ローズマリー
結局石田と顔を合わせて話すことはできなかった。さっきまでは門を開けてくれない石田に内心少し怒っていたけれど、今更になってそれは仕方がないことだと理解している。自宅謹慎中の誰とも会ってはいけないというルールを守ろうとしていた石田は正しい。それなのに石田に迷惑が掛かると知っていて押しかけたぼくの方が余程性が悪い。
そもそも謝るつもりで学校を飛び出してきたにも関わらず謝罪の機会を逃して、おまけにインターホン越しに説教までされて、今まで気が付いていなかった気持ちに気付かされた自分がなんとも恥ずかしい。
けれど、石田には本当に感謝している。
はじめは好きになれないというか苦手というか、はっきり言えば嫌いだった。容姿も話し方も茉依と一緒にいることもお節介なところも全てが苦手で嫌いだった。でも何度も何度も話すうちに石田の性格の良さやお節介な中に温かい気遣いがあるのを感じた。いつの間にかぼくの日常にすっぽりと埋まっていて、違和感もなく話すようになって、紙ヒコーキを飛ばし合うようになって、喧嘩する仲にもなって、大切の意味を教えてくれた。
ぼくの日常というパズルからすでに石田は欠けてはいけない人物になっていた。
そして、ぼくのパズルにはもうひとつ欠けているピースがある。それはぼくにとって最も重要で、ぼくの世界の中心とも言える大切な存在で、幼い頃から隣に並んでいるのが当たり前だと思い込んでいたピースだ。ずっと同じ時間を過ごしてきたせいか、欠けるはずないと勝手に錯覚していたぼくは本当に愚かだった。
石田の家を後にしたぼくは止まない雨の中を茉依の家に向かって全力で駆けていた。びしょ濡れのまま着続けている制服が体温を奪い、ほとんど休まず動かしている足は震えている。それでも止まってはいけないと自分に言い聞かせて走り続けた。
そういえば昔もこうやって雨の中を走ったことがあったっけ――――。
あれはぼくと茉依が小学4年生の頃の話だ。
ぼくと茉依は同じクラスになったけれど席は少し離れていて気軽に話すことができずにいた。ぼくは友達と帰ることが多々増えていって、茉依と一緒に帰ることが少なくなっていた。
のちにぼくは茉依を泣かせてしまう。涙の理由としては実に些細な事だった。一緒に帰らなかっただけ――――でも茉依にとっては些細な事ではなかった。
もともと茉依は引っ込み思案で自分から話しかけるタイプではなかった。幼稚園にいたときからいつも部屋の隅で独り大人しく絵本を読んでいて、友達と一緒に遊んでいる姿を見たことがなかった。
きっと石田や雨宮さんや他の生徒には茉依が明るく元気で誰とでもすぐに仲良くなれそうな感じに見えているだろう。話し掛けたら普通に返してくるし、よく笑うし、友達と遊んでいて一見コミュニケーションに問題はないように見えるけど実際は違う。
茉依は人と話すのが大の苦手だ。それはいまでも変わらない。あの頃1人で絵本を読んでいたのは人と話すことを恐れていたからで、泣いていたのは話し掛けられることに慣れていなかったからだ。たしかにその頃から比べるといまは大分話せるようになったようだけど、それでも自分から話しかけるのは苦手なままだと言っていた。
茉依が紙ヒコーキを大切にしているのは話す代わりのコミュニケーションだからだ。「おはよう」も「ありがとう」も「ごめんなさい」も紙ヒコーキを使う。初めて渡された人は驚くかもしれないが、2回3回となると〝面白い子〟として可愛がられていくのだ。
茉依は自分でも気が付いていなかっただろう。話すのが怖くて紙ヒコーキに想いを託したら面白がられて、それが噂になっていつの間にか友達ができていたなんて。ぼくは茉依の傍でいつかいじめられるのではないかとずっと心配で見守ってきた。幸いにも誰からもいじめられず、むしろ茉依の紙ヒコーキを使ったコミュニケーションは評判になっていった。
そんなある日の放課後のことだった。茉依から紙ヒコーキを一機手渡され、「開けて」と言うものだから紙ヒコーキを開いてみると書かれていたのは『いっしょにかえろう』だった。でもぼくは友達と帰る約束をしていから茉依には悪いと思いながらも断った。
家に帰ってから数時間後、茉依のお母さんから電話があった。
「もしもしこんばんは」
「こんばんわ」
「その声はゆーくんね。茉依のお母さんです。そちらにうちの茉依が遊びに行ってないかしら? まだ帰ってきてなくてもしかしたらゆーくんのお家にいるんじゃないかなって……」
茉依は家に遊びに来てなんかない。胸にざわめきを感じてぼくは受話器も切らずに慌てて家を飛び出した。
下校したときは雨が降っていなかったのに夜になってから雨が降りはじめて雷も鳴っていた。もしかすると茉依は突然降ってきた雨を避けるためにどこかで雨宿りをしているのかもしれない。雷も鳴っているしそうに違いない。ぼくは祈るように何度も何度も心で呟きながら茉依の姿を懸命に探した。
傘も持たずに飛び出したぼくは雨に濡れながら、霞む視界の中を街灯に沿って走った。
近所の公園。
商店街の中。
学校付近。
神社にお寺。
どこにも茉依の姿は見当たらなかった。どこに行ったんだよ茉依……。
そのときぼくの目の前に紙ヒコーキが落ちているのが見えた。それは放課後に茉依から手渡された紙ヒコーキに間違いなかった。ふとぼくの脳裏に茉依とよく一緒に帰っていた日々のことを思い出した。ぼくと茉依は帰りに必ず寄るところがあった。
もしかするとそこにいるのかもしれない……。
ぼくは冷え切った身体で茉依がいるかもしれない場所へと走り続けた。走って走って走り続けていまにも倒れてしまいそうだった。でもそこに茉依がいるかもしれないと思うだけで頑張ることができた。
ぼくが着いたのは学校から結構離れたところにあるペットショップだった。動物好きな茉依と下校する際は必ず付き合わされていた。そしてぼくの予想は当たっていた。街灯にぼんやりと照らされている茉依が屋根の下でしゃがみ込んでいた。
「茉依!」
「ゆーちゃん……。ゆーちゃん…………?」
「やっぱりここにいたんだね……。茉依のお母さんから茉依が帰って来てないって聞いて……急いで色々探したんだよ……。見つかってよかった」
「うっ…………うわぁぁぁぁぁぁぁん!」
茉依は突然泣き出してしまってぼくはどうしていいか分からなくなった。
「どうしたんだよ茉依……」
「だって……だって……ゆーちゃんがっ……ゆーちゃんが一緒に帰ってくれなかったんだもん……」
「だから今日は友達と帰るって言ったじゃんか……」
「私だってたまにはゆーちゃんと帰りたかったの! ゆーちゃんは友達がいっぱいだからわからないいんだよ……。ゆーちゃん1人で帰ったことある……?」
「ない……けど」
「1人で帰るのってすごく寂しいんだよ……。わたしね……たまにお友達と一緒に帰ると楽しい。話すのは怖くて苦手だけどそれでも楽しいの……。でも……でもね……ゆーちゃんとならもっと楽しいのっ! 怖がらずに話せるの!」
茉依……。
「だから……たまにはわたしと一緒に帰って……」
「うん。明日は一緒に帰ろう。だから今日はもう帰ろう。茉依のお母さんも心配してるからさ」
茉依は首を縦に振って答えた。
「それじゃあ約束な!」
ぼくは道で拾った茉依の紙ヒコーキを茉依に手渡した。雨で萎れていたけれど、『いっしょにかえろう』の文字だけははっきり残っていた。
――あの日から茉依とまたよく帰るようになったんだよな。
クラスの友達からは冷やかされたけど茉依が喜んでくれるならそれでよかった。ぼくはもしかしたらその時から茉依のことが気になっていたかもしれない。
欠けたピースは元通りに戻せることを昔に証明しているじゃないか。小学4年生のぼくにできたんだ。いまのぼくにできない訳がないじゃないか。取り戻すんだ。ぼくの日常を。
いま行くから待ってろよ茉依。
ぼくは水溜りを踏みつけて茉依の家へ向かう。
ローズマリー。花言葉は、『思い出』『記憶』『追憶』『私を思って』などです。
次回話に続きます。




