第09話 父さんの代わりには、なれない
朝、最初に鳴ったのは、悠真のスマホではなかった。
食卓の端に置かれた、晃一の仕事用スマホだった。
短く、固い着信音。
それが静かな部屋に落ちた瞬間、空気が止まる。
悠真は、すぐには手を伸ばせなかった。
伸ばしたくなかった、のほうが近いかもしれない。
画面には、知らない名前ではない文字が出ている。
相良。
部長、という肩書きが頭の中で勝手についてくる。
父の会社の人。
家の外の父を知っている人。
「……出ないのですか」
ノワールが小さく言う。
いつの間にか、悠真のすぐ隣に立っていた。
「出たくない」
悠真は正直に言った。
「でも、出ないとだめだよな」
「だと思います」
ノワールは答える。
慰めにならないことをわかっているような、静かな声だった。
着信音は、容赦なく鳴り続ける。
九条は朝食の支度の手を止めずに言った。
「出てください」
「即答」
「いずれ出るなら、早いほうが被害が少ないです」
「被害って」
「精神的なものです」
まったく冗談の顔をしていない。
圭介がソファから半分だけ身を起こす。
「俺、外す?」
「今さらだろ」
悠真は言った。
言いながら、ようやくスマホを取る。
冷たい画面が手のひらへ張りつく。
「……もしもし」
自分の声が、少し掠れているのがわかった。
『朝早くに悪い、神代くん』
落ち着いた男の声だった。
怒っていない。
責めてもいない。
それなのに、だからこそ逃げ場がない。
『相良です。お父さんの件で、少し確認したいことがあってね』
お父さん。
そう言われると、余計にきつい。
会社の人なのに、父という単語で入ってくる。
『体調不良でしばらく難しい、という連絡はもらっているんだけど』
相良の声はゆっくりしている。
『課としても、ずっと曖昧なままにはしておけない。引き継ぎもあるし、承認待ちの案件もある』
その言葉の一つひとつが、家の中へ“外の晃一”を運んでくる。
晃一は父だっただけじゃない。
部長直属の課長で、部下がいて、承認が必要で、会議に出て、外で働いていた人だった。
悠真は、そこで初めて自分がどれだけ家の中だけで考えていたかを思い知る。
裂けた父。
戻れない父。
ノワールとブラン。
共同体。
そこにばかり目を向けていた。
でも、晃一には家の外の席もあったのだ。
『神代くん?』
「あ、はい」
『責めたいわけではないんだ』
相良が言う。
『ただ、お父さんの状況を、もう少し整理して知りたい。今日の夜、時間は取れるか』
「……夜?」
『直接押しかけるつもりはない。電話でも、画面越しでもいい』
その一言で、悠真はかろうじて息を吐いた。
来る、ではなく、話す。
それでも重いことに変わりはないが、まだ家の扉までは守られている。
『私一人の理解で抱えていい話じゃない気がしてる。ただ、会社の誰彼を混ぜる前に、まず私が見ておきたい』
その言い方は慎重で、少し不器用だった。
相良部長はたぶん、踏み込みすぎないように気をつけている。
気をつけた上で、それでも引かない人なのだ。
「……少し待ってもらえますか」
悠真はようやくそう言った。
「今、家の中もまだ……」
『もちろん、すぐとは言わないよ』
相良はすぐに返した。
『二十時ごろでどうだ。無理ならずらす』
「……大丈夫です」
『わかった。じゃあ、その時間に改めて連絡する』
一拍おいて、相良が少しだけ声を落とす。
『神代くん。お父さんのことを、仕事の都合だけで聞いているわけじゃない』
「……はい」
『そこは勘違いしないでくれ』
通話が切れた。
よろしく、なんて、誰に言えばいいのかわからないまま、悠真はしばらくスマホを握っていた。
*
夜が近づくにつれて、共同体の空気は目に見えて落ち着かなくなった。
「何時前後って言ってたっけ」
圭介が壁の時計を見上げながら言う。
「二十時」
九条が即答する。
「あと四十分です」
「うわ、急に現実」
「最初から現実です」
「そういう言い方する時の九条、だいたい怖いんだよな」
九条は返事の代わりにメモアプリを開いたまま、淡々と項目を読み上げ始めた。
「確認します。相手の目的は職場側の状況把握。こちらは晃一さん本人が直接説明できない状態であること、家族側で継続的に対応していること、回復の見込みがゼロではないことまでは伝える。そこから先の詳細は、必要最低限に留める」
「必要最低限、ねえ」
圭介が頭を掻く。
「今のこの家を見て、その最低限で済む気がしないんだけど」
「済まないでしょうね」
九条はあっさり言った。
「でも、最初から全部見せる必要もありません」
その言い方に、ブランがぴくっと耳を動かした。
「かくす?」
「安全確保です」
答えたのはノワールだった。
「初対面の外部者に対して、情報と接触範囲を制限するのは当然です」
ノワールは低く続ける。
「晃一が属していた社会の側の人です。善意かどうかとは別の問題として、影響力があります」
ブランは少しだけ口を尖らせた。
「……なんで、かくれるの?」
その声は、拗ねたというより、本当にわからないという響きだった。
悠真は一瞬答えに詰まった。
外の人が来るから隠れる。
それはこの家でいつのまにか共有されていた了解で、でもよく考えると、ずいぶんひどいことでもある。
「隠すっていうか」
悠真は言葉を探す。
「いきなり全部ぶつけても、向こうだって困るだろ」
「お兄ちゃんたちは困ってないのに?」
「困ったよ」
圭介がすかさず言う。
「俺ら最初めちゃくちゃ困ったし、今もたまに困ってる」
「それはそうですね」
九条まで頷いた。
「ただ、そのうえでここにいる、というだけで」
ブランはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「わかった」
ただし、そのあとで付け足す。
「でも、変なこと言われたらやだ」
「その時は私が返します」
ノワールが言った。
「お前が返すのか」
圭介がぼそっと言う。
「頼もしいけど、ちょっと怖いな」
時間は、思っていたよりずっと早く過ぎた。
準備しているあいだ、共同体の空気はずっと落ち着かなかった。落ち着かないまま、時計の針だけが進む。
そして、時刻ぴったりに、晃一のスマホが震えた。
画面には、相良の名前。
悠真は深く息を吸って、通話を取る。
「……もしもし」
『時間もらうよ』
「はい」
『画面にしてもいいか』
「……はい」
切り替えた瞬間、モニターに相良部長の顔が映った。
会社の会議室らしい、白い壁。
蛍光灯の光。
スーツの上着は脱いでいるが、シャツの襟元まできっちりしている。
いかにも仕事の延長にいる顔なのに、眉間のしわだけが、仕事だけではないと言っていた。
『こんばんは』
「こんばんは」
『夜にすまない』
その言い方は朝と同じで、低くて落ち着いている。押しつけがましくない。だが、退く気配もない。
『神代くん。まず確認したい。お父さん本人は、今この場で話せる状態か』
悠真は、一瞬だけ黙った。
その沈黙を、画面の向こうの相良は急かさなかった。
急かさないことで、むしろごまかせなくしてくる。
「……そのままの意味では、無理です」
『そうか』
相良は短く頷く。
『では次だ。今、お父さんの状況を把握している人間は、この家にいるのか』
その問いは、ひどく事務的に聞こえた。
でも、その下にあるのはたぶん確認だった。
家の中がもう壊れているのか、まだ誰かが立っているのかを見ている。
「います」
悠真は答えた。
「俺と、九条さんと、圭介と……」
そこで迷う。
迷った先を、ノワールが拾った。
「私とブランもいます」
悠真の肩が跳ねる。
九条が視線を上げる。
圭介が息を呑む。
画面の向こうの相良部長は、すぐには反応しなかった。
驚いたのかどうかも読み取りづらい。
ただ、ゆっくりと瞬きをしてから言う。
『今の発言者を、画面に映せるか』
責める声ではない。
確認する声だった。
だからこそ逃げられない。
悠真はノワールを見る。
ノワールは一瞬も逸らさない。
その静けさに押されるように、悠真は端末の角度を変えた。
画面の中へ、リビングが入る。
ソファ。ローテーブル。端末を閉じた九条。背筋を伸ばした圭介。そして、その少し奥、神代家の“いつもの”位置にいるノワールとブラン。
普通の長期療養家庭では、絶対にない光景だった。
相良部長は黙った。
叫びもしない。取り乱しもしない。
だが、その沈黙は明らかに長かった。
理解が追いつくまでの時間を、きちんと取っている沈黙だった。
「こんばんは」
ブランが先に言った。
九条が小さく息を呑む。
圭介がこめかみを押さえる。
悠真の心臓は一度変な音を立てた。
相良部長の視線が、白銀の白虎に移る。
次に黒金のアヌビスに移る。
それから、ゆっくり悠真へ戻った。
『……悠真くん』
「はい」
『確認したい』
声は低いままだった。
『これは今、私が見ている通りのものか』
悠真は一瞬だけ口を開き、閉じた。
どう答える。
何から答える。
その逡巡を切ったのは、ノワールだった。
「はい」
ノワールは静かに言った。
「私はノワールです。晃一由来の存在です」
「こっちがブラン」
白銀の白虎がぺこりと頭を下げる。
「ブラン」
相良部長は、二人を見たまましばらく何も言わなかった。
やがて低く息を吐く。
『普通ではないな』
「……はい」
悠真が答える。
「普通ではありません」
『だが』
相良部長の視線が、画面の中をゆっくり移る。
『誰も、これを冗談として扱っていない』
その言い方に、九条が少しだけ顔を上げた。
圭介も息を詰めている。
『私は君を責めたいわけじゃない』
相良部長が言う。
『ただ、今見ているものを電話一本で会社側へ流すわけにもいかん。ここから先の話をするなら、開発側の人間が必要だろう』
悠真の指先が冷える。
その“必要”は、たぶん正しい。
正しいからこそ逃げ場がない。
「……牧瀬さん、呼びます」
*
コールは一回で繋がった。
さすがにこの時間だ、研究所にまだいるのだろう。
『はいはい、どうした』
いつもの調子だった。
だが悠真は、その第一声へ少しも安心できなかった。
「牧瀬さん」
『うん』
「相良部長と、今、画面繋いでます」
沈黙。
一秒。
二秒。
『……は?』
あまりにも率直な反応だった。
「見てます」
『何を』
悠真は答えられなかった。
代わりに、圭介が横からぼそっと言う。
「全部」
『ああ最悪だな』
端末越しに、椅子のきしむ音がした。
牧瀬が本気で姿勢を直したのだと、音だけでわかる。
『画面そのまま。切るな』
「はい」
数秒後、モニターに映った牧瀬は、さっきまでの軽口の男ではなかった。
研究所の照明に照らされた白衣姿のままだが、顔つきが違う。
目の焦点がまっすぐで、口元の緩さも消えている。
いつになく大人の顔だった。
でも、その静けさは安心感だけではない。
何かを決めきっている人間の静けさだった。
『初めまして』
牧瀬が先に言った。
『牧瀬です。晃一の友人で、今回の事態に関わっている開発責任者の一人です』
“開発責任者”。
その言い方に、悠真は少しだけ驚いた。
いつもの牧瀬なら、もっと曖昧に逃がす言い方をしそうなのに、今はしない。
相良部長が低く返す。
『相良です。神代の直属上司だ』
『存じています』
『なら話は早い』
相良部長は端的だった。
『今、私は君の作ったもののせいで、うちの部下が黒と白に分かれているという説明を受けている。まず確認したい。これは本当か』
悠真の胃が縮む。
九条の指先がわずかに止まる。
圭介は、さっきまでの軽口を飲み込んだまま黙っていた。
牧瀬は、少しも逸らさなかった。
『本当です』
短い返答だった。
逃げない言い方だった。
『ただし、ふざけているわけでも、冗談でもありません。事故の結果として生じた分離個体で、現在は神代家で共同生活を行っています』
相良部長は、その言葉を一つずつ受け取るように黙っていた。
『戻せるのか』
低い問いだった。
仕事の確認というより、どこか個人の声に近い響きが混じっていた。
モニターの向こうで、牧瀬が一瞬だけ黙る。
その沈黙だけで、悠真は胸が苦しくなった。
『戻します』
やがて牧瀬は言った。
『必ず、晃一へ寄せていく』
ノワールの耳が、ほんのわずかに動いた。
ブランは意味を全部は飲み込めていない顔のまま、それでも画面をじっと見ていた。
『誤解しないでください』
牧瀬の声は低い。
『今ここにいる二人を雑に壊すつもりはない。乱暴なこともする気はない。だが、この状態を完成形として肯定するつもりもありません』
部屋の空気が、そこで少し変わった。
悠真は息を呑む。
九条の視線が鋭くなる。
圭介が何か言いかけて、飲み込む。
ノワールだけが、まっすぐ画面を見ていた。
『晃一は、こんな形で引き裂かれたまま置かれていい人じゃない』
牧瀬は続ける。
『この二人が今ここで呼吸して、考えて、生活していることは知っています。そこは無視しない。無視しないまま、それでも晃一を戻す方法を探す。そのためなら、俺はかなり危ない橋も渡ります』
その言葉は、頼もしさと同時に、妙に冷たかった。
救うと言っている。
でもその救いは、今ここにあるものをそのまま守る救いではない。
もっと遠くの一点だけを見ている人間の声だった。
ブランが小さく首をかしげる。
「……ぼくたち、だめ?」
牧瀬の目が、一瞬だけ揺れた。
けれど次の瞬間には、もう戻っていた。
『だめだとは言ってない』
その返答は丁寧だった。
丁寧なのに、余白が少なかった。
『お前たちを見捨てる気もない。ただ、俺は晃一を失ったままで終わるつもりもない』
そこにあるのが愛だとわかる。
深くて、必死で、本気の愛だとわかる。
だからこそ危うい。
相良部長は腕を組むでもなく、ただ膝の上へ両手を置いたまま言う。
『神代は、会社ではよく働く男だ。部下の面倒も見る。無茶はするが、雑ではない。あいつがいないと回らん仕事も、実際ある』
悠真は黙って聞くしかなかった。
それは、家の中では知らない父の話だった。
『だが』
相良部長の視線が、ノワールとブランへ向く。
『今ここにいるものも、ただの途中経過には見えん』
部屋が静かになる。
ノワールはまっすぐ相良部長を見返していた。
ブランは、少しだけ胸を張った。
牧瀬は、その言葉にすぐには返さなかった。
返せないのではなく、返したら何かがはっきりしすぎると知っている黙り方だった。
『……そう見えるのも、理解しています』
ようやく出た声は低かった。
『だから厄介なんです』
その本音が落ちた瞬間、悠真の背筋が冷えた。
牧瀬にとって、この二人はもう見えている。
見えているのに、それでもなお、晃一へ向かう。
『会社側への説明は、私が一度預かる』
相良部長が言う。
『だが、期限なしで待てる話でもない。そこは理解してほしい』
『もちろんです』
悠真は、その応答を聞きながら、家の中と外の社会がようやく真正面からぶつかった気がした。
どちらかが嘘だという話ではない。
どちらも本当で、だから苦しい。
相良部長は最後に、悠真を見た。
『悠真くん』
「はい」
『お前も、そろそろ家の中だけで抱えるのはやめろ』
その言葉はきついのに、責めている響きではなかった。
外へ出ろ、と言われているのだとわかる。
父の外側から逃げるな、と。
「……はい」
声が掠れた。
通話が切れたあともしばらく、誰もすぐには動かなかった。
テーブルの上には、手つかずの夕食と、九条の閉じた端末。
ソファには、座り方の崩れない圭介。
その部屋の真ん中に、ノワールとブランがいる。
外の父と、家の中の共同体が、ようやく同じ画面へ入ってしまった夜だった。




