれと目を合わせた。
化物に劣らず、深く重い、殺意のこもった目だった。
「ええの? 折角生け捕りにしたんやし、調べれば色々分かるんとちゃう?」
「調べるにしても時間がかかる。術を自力で振りほどいて逃げる奴だ。今の装備では縛り付けておくにもリスクの方が大きすぎる」
呪符を一枚、指に挟んで取り出す。先日注文したにも関わらず、一向に届く気配のない呪具は残りわずかとなっていた。呼吸と共に練り上げた魔力を紙きれに流し込もうとしたその時、京花が何も言わずに、横たわったままの化物の胸のあたりを踏みつけた。
「何を……」
何をするのかと、そう問いかけようとして冬夜は目を見開いた。
化物が口を大きく広げていた。真っ赤な口内が光の下にさらけ出される。喉はおろか、その奥までをもさらけ出さんばかりに開かれたそこから、半拍遅れて絶叫が迸った。
断末魔と、そう呼ぶ以外にない、目を背けたくなるような叫び声だった。
バタバタと、片方しかない腕で虚空を掻く。溢れ落ちんばかりに、目が見開かれている。
どこに手を伸ばしているのか。どこを見ているのか。何を掴もうとし、何を見ようとするのか。それは未来では決してありえない。その証左と言うように、その手は地に落ちた。それでも必死に床を這う指先が、カーペットを掻きむしって嫌な音を立て、やがて手の動きは止まった。その骨ばった手の中には何も握られてはいなかった。
ごろり、と。
冬夜達の見ている前で、化物の片方の眼球が眼窩から落ちた。転がる中で瞳は規則的に天井と床を往復して止まった。濁りきったその目が最後に写したものがなんであったのか、それは誰にも分からない。
「……後味、最悪や」
ぺっ、と唾を吐き捨てて、苦々しげに京花は化物に乗せた足を下ろす。途端、支えを失ったかのように化物の体が崩れ始めた。
それは肉が腐り溶けていくようにも、砂山が潰れていくようにも見えた。
二人の見ている前で、化物だったそれは、間もなく灰とヘドロの混じったような、どろりとした水溜りへと姿を変えていた。
むせ返りそうな、耐え難い匂いに閉口しながら冬夜は京花に向き直る。
「何をした?」
「別にたいした事はしとらんで」
そう言って、彼女は嫌そうに汚泥の中に突き立っていたそれを指先で拾い上げた。
一本の手裏剣だった。
「最初に心臓の真上くらいに打ち込んだんやけど、刺さりが甘かったようやからな。きちんと心臓まで食い込ませてやったんよ」
「心臓だと?」
「そや。アンデッド系の化物の殺し方は知っとるよな? ドタマかち割る、喉元掻っ切る。それから心の臓に一撃。それを試したんや」
「それはそうだが……」
彼女の言うのは不死者を倒す代表的な手法だった。
だが、心臓を……胸を貫いても滅ぼしきれない事は前の個体で実証済みである。それを冬夜の微妙な様子から察したのか、
「ん? もしかしてもう試してたん?」
「あぁ。胸を思い切りブチ抜いてやったが、滅ぼしきれなかった」
「乱暴やな。まぁその話は置いといて、こっから先は個人的な見解なんやけど」
そう前置いて、
「不死系に限らず、人がベースになってる化物には明確な“死”を与えてやるんが有効らしいんよ」
「明確な、“死”?」
「そや。頭といい、首といい、心臓といい、どれもこれもやられたら基本的に一発即死やろ? ここをやられたらあかん死ぬ……っていうポイントやな。そういう所をピンポイントで狙ってやるのが効果的なようやね」
「なら、首の骨をへし折ったのも有効なはずだが?」
「んー……認識の問題のようや。首の骨折れた、っていうよりも心臓に穴空いたって方が致命傷感あるやん? 実際はともかく」
「それは……」
いささか強引な理論だったが、冬夜は頷いた。
「人ベースの化物っていうのは、どうしても人間の頃の常識? 認識? なんかそんな感じなのに引っ張られるらしくてな。人間の頃の、致命的な弱点だって認識出来てる場所つかれると弱いんよ。特に、自分が人間だって……人間だったって認識が強い相手は」
「待て。言いたい事は分かった。だが、答えになっていない。オレが聞きたいのは、この間胸を貫いても無事だったこの化物が、何で今になってそんな刃物で滅んだのかだ」
京花は溜息をついて、一瞬汚泥に目をやると、冬夜に向かって淡く微笑む。
「前に見たときよりも、人間に近づいている……そう言ったのはとーやくんやで」
息を飲む音が、静かな部屋の中でやけに響いた。
冬夜が言ったのはあくまで見かけの話に過ぎなかった。だが、彼女の見解が正しいとするのであれば、それはつまり認識が―内面までもが成長し、人に近づいている事の証明。
内面の成長とは即ち、知性さえも上がっていく可能性を示唆していた。
「ねぇ、とーやくん?」
淡い笑顔のまま、彼女は妙に穏やかな声を少年にかけた。
「何だ?」
「あたし、今、もっと怖い事気づいたんやけど、言ってええかな?」
「……何だ?」
「ほんまに言ってええ?」
「いいから早く言え」
歯に物が挟まったかのような、やけにまどろっこしい彼女の様子に、冬夜は首を傾げながらも、次の言葉を促した。
「地下室で見かけた人影、両腕、あらへんかった?」
「な……っ!?」
驚愕に身を強ばらせたのは、一瞬。
コートの裾を翻して、扉を蹴るように開けて階段を駆け下りる。もう手遅れであるとは知っていたが、それでも落ち着いているわけにはいかなかった。
ビルを飛び出し、左右に注意深く目を走らせる。いつの間にか傾いていた日の光が、街を赤く照らしていた。
「くそ……ッ」
目を閉じて、呼吸を整える。
神経を限界まで張り詰めさせ、周囲の気配を探ろうと試みるが、焦る気持ちが先行する今の精神状態ではそれさえも上手くいかなかった。
よしんば出来たところで、相手が索敵範囲外に逃れてしまっていては効果をなさない事は知っていたが、それでも何かをせずにはいられなかった。
「やめとき。時間と労力の無駄や」
ぽん、と。冬夜の肩に軽く手が乗せられた。
「さっき地下室におった時も、敵さんの気配感じ取れへんやったやろ?ただでさえ隠れんのが得意な奴や、もう、出来る事はあらへんよ」
「……ちッ」
彼女の言うとおりだった。
地下室で見た敵影は、確かに両腕がついていたが、今しがた滅ぼした敵は隻腕。追跡の途中で入れ替わった可能性が高い。おそらくそれは意図的なもので、仲間なのか、それともただの使い魔なのかは知らないが、先程の化物を囮に自身は逃走の一手を打ったのだ。
それほどの頭を持つ相手が、今更この辺りをうろうろしているとは考えにくかった。
何故、敵が一体だけと錯覚していたのか。己の迂闊さを心の底から呪いながら、大きく舌打ちを一つ。残り少なくなったタバコを咥え、火を点けた。