クレオメ
三時限目の数学はさっぱり理解できないまま終わった。
元を辿ればぼくは中学校から習う数学が嫌いで仕方がなかった。見るのも嫌だった数字の中に英語が加わるのだ。ぼくは一人xやyを使う理由が納得できず先生に、「aやbでもいいんじゃないですか?」と聞いたほどだ。
ぼくは数学に対していつもいちゃもんを付けていた。「どうして?」「なぜ?」そんな言葉で逃げて、「必要ない」と自分に唱えては数学を否定し続けた。挙句、基礎が分からないまま学年は上がり、日々悶々と悩んでいた。
いまでもぼくは数学は「必要ない」と思っているが、学生である以上必要みたいだ。
数学のノートってどうやって書けばいいのかいまだに謎だ……。
空腹に悶えてぼくはまたも机に突っ伏した。どうせまた茉依が来て、大樹がぼくを起こしてくれるだろう。それまでちょっとだけ。
目をつむっていると耳がよく働くのか、あちこちの音が鮮明に聴こえてくる。教壇付近で話している女子たちの中に雨宮さんの笑い声が聴こえた。聞き手となっているのか、あまり話していないようだが楽しそうだ。雨宮さんたちがいる周りのイメージカラーは黄色やオレンジといった明るい感じだろう。
それに比べて、窓際では何やら男子が集まって話しているようだ。ゲームか漫画かアニメか、何やら聞きなれない言葉が飛び交っている。知っている言葉もたまに聞こえては来るが、ぼくの持っている知識では到底入り込めない感じがした。イメージカラーは灰色といったところか?
中休みに入って数分過ぎた気がするけど、大樹がぼくを起こさないってことはまだ茉依は来ていないのだろうか。いま思えば心なしか廊下の方が騒がしい。
「もぉー茉依さんってば次は体育だからゆーさんのところ行く時間ないですって」
「でもこーちゃんまだ時間あるよ?」
「ダメっスよ! 体育の先生超怖いんスから遅れたら怒鳴られるっスよ!」
「それはイヤかも――――」
あぁそうか、8組の4時限目は体育なのか。通りで1組の前が騒がしいわけだ。ということは、この中休みに茉依は来ないのか……。って、なに寂しがっているんだぼくは!
まあいいや。次の授業が始まるまでこうして突っ伏していよう。
――――・――――・――――
4時限目はまさかの英語だった。分かってはいたが、数学の後に英語とは最悪の組み合わせだ。おかげで授業中ぼくのテンションは下がりっぱなしだった。単語の発音練習をろくにせず、全員で行う教科書の読み合わせは声に出さずに口だけを動かし、ノートの端にはIts moved to tears(泣ける)と書いて空腹に満ちたお腹を押さえて書き写した。
苦手教科が2時限続くと辛い。
「あら、お疲れさまみたいね」
授業が終わったにも関わらず教科書とノートを広げ、その上に倒れ込んでいるぼくを見て雨宮さんはくすっと笑った。
「うん……数学と英語で一気に疲れたんだ」
「須永君って数学と英語が苦手なのね? 私でよかったら時間あるときに教えてあげるわよ?」
「それはありがたいんだけど……その、恥ずかしいんだけどさ……中学生の範囲からでいい?」
「あら、本当に苦手なのね。もちろんいいわよ、私の分かる範囲なら教えてあげる」
……そもそも雨宮さんに分からない範囲なんてあるのだろうか。
誰でも容姿でその人物の大まかなイメージを持ってしまうことがあると思う。ぼくもその中の一人で、雨宮さんに勝手なイメージを持っている。清楚で穏やかで誰とでも仲がよくて頭がよさそう。おまけにスポーツもできてピアノなんかも弾けちゃって。
雨宮さんはそんなぼくのイメージを全て兼ね揃えている凄い人だ。三年生を差し置いて風紀委員長を務め、教室では誰からも頼りにされて、運動神経も音楽センスも抜群で、学年約300人の学力テストでトップに立っている。
これほどイメージ通りな人もめずらしい。でもそれが雨宮梓だ。
「それよりも須永君、いま茉依ちゃんが来たからみんなでお昼食べない?」
「うんいいよ。教室じゃ三人分の席空いてないから食堂にいこうか」
そう言ってぼくが立ち上がると、教室に勢いよく顔を出した奴がいた。
「ちょっとちょっと! またっスか!? また俺だけ仲間外れっスか! 俺と茉依さん一緒に来たのに茉依さんだけ名前呼ぶのおかしいでしょ!」
「なんだ、石田もいたのか」
「なんだとはなんスか! ゆーさんまで俺を外すつもりっスか!?」
「いやいや、ほんとうに見えなかったんだって……」
首を落としてため息をつく石田に茉依がフォローを入れた。
「ゆーちゃんってばまたこーくんに意地悪するんだから。でも仲良くなってくれて本当に良かった。わたしね、クラス違うのにみんなと仲良くなれてすっごく嬉しいんだ。ゆーちゃんともこーくんとも梓ちゃんともこうして話せて毎日しあわせだよ――――」
「茉依さんってマジ天使か女神っス!」
まあ、石田にとったら茉依は天使か女神だろう。このメンバーの中で唯一慰めてくれる存在だからな。言い返せばぼくや雨宮さんは悪魔のような存在なのかもしれない。とくに雨宮さんは石田にとって天敵と言っても過言ではないようだ。
「それでね、わたし考えたんだけどね、この四人で紙ヒコーキにメッセージを書いてお手紙みたいに交換したいんだ。ただお手紙みたいに交換するのはつまらないから紙ヒコーキにして飛ばすの。どうかな?」
ただ単に紙ヒコーキを飛ばしたいだけだな。
ぼく(?)と石田は紙ヒコーキクラブのメンバーだけど、雨宮さんは入ってないし、ましてや高校二年生にもなって紙ヒコーキで遊びたがるはずない。いくら茉依の考えでも雨宮さんは聞いてはくれないだろう。
「私はたまにだったらしてもいいわよ」
「梓ちゃんほんとー! わぁーありがとー!」
…………ってぇ!? 雨宮さんいいの!?
「須永君と茉依ちゃんに飛ばせばいいのね?」
「ちょっとちょっと! 雨宮さん俺を忘れてるっスよ!」
「あなたに書くことなんてきっと何もないわよ。白紙でも飛ばしてほしいの?」
茉依とは違って明らかに石田に対しての対応が冷たい。
雨宮さんに対するイメージが崩れるのは石田を前にしたときだけだな。
「こーちゃんと梓ちゃんも仲良しだね」
笑顔で茉依は二人を見ていた。その声にも表情にも嘘はないようだった。
ぼくから見たら二人は仲が悪いように見える。でもそれはきっと目に見えている表面の姿だけで、茉依の見ている姿とは違うものなのだろう。
いつの間にか四人で食堂に向かってるけど、当初は茉依と秘密を作るって話してたんだよなぁ。
歩くぼくの背中を茉依が優しく何度か突いた。
「どうした?」
「ふたりで考えて作った紙ヒコーキの折り方覚えてる?」
「ん? えーっと、幼稚園の時に作ったあれか?」
「うん、それ」
「覚えてるかと聞かれるとなんとなくは覚えてるけど、折れと言われると怪しいなぁ……」
「やっぱり覚えてないよね。それじゃあわたしが折り方を教えてあげるね。ゆーちゃんはわたしに飛ばす時はその折り方で飛ばして。わたしもゆーちゃんにだけその折り方で飛ばすから。これはこーくんと梓ちゃんには秘密だよ」
幼馴染だからこそ知ってる秘密。
それは幼い頃、ふたりで考えて作りだした紙ヒコーキ。
ぼくと茉依を行き交う紙ヒコーキは秘密のひとときを共有する幼馴染の証だ。
「あぁ、秘密にするよ」
思っていた秘密とは違うけれど、これはこれで悪くない。
クレオメ。花言葉は、『秘密のひととき』『あなたの容姿に酔う』『小さな愛』などです。
次回話に続きます。