ミヤコワスレ
まるで、止まっていた時間が動き始めたように、真っ白な世界は徐々に輪郭を取り戻しはじめ、周囲の音もゆっくりと鼓膜を揺らしだした。
靄が晴れていくように視界がはっきりとしてきたぼくの瞳にまずはじめに映ったのは石田の足だった。ぼくは無意識に下を向いていて、小さく黒い染みのついた石田の上履きをじっとみつめていた。
顔を上げようにも押さえつけられているような重圧感がのしかかって目線すら上げることも叶わない。抵抗するように目線を上げていく。膝から腰へ、腹から胸へ、そして喉を見た瞬間に急に寒気がした。頭の先からすぅーと背中へ流れ込む冷気。それが一体何を意味しているのか、ぼくは見ることのできない喉より上に答えがあると直感で察していた。
……きっと顔を上げたら石田はすごい顔で怒っているだろう。
ぼくは下を向いたまま、降りてきた昇降口の階段を上がっていく。
「ゆーさんどこいくんスか……」
「教室に戻るんだよ」
「ゆーさんっ!」
「いいことだろ! あいつだって子どもじゃないんだ! 男子のひとりやふたりに告白だってされるよ……。何もぼくが心配する必要なんてなかったんだ。ただぼくはあいつのことをずっと幼い頃と同じようにみていただけで、気が付いていなかっただけだ。現実を見ていないのはぼくの方で、ぼくよりもずっとあいつの方が現実を見ていて受け入れただけじゃないか。それに……これであいつも良かったんじゃないか。ずっとぼくなんかと一緒にいたんだ。そろそろ離れて当たり前なんだよ。幼馴染だからってずっと一緒にいられると思っていたぼくが間違っていたんだ。だから石田の言うことは正しいよ。正しいけど……悪い、もうそれ以上あいつのことを言わないでくれ……」
「さっきから聞いていれば茉依さんのことを〝あいつ〟呼ばわりしてどういうつもりっスか……」
「なんて呼ぼうとぼくの勝手じゃないか……」
「ゆーさんっ!」
「ぼくはあいつのお父さんでも保護者でもない! 偶然幼馴染として長い間いっしょに時間を過ごしてきた他人だよ! 巣立って当たり前なんだ。それに迷惑なんだよ……ずっとまとわりつかれるのもさ……」
口を閉じた瞬間――ぼくの体を貫かれるような衝撃とともに横腹から全身へ激痛が走った。刹那的に浮いた身体が廊下の冷たい壁に鈍い音を立ててぶつかり、眼前で揺れる茶色っぽい髪に視界を塞がれた状態でシャツの襟をぐっと掴まれて何度も何度も揺らされた。
「ふざけんなっ! なにが迷惑だ! なにが当たり前だっ! どんな気持ちで口にしてんスかっ! おい、答えろよ……答えろよゆーさん!」
先ほどからの騒ぎを見ていた生徒が先生に伝えたのだろう。聞きつけた数人の先生が階段を降りてきてぼくに掴みかかる石田を取り押さえた。思いのほか石田の突進が効いていたのか、ぼくは壁を這うように床に座り込んだ。意識の飛びそうな霞んだ視界で暴れる石田の顔をじっとみつめた。大人数人がかりで取り押さえているにもかかわらず、石田は抵抗を止めようとしないでぼくの方へ何度も手を伸ばして言った。
「取り消せっ……取り消せよ……ゆーさんっ!」
その言葉を最後にぼくの視界は真っ暗になった。
――・――・――・――・――
目が覚めたのは橙が窓の外いっぱいに広がる綺麗な夕時だった。
ぼくはベッドの上で仰向けになって見知らぬ天井を見ていた。周囲を確認して自分が今横たわっている場所を認識した。
……ここは保健室か。
体を起こすと仕切られていたカーテンの向こうから雨宮さんが顔を覗かせた。
「起きたのね。体調はどうかしら?」
「雨宮さん……うん、大丈夫だよ。少しぼーっとするけど問題ないかな」
「そうよかった。石田は先生にどこか連れていかれるし、須永君は倒れてるし、私どうしたらいいのか分からなくって茉依ちゃんの教室に行ったら茉依ちゃんがいなくって……。戻ってきたら保健室に運ばれたって聞いてずっと側いたのよ」
「ごめんね迷惑掛けちゃって……。ずっと側にいてくれたんだ、ありがとう。それで、石田はいまどこにいるのかな? やっぱりもう帰った?」
「……彼なら須永君に暴力を振るって先生に反抗したせいで2週間の自宅謹慎になったって。さっき彼のクラスの子が廊下で話しているのを聞いたの。2年生の間ではもう全体に広まってるかもしれないわ」
「石田が自宅謹慎!?」
「えぇ。きっと間違いないわ。それよりも彼と何があったの? 廊下の方から怒鳴り声が結構聞こえてきてたけど……」
石田が自宅謹慎。それも2週間も……。
ぼくは怖くなった。震えが止まらなくなった。全身の毛穴から嫌な汗がじわりと染み出す感覚に具合が悪くなりそうだ。鼻先も指先も急に冷たくなってまるで血が通わなくなったような感じがする。雨宮さんにはぼくの顔がどんな風にみえているのだろう。きっと青ざめているのではないだろうか。
石田の謹慎に一番関与しているのはぼくだ。それは絶対に間違いない。それに、あれは石田が悪いわけじゃない。悪いのはぼくだ。ぼくが茉依のことをもっと気に掛けていればこんなことにならなかった。石田にもっと素直に話し合っていればこんなことにならずに済んだんだ。
悪いのは…………ぼくだ。
頭の中を後悔がぐるぐると巡る。言葉の一つ一つが鮮明に脳裏に浮かんではその言葉に心が強く締め付けられる。石田の言葉が鋭利な刃物のように鋭く何度も何度もぼくの心に突き刺さる。痛いのに、聞きたくないのに、思い出したくもないのに、石田の言葉は全て正しいことばかりで心から消えてはくれなかった。それを無理に否定してまで守りたかったプライドは石田を傷付けてしまった。
とてつもなく矮小でちっぽけだ。
情けない。本当に情けない。友達を傷付けてまで守る価値なんてない。それならいっそ失くしてしまった方がいい。後悔が後を絶たない。次から次へと津波のように押し寄せては打ち返す。
終いにはぼくは涙を流していた。
「整理する時間が必要みたいね。いまは何も聞かないことにするからゆっくり休んでね須永君」
「ごめんっ雨宮さん。ほんとごめん……」
「私に謝られても困るわ。謝る相手は分かっているのでしょ?」
「うん……。そうだ、茉依はそれから見かけた?」
「ううん、見てないわ。でもその廊下で話していた子たちが早退したって言ってたような。正確なこと分からないから明日先生に聞いてみるね」
「うん。いろいろ教えてくれてありがとう」
「ううん。それじゃあまた明日ね」
雨宮さんは保健室を後にした。
そのあとぼくは〝ぼくのほうから茉依に連絡してみるよ〟と言えない自分に嫌気がさして涙が止まらなかった。
ミヤコワスレ。花言葉は、『しばしの別れ』『しばしの憩い』『しばしの慰め』『また会う日まで』です。




