最後ニ紡グ言葉ハ
沢山の花に囲まれ薄く化粧をして微笑む顔を見ていた。
幸せそうに眠っている姿は木の箱に入ってる以外、普段と何の変わりもない。
頬を伝う何かが、口から出る何かが、まるで自分から出ているものだと感じることが出来ないくらい意識はハッキリしなくて、上から自分を見ているようなフワフワした気分で黒い服を着た私はそこに座り込んでいた。
どうしてこんなにも悔いた気持ちであなたの前に居るのだろうと考える。
「ただいま」
声は響き、あなたに届く。返答はない。
『おかえり』はないの?
いつも言ってくれてたのに。
おばあちゃん。
私の大嫌いだった人。
物心つく頃には、隣にはいつもあなたがいた。
両親、祖父母、兄の六人家族。
共働きの両親は昼間は家を留守にする。
祖父はギャンブルが好きな人で殆ど家には居ない。稀に家に居て機嫌が良いと、棟梁だった祖父は建築中の現場に連れて行った。其処に居る大人と話たり、仕事の邪魔にならない程度に資材でよく遊んだ。
三つ上の兄は幼稚園に通っていた。
あなたと二人だけの家。
家に居ると何かと忙しなくしている人だったから、自然と一人遊びが上手くなった。
それ以外の時間は私を連れて外に出た。大人用の三輪車。その台車に座布団を敷き、後ろを向いて流れる景色を見ていた。
会話は特にない。いつものこと。
あなたは沢山の友人がいた。その友人達との会話に花を咲かせる。傍でジッと聴いているだけの時間はとても退屈で、色々な物を触ってみたくなる。そういうお年頃。
怒られると言う恐怖と好奇心が葛藤するけどいつも勝つのは後者で、見つかってはいつも酷く怒られた。
『お前はいっつもしずないなぁ。おにいはいっつも静かにしてっけよ? んだからお前はー…』
あぁ、またかって思うんだよ。
また兄と比べられて、その目で蔑むのかって。
兄は生まれたときから静かな子だったらしい。全く話しもしない暗い子と言う訳ではないが、大人しい子とよく言われていた。そして祖父母にとっては初孫で、目に入れても痛くない、貴いものだった。
一方の私は兄とは真逆で、生まれた時から元気が有り余ったような子だった。
全てのことが早かったらしい。寝返りも座るのも立つもの歩くのも話すのも、そしてオムツが外れたのも全て一歳前に終わったと母親が自慢げに言っていたことがあった。
兄とは仲が良かったと思う。いつも金魚の糞みたいにくっ付いていた。
大好きな兄には沢山の物が与えられる。私はそれを全て欲しがった。菓子も玩具も洋服も全部、兄と同じが良かった。
年下だから仕方ないのと言われても理解出来ない。だって優しい兄は苦笑しながらも私に何でもくれたから。
でも、いつもその手は払い除けられる。あなたの手で。お前の物ではない。兄の物だと。
どうして私には無いのかと言ってもちっとも聴いてもらえなかった。兄だったら何の文句も言わないのにお前はと、可愛く無いとその度に罵られた。
大好きだった兄はいつの間にか、比較対象でしか無くて、越えなきゃいけない壁のようになっていて、いつも負けないようにと対抗意識を持っていた。
両親はそれを理解してくれていた。母は何かあなたが言おうとすると、上に行きなさいと逃がしてくれた。父が居るときは傍においでと言ってくれた。
一番記憶に残っているのは、風呂場での出来事。
ハッキリと覚えてはいないが、多分私が悪いことをしたんだと思う。
あなたが般若のような形相で、私を風呂蓋の上に突き飛ばし此処で反省しなさいと戸を閉めて出て行った。
暫く呆然としていた私にミシミシという音が聞こえた。
何の音と思った時には蛇腹式の風呂蓋は壊れ水の中に落ちていた。
深く無い、私でも足は着く、分かっている筈なのにパニックになっている状況のせいで溺れそうになり器官に水が入って少し咽せた。
ずぶ濡れの私を見て早く下りれば良かったのにとあなたは言った。
あなたへの感情は恐怖から嫌悪に変わる。憎悪に変わる前に蓋をし、出来るだけ関わりを持たないようにしようと考えたのは五歳だった。
家に居ないで外で遊ぶようになった。自然に友だちも出来た。昼前には一時帰宅して昼食を一緒にする。女の子なのに服を汚してと毎回怒られたけど、昼寝をしたらまた外に出た。そして母親が帰宅する時間に合わせて家路に着いた。
天気が悪い日は極力静かに過ごした。一階には降りずに二階にいた。
幼稚園に入園してからは天国だった。初めのうちは午前中だけ預けられていた時間がオヤツを食べてから帰るようになった。憂鬱な時間は少なくなった。
学校の長期休みは殆どを母方の祖父母の家で過ごした。
周りは緑ばかり。隣の家まで歩いて五分と言う場所。近くに子どもは居なかったが、牛を見に行ったり、関の水で遊んだり、森に入って探検したり、毎日が冒険みたいだった。
従兄妹たちも御盆や正月は集まった。これが私の家族ならと考えたこともあった。
正月や御盆は実家に帰るものなのに泊まりに行くやつが何処に居るとあなたは母親にきつく当たっていたことを大人になってから知った。それを両親が宥めてくれていたと兄が教えてくれた。
その生活は私が中学校を卒業するまで続いた。
高校生になってからも祖母との関係は相変わらずで、反抗期に差し掛かった私はよくあなたと揉めた。
煩いな。
構わないで。
何でそんなこと言われなきゃいけないの?
私の口癖。
兄が背負っていた期待は、近隣の県に進学をして家から出て行ったことにより私だけに向けられるようになり、それが煩わしくて仕方なかった。
ホームヘルパーの資格が卒業と同時に取れる農業高校を選んだ。
家に居る時間が少なくなるように部活に入った。日本舞踊の同好会があり興味を惹かれてそこに入った。小遣いも欲しいと土日だけシフトに入ることができるバイトもすぐに始めた。
高校一年生の後半は寮生活だった。
クラスメイトとの相部屋。他人と過ごすのはかなりの抵抗があったが、小言を言う人が居ないと思うだけで天国に思えた。
二年に上がってからは部活とバイトの日々に生徒会まで加わる。学校に居る時間が長くなり、自然とあなたと会話する機会が減っていった。
高校卒業した三月のある日、祖父が眠りについた。
毎日喧嘩してばかりの二人だったが、長年連れ添った人間が傍から居なくなるとあなたは正気を失ったように一気に老けた。
それに気が付いたのは、進学した学校の長期休みを利用して実家に帰ってきた夏のことだった。
目の前のあなたは本当におばあちゃんそのもので。
小まめに染めていた黒い髪の毛は見る影もなく白髪頭になっていた。
綺麗に化粧され実年齢もはるかに若く見ていた顔は、痩せたことにより更に皺が寄っていて年相応だった。
腰も曲がり、沢山あった綺麗な洋服で身を包んでいたあなたが今は着脱が楽な部屋着で椅子に座って微笑んでいた。
『おかえり』
「ただいま」
昔と変わらないのは声だけで、それを聴いて何故か泣きたくなった。
昔から患っていた病気は更に進行し、いきなり倒れるときがよくあるそうだ。骨の密度も減っていて何時折れるか分からない。それに認知も始まっているから、これから色々と忘れて行くかもしれないと父親が言った。
あんなに大きいと思っていたあなたはとても小さくなっていて、私の手を借りないと部屋まで戻ることが出来ない。
『ありがとう』
次の朝、迎えに来た私にかけた言葉は朝の挨拶ではなかった。
私が部屋に行く度にあなたは嬉しそうに笑った。
あれだけ罵っていた唇から今は感謝の言葉しか吐かない。
それを複雑な想いで聴いていた。
長期休みは実家に帰省する。
深夜バスで七時間。学生は何時だって金欠だ。
三列シートと言っても通路も座席も狭い。シートを限界まで倒し、フットレストを上げてそこに膝を立ててブランケットと上着に包まって眠りに着く。自分が出来るだけ疲れることなく過ごせる態勢を探した結果この格好になった。
あれだけ嫌っていた実家に深夜バスの復路のチケットが取れる期間ギリギリまでゆっくりと過ごす。
あなたの為に。
滑稽だった。
でもそうしてあげたかった。
二十歳の年を迎えた一月。私は成人式に出席した。
黒色の総絞りの振袖。金色の帯。
雲取りの古典柄は少し大人っぽいデザインで、それに合わせた金の西陣織の帯は品がある。羽毛のショールまで、純白ではなく黒と白が混ざっていて、同じ物を着けている同級生を見ることはなかった。
色鮮やかな着物に身を包む同級生たちの中に入ると私は地味なのかもしれない。でも自分に一番似合っているもので、一番素敵なデザインだった。
似合うと皆が言った。今まで撮ったことのない量の写真を撮った。
これを私に贈ったのはあなただった。
この日の為に、この日だけの為に、振袖から小物まで全部を選んで、何年も掛けて少しずつ少しずつ支払っていた。
月日はあっと言う間に過ぎていく。同じことの繰り返しのような日々に、突然それはやってくる。
オレンジ色のベールを被った陽が姿を隠す時刻。大事な面接が明日に迫り緊張している私に、無機質な電子音が耳に響いた。
それは自宅からで。
あなたが倒れたと言う知らせ。
今は父親が病院に連れ添っている。
でも、多分…
たぶん?
また連絡すると電話は切られた。
私はただ呆然とそこに座り込んで、どのくらい経ったのかまた鳴り響いた携帯の着信の音で現実に引き戻された。
一度だけ苦しんだけだった。とても静かに、呆気なかったよ。もう少し頑張ってくれたらと言う母の声は震えていた。
明日の面接は受けなさい。その後に帰ってきてと言い残し電話は切れた。
私は酷く冷静だった。
すぐに新幹線の時刻を調べた。面接の場所と時間を考え、乗車出来る最速の切符を予約した。面接と帰宅する準備をして、皺にならないように喪服は鞄と別に持った。
面接が終わってすぐ走る。昨夜は眠れなかった。しかし気分は驚くほど落ち着いていて、面接に落ちるなんて気持ちは微塵もなかった。
何本か電車を乗り換えて、新幹線のホームに着く。眠ることもなく数時間揺られて降り立つ。また乗り継ぎ、電車に乗る。
ただひたすらに機械的に動きながら実家の最寄り駅に着いたのだと気付く。
肌に刺す夜風の冷たさが冬の訪れを告げていた。
辺りを見渡すと探していた人物を発見する。友人は手を上げて待っていた。家族や親戚は忙しいと思い迎えは頼まなかった。
お疲れと告げた友人に、ありがとうとだけ返して車に乗り込み目的地まで静かな時間を過ごした。
車が止まる。
目の前の看板には私の名字が書かれていて、これは嘘ではないと語っていた。
友人にもう一度感謝の言葉だけを残して車を見送った。
建物の中は薄暗い。静寂に包まれている一階には二階からの声が響き、階段を登ると明るい光が差し込む部屋を見つけて戸に手をかけた。中に入ると皆が居て開いた扉を見ていた。
父は長い道中と面接を労って、帰省は明日でもよかったのにと言った。
母は空腹の心配をした。起きてから水分以外何も口にしていないことにこの時、初めて気が付いた。
兄は近づいて来て、まず挨拶してこいと言った。
母は微笑んである場所を見つめる。その方向に私は歩き出した。
数秒しかたっていない筈の時間はとても長く感じる程で。
木の箱の中身が覗けるくらいに近づいて、やっと顔が見えた。
記憶に残るあなたよりも痩せている気がした。
最後に帰郷したのは真夏だった。
いつものように深夜バスで早朝に着いた私はまだ眠っているあなたの顔を見て、もう一度と眠り着いた。
昼近くに眠い目を擦りながら起きた。
『おかえり』
居間に居たあなたは微笑んでいた。
次の日はデイサービスに行くあなたを玄関先まで見送った。
家に居る時は疲れやすくなったあなたを出来るだけ休ませ、用事がある度に起こしに行く。歩行も困難になり、私たちにしっかりと捕まってどうにか足を動かすあなたを支えた。
横になると身体を起こす力がない。ベッドから起こすもの、紙パンツを換えるのも全て私がやりたいと言った。
あなたと数日を過ごす。
深夜バスで戻る夜、いつもと同じように寝かせるために部屋に連れて行った。
ベッドに横になり、布団をかけようとした私の手を温かいものが包む。
『結婚はいつするのや?』
別れてしまったのだと、私の手を握り聞いてくるあなたになるべく明るく笑って答えた。その笑顔はどんなにぎこちないものだっただろうか。
『そおか…』
小さく呟いたあなたの言葉に胸が苦しくなった。
『きぃつけてなぁ。いってらっしゃい』
いつものように行ってきますとだけ返して、握られた手を解いて布団をかけた。顔は見れなかった。
目の前に居るあなたはあの時より痩けた顔をしている。しかし気持ち良さそうに眠る顔はあの時と相違ない。
「ただいま。ただいま…」
何度言葉にしても何の反応も無い。
目から流れるもので視界が悪くなりどんどん目の前が歪んでいく。
口からは嗚咽が勝手に出ててきて、私は子どものように泣いた。
あなたが死んだら私は泣くのだうかと、幼い頃によく考えていた。
居なくなっても構わない。
私には関係ない。
ただ同じ家に住む血の繋がりがある他人。
そう思っていたのに何でこんなに胸が張り裂けそうなんだろ。
人はこんなにも脆いものだったのだと私は忘れていた。
こんなに呆気なく別れは私にやってくる。
望んでもいないのに突然やってくる。
二度と逢うことは出来ないのだと、二人で居ることが多かったあの家にあなたはもう居ないのだとやっと解ったんだ。
建物から出て、一人歩く。
コツコツと低いヒールの黒い靴が音を響かせる。
建物から少し離れた場所で振り返り、空を仰ぎ見る。
「いってらっしゃい」
白い煙が立つ煙突を見て一人泪した。
その日、あなたは更に小さな箱に入った。
胸を占めるのは罪悪感ばかりだったんだ。
それはあなたの生き甲斐を奪ったから。
あなたが孫の成長を楽しみにしているのを知っていたよ。
それは兄に向けられたものだけではなくて、私も同様だった。
学校の入学式、運動会、文化祭、卒業式、全ての行事であなたはいつでも笑顔だったね。
あなたが買ってくれた着物で出席した成人式、あなたは笑顔でおめでとうと言って送り出してくれた。
次は何だった?
どんな姿を見るのを楽しみにしていたの?
『結婚はいつするのや?』
あなたのその言葉が忘れない。
次は結婚式だったんでしょ?
知っていたよ。全部知っていた。
知っていて、解らない振りを見えない振りをしていたから。
だから諦めちゃった?
当分結婚する気なんて無さそうだから頑張れないよって、もういいやってなった?
ねぇ、知っていた?
私が農業高校に入った理由。
あなたは昔から畑いじりが好きだった。沢山の作物に囲まれて、美味しく出来たから食べなさいと三輪車に沢山採ってきては、その野菜がいつもテーブルいっぱいの並んだよね。それを見て土に触れるのも悪くないかなって思ったんだよ。
ねぇ、覚えてる?
私が部活に日舞を選んだ理由。
あなたは踊りの先生だった。地域の催しで踊る姿をいつも見ていた。あなたの隣には兄の姿。あなたと小さい兄が踊る様子に周りは歓喜の声を上げる。私はそれが羨ましくて仕方なかった。あなたの隣に大人になった私が立ち、一緒に踊るのが夢だと言ったよね。
ねぇ、分かってた?
私がホームヘルパーの資格を取った理由。
長い間患っていたあなたは、何回か入院をしていた。そんなあなたの役に立つにはどうしたらいいかって悩んだ。傍に居て看てあげるためには一番良い職業だと思ったから。亡くなった祖父を一番近くで最期まで世話をして看取ったのは私とあなただった。
だから今度も私があなたをと、考えていたんだよ。
考えていた。
考え思っていただけで、いつも言葉にして伝えてあげられなくて、天邪鬼な私はいつも素直じゃなくて、あなたと衝突してばかりで、可愛くなかったよね。
でも、本当はね。
本当はあなたに認めて貰いたかった。
私という存在をそのまま受け入れて欲しくて、叫んでいた。
沢山、話しをしたかった。
もっと一緒に居たかったよ。
ずっと傍にいればよかったね。
最期を看取ってあげられなくてゴメンなさい。それがとても悔しい。
私はあなたにとって誇れる孫だったかな?
もう二度とあなたの言葉を聞くことはできないけれど、あなたの孫に産まれたということは私の誇りだよ。
だからどうか、そこから私たちを見守っていて。
震える手足に喝を入れて言葉を紡ぐから。
これであなた贈る言葉は最後にするから。
ねぇ、ちゃんと聴いていてね?
さようなら。
本当はもう一度逢いたかった。
ありがとう。
大嫌いと同じ分だけ大好きだったよ。
おばあちゃん。