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【A laugh without cat】

作者:


 足先を沈め、その温度の心地よさを確かめたら、勢いよくしゃがみ込む。

 波打つ水面。

 狭い入れ物に遮られて、窮屈そうに暴れる水をじっと見つめる。

 膝を抱え、鼻までつかれば、僅かに感じる浮遊感。

 漏れる息が泡となって、ふつふつと浮かんだ。

 泡立つ水面が静まるのを待たずに彼女は浴槽に顔を沈める。耳に水が入るのを覚悟して、深くまで沈む。

 そうすると、狭いバスタブ以上の閉塞感があるのに、同時に自分がどこにいるのかわからない不気味な広がりを感じるのだ。それはまるで、深海にあるような……



 不意に薄ら寒くなって、アリスは顔を上げた。

「……はあ」

ため息をひとつ。抱え込んだ膝に片耳をつけて、バスタブの大理石模様をじっと見つめる。

 白い粒の一つを選んでは、穴の開くように見つめる。

 そうして湿気に満ちた空気を吸い込む。ゆっくりと深く。


 なんてことはない、ココを空っぽにするための作業。

 アリスにとってそれは、一日の終わりに必要不可欠な儀式で、明日への糧を吸収するための最適な法だ。

 そうやって待っていれば、だんだん心が落ち着いてくるのだから不思議なものだと思う。

石を模造した黒い面は、見つめれば奥行きすら感じるほどに艶めかしく光を反射する。

アリスはこの浴室が気に行っていた。


斑のバスタブ。それはなんだか宇宙を思わせて、落ち込んだ自分を優しく包んでくれる太母のようだとアリスは思った。

「……great mother」

 そんなものを持ち出すなんて、相変わらずの誇大癖の強さには自嘲するしかないけれど。

 とにかく、水と空気の境目すら曖昧にさせる黒を、アリスはとても気に入っていた。

バスタブに湯を張るなんて、随分ジャパナイズされていると笑う友人もいるが、彼女にとってこれが一番落ち着く方法なのだから仕方がない。

 休日にめいいっぱい身体を動かすのもいい。

 友達と遊ぶのも、ドライブに繰り出すのも、ショッピングに出掛けるのも。それでもバスタイムの安息感には敵わない。



 しばらくそうして白い星々を眺めた後、もう一度、ぬるめのお湯に顔をつけた。

 しかしどうしたんだろう。今日は調子が悪い。どうも上手くいかない。

 アリスは晴れない気持ちをいぶかしんだ。



 勢いよく、彼女は潜った。

 早く、早く浮き上がるために。いつものように。けれども。



 ああだめだ、今日はだめだ。



 浮上しない。

 反発できない水圧と、心にかかる重圧と、そんなものに押しつぶされて負けてしまう。意地になって呼吸を止め続けても、心に湧き上がって来るはずのものが今日は来ない。

 アリスは次々と、湯水のごとく溢れる感情に押し流される自分を感じた。



 彼女はこうして沈んでいく。息苦しくて、悲しくて、どうしようもなくて。そして沈んでいく。底のない深海に。



 渦を巻くように巡る思考がアリスを苛んでいた。バスタイムの魔法も今日ばかりはnonsenseに他ならない。うすうす感じていたことだ。


 なぜgreat motherなんて言葉が頭をよぎったのか。その答えはアリスの心の隅っこに引っ掛かっている。決して主張はしないけれど、確かにそこにある。




もうこれ以上あがいても無駄だと諦めて、彼女はバスタブの栓を抜いた。


排水溝に吸い込まれていく水水水。その流れを感じて、アリスは静かに目を閉じた。すべての圧力が、逃げ場を求めて集約される。その穴に。直径2cmの穴に。

アリスは感じた。吸い込まれていく水、水、水を。そして。


自分を。


え? と思った次の瞬間に、アリスの視界は暗転していた。自重からの解放を伴って。ぐるぐると渦を巻く視界と思考。

ただの一点も光のない暗闇が彼女を襲い、そして飲み込んだ。



* * *



「全くこの水は! しょっぱいったらありゃしない! 洗濯をしようと思ったのにこれじゃあっという間に真っ白だ!」

 甲高い声に意識が呼び戻される。どうやら自分はしばらく気を失っていたらしい。水浸しの服が身体に張り付いて気持ちが悪い。

 “Why. Have I worn clothes?” (あら? 私、服なんて着ていたかしら?)

 アリスの胸にはそんな疑問が湧き起こったが、服を着ていない人間は人間じゃない、ただのサルだと誰かが言っていたのを思い出して、一人納得した。だってそう、私は人間だもの。

 ただ、水色のワンピースに白いロングエプロンという出で立ちは、まるでおとぎ話の主人公のようで、アリスは気恥ずかしさからおどおどと辺りを見回した。

“How do I do if someone laughs at my figure? I shame.”(この格好を笑われたらどうしよう。恥ずかしいわ。)

まず目に入ったのはレンガ造りの家。まるで小人でも出てきそうな、なんともメルヘンチックな外観だ。それとも白雪姫か、はたまた三匹の仔豚か。

しかし実際にその家の前にいたのは、洗濯桶を睨み付ける腰の曲がった老婆だった。

アリスは彼女の姿を見て安心した。なぜなら、その老婆はアリスに負けず劣らず古めかしいデザインの、小間使いが着るような服を纏っていたから。

 少しだけ勇気付けられたアリスは、思い切ってその老婆に話しかけてみることにした。

「こんにちは、奥様。あのう、少し疑問に思ったのですが……あっという間に真っ白って、洗濯するなら白くなるのは当たり前じゃない?」

 アリスは先ほどの老婆の言葉をしっかりと聞いていて、どうにも引っかかったのでそう尋ねた。すると老婆は物凄い剣幕でとんでもないと目を剥いた。

「冗談! 塩をふいて真っ白なんて!」

 ああなるほど、そういうこと。それは確かによろしくない。

アリスはひとまず納得はしたけれど、今度は何だってそんなしょっぱい水しかないのかが気になった。海もないこんな山奥なのに。

「ねえ、奥様。この水は……」

「ああそうだ! スープに使えばいいね。ぴったりじゃあないか。塩見が効いてちょうどいい」

驚いた。どうやらこの老婆は得体の知れない塩水を料理に使うつもりらしい。

そもそも、この水はちゃんとポンプから出ているようだった。普通ならば洗濯でも料理でも、構わず使えそうな井戸水なのだから彼女の言うことは大して問題にするほどのこともないのかもしれない。

そうは思ったけれど、やはりアリスはその水の正体が気になって、さきほど遮られてしまった言葉を続けた。

めげずにそんなことができたのは、この老婆が一見して変わり者に見えたからだ。これがもし、親切そうな若い婦人との会話なら、彼女は自分の発言を優先する勇気を持てなかっただろう。

「ねえ、ちょっとすみません。つかぬ事を伺いますが、井戸水は真水なんじゃあないですか? どうしてしょっぱいの?」

 アリスの問いに老婆は至極驚いた様子で、肉の垂れた瞼を見開いて叫んだ。

「なんだ、あんたはあの子のように物知らずだね! そりゃあご立腹だ。怒られるね! おいおまえ、公爵夫人の前でそんなこと、口が裂けてもお言いでないよ」

“As the cat.”(猫のようにね。)と、最後の言葉は耳打ちするかのように囁いて、老婆はきょときょとと辺りを見回した。まるで自分で言った言葉に怯えているかのような素振りで。

“Oh, how rude!”(まあ、なんて失礼なんだろう!)

一方アリスはといえば、ずいぶん乱暴な言葉にすっかり気分を害して、もうこの場を立ち去ってしまおうかと考えていたのだが、しかしそこで初めて、自分がなぜここにいるのかということに思い当たった。

シャワーは? バスタブは? お湯は? 家は? そして私は?

いろいろなことが頭から抜けていた。大事なことと大事じゃないこととを忘れて、ちょっとだけ大事なことを忘れているような、そんな心持ち。今度はアリスがきょときょとと辺りを見回す番だった。急に駆け出したくなるような、喉を縄で圧迫されるような不安が襲う。

それにしても公爵夫人とは。公爵夫人?

「そもそもおまえのせいじゃあないかい。え? お前が泣けば泣くほど、どんどんしょっぱくなるんだよ。まったく、迷惑ったりゃありゃしない!」

シーツらしき白い布を桶の中でジャブジャブと揺すって、老婆はまくし立てた。盛大に水しぶきが上がって、アリスの口の中までそれが飛んだ。確かにしょっぱい。

「大体おまえ。こんなとこから出てくるなんて、いったいどういう了見だい!?」 

 水浸しの手をぬぐいもせず、老婆はポンプの口を指差した。その指先はどう見てもそれを指している。

どうやら私は自分の目を疑うほど、大事なことを忘れてはいなかったようだわ、とアリスは妙に安心を覚えた。しかしそれとこれとは話が別だ。

「ちょっと待ってどういうこと? 私そんな蛇口から出て来たの?」

「そうだよ」

「そんなわけないわ。そんなわけ……」

「どうしてさ」

 あまりにもそれが至極当然の疑問のように聞き返すものだから、アリスは返答に困ってしまった。何もたじろぐことはないのに、彼女は急に自信を失って、そんな簡単な質問にも答えられないような気がしてきたのだった。

「だって、それは……大きさが合わないじゃない!」

「大きさ! はっ! 大きさなんて!」

老婆は馬鹿にしたように吐き捨てた。

「そんなものは関係ないよ。大切なのは、ようは事実さ。Truth is really all. All is really truth.(真実こそすべて。すべてこそ真実)」

そう、彼女が言い終わるか終わらないかというとき、ぎゃあああぁぁと、それはけたたましい泣き声、いやむしろ悲鳴が家の中から聞こえてきた。あまりにも凄まじ過ぎる声に、ドアはびりびりと揺れて、老婆は飛び上がった。

「おお、あかちゃん! 目が覚めたんだ! どうしよう、公爵夫人は今いらっしゃらないのに!」

 飛び上がった勢いで駆け出し、悲鳴に負けず劣らずの大声で大変だ大変だとまくし立てて、老婆はドアを蹴破る勢いで家の中に飛び込んでいった。


“The cause is I cry? My tears? What nonsense!”(私が泣くから? 私の涙だっていうの? そんな、馬鹿らしいわ!)

疑問は解決しないどころか、新たな疑問を生んで、アリスは混乱した。

しかしそれよりも何よりも、あの声。赤子のあげる無邪気な鳴き声が、アリスの鼓膜を激しく震わせ、頭蓋を反響し続けている。まるで耳鳴りのように。

その声は彼女の足をまだらに草の生える土肌に縫い付けてしまった。どうにも恐ろしくて、訳もわからず恐ろしくて、早鐘のように鼓動が打つ。早くこの場から離れなくては。そう思うのに身体が動かない。

もう出てこないで。どうか出てこないで。どうかそれを見せないで。

 そんな想いも空しく、老婆は”それ”を抱えてやってきた。そして信じられないことに、産着に包まれた”それ”をアリスに押し付けたのだった。仄かな温もりが掌から伝わり、その生命感に畏怖すら感じる。その存在がアリスを苦しめる。

「あかちゃんを見てておくれ。私はスープを作らなくちゃ。洗濯よりよっぽどいいさ。だって私は”the cook”(料理女)」

変な節をつけて口ずさむと、料理女は家へと戻って行った。

「ね、ねえちょっと待って! 私あかちゃんなんか……!」

狂ったように泣き続ける”それ”は、ひどく恐ろしい生き物に思えた。抱えていられないような重量が彼女の腕に掛かる。重くてたまらない。

早く返してしまおう。そして、何事もなかったかのように先へ進めばいい。こんなtroublemaker(厄介者)は……

アリスは恐る恐る”それ”に目をやった。

「……!!」

次の瞬間には、声にならない悲鳴をあげて”それ”を放り投げ、脇目も振らず駆け出していた。



『Baby became a boar..』(あかちゃんは豚になった。)



* * *



訳もわからずがむしゃらに走っていると、アリスはいつの間にか森の中にいる自分に気がついた。

何かとてもいい匂いがする。これは……トースト? ミートパイに、ローストビーフかしら? ああ、甘いお菓子の香りもする。

おいしそうな食べ物の匂いが、アリスに空腹を思い出させた。懸命に走ったからか、随分とお腹が空いている。何か食べたくてたまらない。

匂いのもとを探して、アリスは辺りを探索し始めた。


それはすぐに見つかった。いやむしろ、あまりにも異様なその容姿が目を引かないわけがない。

葉の形はチューリップのようだった。緑の茎に少し大きめの双葉。

しかし明らかに違うのは、花であるはずの部分。そこには先程アリスの鼻をくすぐったもの達が絶妙なバランスで鎮座していた。

”Meal flower?”(食べ物のお花?)

 あまりのことにアリスは驚き、そして躊躇した。

“Do we say this picking up eating?”(これも拾い食いって言うのかしら?)

しかし空腹には勝てず、アリスは夢中でそれらを摘み取ると、ただひたすらに貪った。

 スープに、生ハムを挟んだチーズクラッカー。サーモンのムニエル、肉汁の滴るローストターキー。アボガドとポテトのサンドウィッチにはサワーソースを添えて。

そしてデザートはお砂糖たっぷりのプディングに、こんがり焼けたミンスパイ。

その料理達は今迄で食べたことがないほどおいしかった。

「おやまあ、たくさん食べたね、little girl(お嬢ちゃん)」

 彼女がようやくデザートに差し掛かったとき、木の上から突然声が降ってきた。アリス驚いて飛び上がり、危うく喉を詰めそうになったが、何とかそれを飲み込んだ。

けほ、と咳き込みながら、アリスは慌てて声のした方を見上げる。

三日月形の笑いを貼り付けた猫が静かに尻尾を振っている。絵本の中と全く同じ。見間違えようもない。一目でわかるその姿に、アリスはどきどきと胸を高鳴らせた。失礼のないようにしなければ、あの大きな口で食べられてしまう。

「ごきげんよう、チェシャ猫さん。あのう、おいしかったです。ご馳走さま」

 もしかしたらこれは、この猫のための食事だったのかもしれない、謝ったほうがいいのかしら。と、いきなり不安になって、アリスは猫のニヤニヤ笑いを注意深くうかがった。

「どうぞどうぞ。好きに食べればいいさ。ただねえ」

 やはり悪い猫じゃないらしい。つり上がった口をさらに引き上げて、チェシャ猫はアリスをじっと見つめた。彼のしなやかな尻尾が茎の先にスープをつけた花を指す。

「たとえばそれ。”悩みの種”から育ったスープ。それもこれもあれも」

 くねくねと尻尾が動いてアリスが食べた花達を次々と指していく。

「いろんな”悩み”から生えたのさ。食べたら大変」

“But you ate it.”(でも食べちゃった)そう言って、チェシャ猫はにんまり笑った。

「あのう、食べたらどうなるんですか?」

 いまいち意味が飲み込めないアリスは注意深くそう尋ねる。時折ピクリと動く耳と、爛々と光る目が、彼女にそうさせるのだった。

 一呼吸置いて、猫はめんどくさそうに口を開いた。

「そりゃあ、little girl(お嬢ちゃん)。食べた分だけ悩みが増えるのさ。でもお腹が空いたら食べるしかない。だからずぅっとなくならない」

「私、little girlじゃありません。もうladyよ」

 十六になるのに”little”は心外とばかりにアリスは抗議した。すると猫は、満月のような目を細めて”Sorry!”(そいつは失敬!)とだけ言って押し黙った。

意外にも紳士的な猫の態度に気を良くしたアリスだったが、どうも先ほどの言葉が隅々まで浸透してくると、己の行動を悔いる気持ちがふつふつと湧き上がった。こんなにもたくさん食べたのだから、悩み事もたくさんできてしまったに違いない。

「でも、困るわ。私、ただでさえ悩みが多いのに」

 どうしたらいいのかしらとアリスは木の上の猫に尋ねた。

「”そんな”悩み事には答えられないね。もちろん、”どんな”悩み事でも同じだけど」

 チェシャ猫はうとうとと瞬きをしながら答えた。

「ああ、ただねえ……えっと、お名前は? little girl.」

 アリスはもちろんこのときも猫の物言いに気づいていたけれど、二度も指摘する勇気はなかったので気がつかないふりをすることにした。

「アリスです、sir.」

 彼女の言葉にそれまで興味なさそうに目を開いたり閉じたりしていた猫が、ぎょろりとした満月を見開いた。しかしニヤニヤ笑いは相変わらずなので、アリスには彼が怒っているのか喜んでいるのかすら見当がつかない。

“May I be scratched by him!”(どうか引っ掻かれたりしませんように!)

アリスは祈るように思った。

「アリス! お前はあのアリスではないけれど、確かにアリスなんだろうね」

 どうやら猫は怒っているわけではないらしい。それがわかって、アリスはほっと胸を撫で下ろした。しわがれた声を楽しそうに揺らして彼は彼女に語りかけた。

「ただ、アリス。一番大きな悩み事はまだ食べちゃあいない」

 あれ、と言ってチェシャ猫はドライフルーツに彩られたプディングを指した。

「あれにはとっても大きな悩み事が詰まってる。なんだかわかる?」

 問いかけられて、アリスはびくりと肩を震わせた。

それは確信だ。なぜかはわからないが、ただ一切の疑いようもない確信だった。

きっとあのことに違いない。彼女は黙って頷いた。

すると猫は満足げに歯をちらつかせて、すうっと霧のように立ち消えてしまった。

「食べてしまえばアリスのもの。でも食べなければなくなってしまうよ。Is it OK?(いいの?)」

 それもつかの間。声から先に、ゆっくりと眼前に現れたチェシャ猫は、アリスをなめるように見上げ、そして小首を傾げて見せた。

「でも、私はもうそのことで悩みたくないの」

 後ろめたさが喉を刺して、言葉が出にくい。そこを何とか搾り出して、アリスは答える。このまま何事もなかったかのように甘いプディングに詰まったtroublemaker(厄介事)は忘れて暮らせたら。暮らせたら。

「じゃあ君は”pallbearer”、棺を担いで歩いて行くんだね」

 チェシャ猫の言葉にアリスは己の子宮が蠢くのを感じた。気のせいだとわかっていても、それは彼女をひどく動揺させる。彼女の母である部分がそうさせる。

「生まれない子供はただの死体。だから、君のお腹は”the pall”(棺桶)」

逆さまになった三日月は、笑っているのか怒っているのか、つまりはそれが逆さであるかどうかも定かではなく。


 “But if you should bear a baby of the bear, “(だけどもし、君があの乱暴者の子を産んだら)

”the bear will beat his baby.”(乱暴者は彼の子を打つだろう)

” And you should nothing but bear. Only only…”(そして君はただ、それを耐える。ただひたすら……)



「”どちら”に向かうかは君次第。”どこか”に行きたいなら、”どこ”にだって着くけどね」

 チェシャ猫の爛々と光を放つ目が、アリスの憂いを見透かすように深く瞬いた。


「your baby has still grown…」(君のあかちゃんは今も育ち続けてる。)


 アリスは耳をふさいだ。

知っている。何とかしなければならないことは知っている。ずっと、もう頭が破裂するんじゃないかと思うくらい考えた。でもそれは全て無駄なこと。

アリスは思う。だって、私のすべきことは決まっていたんだもの。もうずっと、最初の最初から。



「mum, I wish to be born!(ママ、僕を産んで!)」



 猫は赤ん坊のような声でそう叫ぶと、またその姿を消した。

 


『Alice, I wish to be born!(アリス、僕を産んで!)』



 彼女の少し膨れたお腹に反響して、猫の声が響く。

アリス、アリス、僕を産んで、と。








 Tail disappeared.(尻尾が消えた。)


Limbs disappear, than trunk…(手足が消えて、胴が消えて。)

Ears disappear, than eyes. At in the end…(耳が消えて、目が消えて、そして最後に)


the rest is just the laugh.(笑いだけが残った。)



「姿はないのに、そこにいるのね。あなたはそこにいるのね」


口に広がるプディングは、溶けるほどに甘く痺れるようで。



「……美味しい」


 Alice murmured that.(と、アリスは呟いた。)










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