エーデルワイス
開いた窓から柔らかな風が舞い込む午後の静かな教室。揺れるカーテンの隙間から射し込むあたたかな日差しが教室に眠気を誘っている。ぼくを含めたクラスの大半が机に肘をついて下を向いていたり、突っ伏して寝息を立てていたり、うとうとと頭を揺らしながらノートを書いていた。
午後の授業ほど眠たいものはない。
教壇に立って授業を進める先生の声と教科書をめくる乾いた音が耳をくすぐる。おまけに、チョークがリズムよく黒板に当たる音も心地いい。
あと5分くらいで終わるし、ちょっとだけいいよね。
ぼくは肘をついたままノートを書いているフリをして目をつむった――――
ふと頭の中に浮かぶ幼い頃の記憶。それはまだぼくも茉依も幼稚園児だったときのだ。
ぼくは仲のいい男子と遊んでいた。追いかけっこをしたり、新聞紙を丸めたものを「剣」と呼んでチャンバラごっこをしたり、自分たちで考えたゲームをしたり。女子が「男の子って子どもだよねー」と言っていたが、当時のぼくらはみんな子どもだった。身長も体重も行動も言動も当然ながら全て幼かった。それでも、男子からしたら女子が遊んでいる、ままごとや折り紙やあやとりの方がもっと子どもっぽいと思っていた。
茉依とはこの頃に初めて話した。以前から気にはなっていた。周りの女子は数人集まって遊んでいるのに、茉依は日の当たらない隅っこで体育座りをしながら絵本を読んでいたんだ。明らかに不自然だった。その光景を目にしたぼくは遊んでいたチャンバラを放棄して茉依の方へ近寄った。遠くからじゃ分からなかったけれど、側に行ったぼくの目に映ったのは、鼻をすすりながら泣いている姿だった。
「ねぇ、どうして泣いてるの?」
「…………」
茉依は口を利いてくれなかった。涙を浮かべたまま絵本をただじっと見つめていた。
「ねぇ、いっしょにあそぼうよ」
「…………」
「ちょっと待ってて」
「…………?」
ぼくは茉依の反応を見逃さなかった。茉依はちらっとぼくの方を見たんだ。たったそれだけの反応でも、その時のぼくは胸が弾むくらい嬉しかった。ぼくは折り紙で遊んでいる女子にお願いして折り紙を2枚譲ってもらった。その折り紙をもって茉依のところへ戻り、1枚を茉依にあげた。不思議そうな顔をしていた。その反応でよかった。
ぼくは持っている1枚を長方形に折り、広げてから折り目に向かって両端を折っていく。片側に三角形ができると一度ひっくり返し、三角形側を中央に向かって半分ほど折り返す。そして、もう一度三角形を作り、突き出ている小さな三角形を折り返し、真ん中で折って翼を作った。
唯一折り紙で作れる紙ヒコーキを折ってみせた。
「みてて」
ぼくの手から飛び立つ一機の紙ヒコーキ。それは緩やかな放物線を描いていった。自分でも驚くくらい綺麗な飛行だった。茉依は絵本を捨ててぼくの手を掴んだ。
「すごーい! ねぇねぇ、作り方教えて!」
ようやく口を開いた茉依の目には涙は消えていて、笑顔がこぼれていた。
ぼくは茉依に紙ヒコーキの折り方を教えてあげた。茉依もはじめはぎこちない手つきで、とてもじゃないが折った紙ヒコーキは飛ぶ可能性を秘めていなかった。茉依は自分で折った紙ヒコーキを飛ばしてみた。見事に墜落した。でも、笑っていたんだ。
「はじめて作ったけど紙ヒコーキってたのしいね! もっといっぱいつくろ!」
「うん! つぎは飛ぶよ!」
それから茉依とはよく遊ぶようになった。茉依と遊ぶときはいつも折り紙で、さらに作るのは紙ヒコーキだけだった。ぼくは鶴とか手裏剣とかは作れないし、茉依は紙ヒコーキ以外作る気がないようだった。それでも、紙ヒコーキで茉依が笑ってくれるならぼくは嬉しかった。
「みてみて! すっごくきれいでしょー! ちゃんと飛ぶかみててね!」
「うん、すごいよ! だいじょうぶ、きっとずっと遠くまで飛ぶよ――――」
そういえば、出会ったばかりの茉依は一人でいることが多くて、泣いていることがほとんどだった。折り紙で遊んでいるところなんて見たことない。いつも部屋の隅っこで一人絵本を読んでいたんだ。
その茉依が笑ったのはぼくが紙ヒコーキを飛ばしたあの日で。
――――あれ、それじゃあ茉依が紙ヒコーキを好きなのって。
……どうして大事なことを忘れていたんだろう。
紙ヒコーキの面白さを教えたのはぼくじゃないか!
幼い頃の記憶を思い出すのは恥ずかしいこともあるけれど、大事なことを思い出せる。
あの頃は何をするにも全力で楽しかった。
それが小学生になって中学生になって、いつしか全力で遊ぶことが馬鹿らしいと思うようになったんだ。それはきっと〝子どもっぽい〟からと理由を付けて、大人になった気でいたからだ。
高校生になって大人になった気がしているけれど、違うのかもしれない。
ぼくは〝子どもっぽい〟とか〝格好悪い〟とかを気にして全力で遊ぶことを避けてきたんだ。全力で遊ぶ楽しさを忘れていたんだ。『大人』という見えないものを追いかけて、ひとりで大人になった気になって、自分の殻の中に閉じ籠っていただけだ。
先生の教科書を閉じる音と同時にチャイムが鳴った。
教室に活気が戻っていく。
委員長の掛け声で立ち上がって挨拶を済まし、すぐに席に座ってぼくは机に突っ伏す。さすがに授業中にする勇気はない。周りが突っ伏しているからといってもできない。
ぼくって弱いなぁ……。
次の授業が始まるまでこうしていよう。
そう思っていたのだが、頭に何やら刺さった。それはぼくの知る限り非常に軽くて、高確率で宙を飛んで、鋭利なものの割には殺傷能力がないに等しい。そして、ぼくに向かって飛ばすのは一人しかいない。
「茉依! 昔から人に向かって紙ヒコーキ投げちゃダメだって言ってるだろっ!」
「ゆーちゃんごめんね……。でもね、狙った通りに飛んでいったの……ほめて?」
「ほめるかっ! ったく何度言っても人に投げるんだから……」
「ゆーちゃんごめん……」
「そのごめんも何十回と聞いた気がする。もう聞き飽きたくらいだぞ?」
「でもね、ゆーちゃん以外の人には投げたことないよ!」
「威張って言うな」
「それよりもゆーちゃん! いっぱい紙もらってきたから一緒に紙ヒコーキをつくろ!」
「それはちょっともらいすぎだろ」
「えぇ! でも、ゆーちゃんと一緒にいっぱい作ろうと思って!」
「休み時間にそんな折れないって……」
紙ヒコーキは〝子どもっぽい〟かもしれない。
でも、楽しい。
茉依はいつでもあの頃のままだ。でも、それがいい。
あの日はじめてみた笑顔は今もぼくの心の中で大切な思い出として輝いている。
いまの茉依がずっとこのままでいて欲しいと思うのは、ぼくのわがままかもしれない。
エーデルワイス。花言葉は、『尊い思い出』『大切な思い出』などです。