カモミール
いつも通り制服に着替えてから朝食をとって鏡の前で身だしなみを整えていた。ぼくは冴えない顔つきでなんだか弱弱しくて元気がないのが一目で分かった。自分でも多少は自覚していたけれど、ここまで酷いとは思ってもいなかった。自分でそこまで思っているのだから、家族やクラスメイトからすると病気なのではないかと心配されそうだった。でも幸いにも父さんも母さんも気を遣っているのか、普段と変わらない態度で接してくれた。いまのぼくにはそれが何よりも嬉しかった。
これ以上家族に心配を掛けないように、ぼくはいまできる精一杯の笑顔と大きな声で「いってきます」と家を出た。雨の音と匂いに憂鬱な気持ちを抱いたまま、傘を差して学校へ向かって通学路を歩き出した。少し前なら黄色い傘を差した茉依と偶然落ち合ってそのまま一緒に登校していたのに、いまはいない。さらに和傘風の傘を差した石田は登校すらしていない。正確には自宅謹慎で登校できないのだから仕方がないけれど、どうもぼくの中で日常が変わってしまったみたいだ。
昇降口で濃菫色の傘を手にした雨宮さんを見かけた。長い髪をそっと右手で耳に掛けてから外履きを手に取って下駄箱へしまう仕草に思わず息を飲んで立ち止まってしまった。
「あら、須永君おはよう」
「あ、おはよう雨宮さん。今日はめずらしく遅めの登校なんだね」
「そうね。ちょっと目覚ましが壊れていたみたいで遅れてしまったの。でも遅刻しなくてよかったわ」
「まだまだ余裕だよ。それよりも昨日はありがとう」
「わたしは何もしていないわ。ただ何もできなくて見ていることしかできなかったもの。何でもできると思っていたのがとても恥ずかしいわ。本当に何もしてあげられなくてごめんなさい」
「雨宮さんが謝る必要なんてないんだよ! 悪いのは全部ぼくでこんな事になった原因もぼくなんだ」
「須永君それは違うわ。誰が悪いとか原因とか間違っているの。誰も悪くないし原因でもない」
「でも……」
でも現状は最悪じゃないか。茉依も石田もいない。紙ヒコーキが飛び交う楽しかった日々がいまはやってこないんだ。それはやっぱりぼくのせいなんだ。
昇降口を後に階段を上っていく途中、雨宮さんは口を開いた。
「私はね、仕方がなかったと思うの。茉依ちゃんは可愛いからきっと誰からも好意を持たれるし、いつかは告白されるものだと思っていたわ。石田はあの容姿だから先生とか他校の生徒に目を付けられやすいけれど中身はすごく優しくて誰からも好かれるお節介さんよ。だから今回の件みたいに謹慎処分になる可能性はいままでも何度かあったの。でも誰が悪いとかじゃないわ。告白した人は勇気を出して、断ったのか承諾したのかわからないけれど茉依ちゃんも考えて答えを出して、須永君のために何かしたいと大きく空回った石田も精一杯悩んで頑張っていて、そしてね、それらを一番理解している須永君が苦しんでいる――」
「雨宮さん……」
「みんなそれぞれ悩んで苦しんで答えを探しているの。みんな一生懸命答えを探しているのにそれを『悪い』と言うのは間違っていると思う。私たちは同じ人間でおまけに同い年の男女なのだから傷つけ合ったりもすると思うの。けれどそうやって私たちは少しずつ成長していくわ。泣いて笑って苦しんで怒って何十回も何百回も何千回も何万回もぶつかり合うの。これはきっと私たち人間に許された特別な方法よ。ひとつ須永君に質問するわね。いっぱい悩んで苦しんでそんな酷い顔になるまで2人のことを思い続けた須永君はいま何をしたいと思っているの?」
「ぼくは……」
雨宮さんに何もかも言い当てられてしまった。元気なように振舞って挨拶したのもバレていて、昨日一日悩み苦しんだ思いも、茉依と石田のことを考えていたぼくの気持ちもすべて悟られた。そして『いっぱい悩んで苦しんでそんな酷い顔になるまで2人のことを思い続けた須永君はいま何をしたいと思っているの?』という質問の答えをきっと雨宮さんは知っているんだ。ぼくがどんな気持ちで何と答えるか分かっているに違いない。
雨宮さんはやっぱりすごいな。
「ぼくはもう逃げないよ」
「うん。きっとそういうと思っていたわ」
「じつはね、ぼくも雨宮さんがそう応えるんじゃないかって思っていたんだ」
「あら、そうなの?」
「うん。雨宮さんはいつでもぼくたちを見ていたよね。教室で茉依と話しているときも石田といるときもそっと見ていてくれたよね。本当はそのときからこうなることを知っていたんじゃないの?」
「それはないわよ。ただ須永君や茉依ちゃんを見ていたらいいなぁーって思っちゃったの。私もあの日だまりの中に入って笑いたいって。何でもできるのが当たり前と思っていた私でも不安だったわ。だって、人間関係ってどうにかできるものじゃないでしょ? 4人で過ごせた毎日が本当に楽しくて幸せだったの。私には2人を説得するなんて大それたことはできないわ。だからね、須永君お願い。私にあの馬鹿と茉依ちゃんと須永君の毎日を過ごさせて!」
「そんな約束はできない……なんて言わないよ。ぼくだってもうこんな思いはたくさんなんだ」
「顔色よくなったわよ」
「なんだか気も楽になったよ。雨宮さんにはいつも助けてもらってばかりだな。でもね、もう一つ助けてもらいたいことがあるんだ」
「なにかしら?」
「茉依が今日学校に来ているか調べてほしいんだ。ぼくはいまから石田の家に行ってくる」
「いまからってもう授業始まるわよ!?」
「いまじゃなきゃきっといけない気がするんだ……」
「……そう。仕方がないけど先生には私から伝えておくわ。茉依ちゃんのこともわかったらメールするわね。だから安心してあの馬鹿と話してきて」
「うん! 雨宮さんももう悲しい顔しなくていいからね。それじゃあ行ってきます!」
誰もが不安を抱えている。それは雨宮さんも一緒だった。隠していても分かるよ。昇降口で髪を耳に掛けた時、ぼくには見えていたんだ。あれは雨なんかじゃなかった。雨宮さんの頬を伝っていたのは涙だ。 もう本当にこんな思いをしたくないしさせたくない。
誰が『悪い』とかじゃないならきっと正せられる。
ぼくはどうしても伝えたいことがあるんだ。
雨の中傘も差さずに外へ飛び出したぼくを見つめる視線に恐怖や不安は一切感じなかった。
カモミール。花言葉は、『苦難の中で』『苦難に耐えて』『親交』です。
次回話に続きます。




