オレンジな彼女
――孝也、米はいいぞぉ。
じーちゃんの口ぐせが耳に残っている。だから、俺のげんかつぎはいつもおにぎりだ。
土鍋から炊いたつやつやの米に塩を振って、米粒をつぶさないようにふんわり握って。喉を越す時もまだ熱いおにぎりが手の上から消えたら、やる気スイッチはオンになる。
今日は大事な撮影初日。誰よりも早く、みんながびっくりするくらいの時間に!
俺のやる気スイッチはいつも以上に力強く点灯していた。
「……なのに、当てが外れちゃったわけね」
笑われた。それはもう気持ち良く。
あまりにもおかしそうに笑われてしまって、眉が情けなーく下がっていくのを感じる。
ふだんは目ざましいらずの俺がわざわざ3つも目ざましを使って乗り込んだスタジオには先客がいた。それも、俺と一緒に初出演が決まった新人の子じゃなくて、俺より先輩の男の人だった。多大なるショックを受けた俺は、集合時間の15分前にやって来た唯一の顔見知り、希美さんに泣きついた。ら、これだ。つい数時間前にオンになったはずのやる気スイッチがぴこぴこ点滅する。
「いきなり心折れそうなんで、あんまりいじめないでください」
恨みがましい声が出た。すると、俺の目の前で大爆笑していた希美さんは目じりに浮かんだ涙をぬぐいながら頷く。
「そうね、ごめんごめん。だって孝也くんったらワンコみたいなんだもの!」
希美さん――浜中希美さんは、俺が契約してる事務所、G-キャラバンの先輩だ。生後3か月でベビーモデルとしてデビューしてからずっと芸能人をやっている。いま22歳、芸歴も22年。筋金入りの大ベテラン。そう言うと希美さんは「やだ、芸歴だけ長くたってだめなのよ。私はまだまだ」なんて笑うけど、俺が役者を目指したのだってもとはといえば希美さんの演技を見たからだ。いくら俺が新人で駆け出しでぺーぺーだからって、誰かに影響を与えられるような人が「まだまだ」なわけない。
そんな彼女がこんな番組(っていうとディレクターさんやプロデューサーさんに怒られちゃいそうだけど、けっこうぶっ飛んでる番組だとは思うんだ)に出演したのには実は、俺のちょっとしたお願いが絡んでいる。ふだんは舞台がメインの希美さんとどうしても共演してみたくって、出演が決まったばかりのこの番組にキャンセルが出たって聞いて、もしかしたらうまくいかないかなって考えてしまったのだ。それとなく話をしてみたらびっくりするほど結果オーライだった。事務所としても希美さんをテレビに出したい気持ちがあったらしくて、そこに他のオトナの事情も絡んでとんとん拍子に決まってしまったらしい。話がまとまったと聞いた日は、デザイナーさんがざっくり描いたポスターの絵を希美さんに置き換えて、一日中にやにやしていた。
そんな裏事情のもつれの末、希美さんが演じることになったキャロンはニンジンのパワーが詰まった女の子だ。テーマカラーはもちろんニンジンのオレンジ色。ニンジンなのにオレンジっていうのも変だけど、色のイメージにぴったりな、優しくておしとやかに笑うベジレンジャーのお姉さん。向こう3話ぶんの台本をざっと読んだ限りでは、俺たち他のメンバーがやいやい言ってるのをほわほわ笑いながら見ている癒し系のポジションっぽかった。希美さんが演じるキャロンが楽しみで仕方ない。絶対、ぜーったいに合うと思う。強いて言うなら希美さんはお姉さんっていうよりねーさんかな? まあ、大人っぽいからそれだけで雰囲気は出るはずだ。
「浜中さーん! 衣装合わせしますー」
と、衣裳係の人が希美さんを呼んだ。希美さんは途端にまじめな顔になって、張りのある声で返事をする。あっという間に変わる空気がすごいなって思う。さっきまでの悪戯っぽくて軽やかな希美さんはもういない。ちゃんと仕事に向き合おうとする、役者の浜中希美がそこにいる。俺が憧れたまんまのその横顔に、一度は力を失いかけたやる気スイッチが再びオンになった。
「それじゃあ孝也くん、また後でね。キミの衣装も楽しみにしてるから!」
片手を挙げて希美さんが歩いていく。
ねえじーちゃん、どうしよう。俺、おにぎり以外でもやる気スイッチが入る方法、見つけちゃったみたいだよ。