表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/13

第08話 共同体

 夜、神代家のリビングは、珍しく少しだけ早く静かになった。


 洗い物は終わっている。

 洗濯物も畳まれた。

 九条はメモを見ながら明日の段取りを整えていて、

 圭介はその横で、よくわからない顔のまま手伝っていた。

 ノワールは、さっきまで一緒に食器を拭いていたが、今はテーブルの端で細々したものを整えている。


 その中で、ブランだけがすでにソファへ転がっていた。

 パンダを抱え、脚をぶらぶらさせながら、悠真のほうを見る。


「おにいちゃん」

「ん」

「きょう、みないの」

「何を」

「ぱんだ」

 そこでようやく、悠真は思い出した。


 最近、少しだけ間が空いていた。

 共同体ができて、暮らしが回って、外へ出る準備まで始まって。

 盤上パンタの配信を見る夜が、自然に減っていたのだ。


「見るか」

 悠真が言うと、

 ブランはすぐ身体を起こした。

「みる」

「早いな」

「みる」

「わかった、わかった」

 言いながら、タブレットを引き寄せる。


 ノワールは、そこでほんの少し手を止めた。

 何も言わない。

 ただ、兄と白銀がソファへ並ぶ気配を、横目で拾っている。

 その前に、食卓の上のコップの位置だけはきちんと揃え直していた。兄の席、ブランの席、自分が立つ位置。ノワールにとって、この家はもう輪郭のない場所ではなくなっている。


 盤上パンタの配信は、今日は雑貨屋のアーカイブだった。


 店の棚。

 古いぬいぐるみ。

 変な形のカップ。

 海外のボードゲーム。

 意味のわからないマスコット。

 画面の向こうで、盤上パンタがそれをだらだら眺めている。


 悠真は、動画が始まった瞬間に少しだけ肩の力が抜けるのを自覚した。

 その緩み方は、共同体の中で息をつくのとは別だった。ここだけは、家の中にいてもまだ誰にも触れられていない。そう思ってしまうこと自体が、少し後ろめたい。

 それは、誰にも言わない種類の緩み方だった。


「このひと?」

 ブランが訊く。

「そう」

「ぱんだ」

「パンダ」

 画面の中の盤上パンタは、いつもの白黒のアバターで、

 雑貨屋の片隅に置かれた意味不明な小物へ向かって

『これ、誰がどんな気持ちで作ったのか全然わからないけど、嫌いじゃない』

 などと喋っている。


 ブランはすぐに笑った。

「へん」

「変だな」

「すきそう」

「誰が」

「おにいちゃん」

 即答だった。

 図星で、少しだけ困る。


「……まあ、好きだよ」

 そう言うと、ブランは満足そうに頷いた。

「やっぱり」

「何でわかるんだよ」

「いま、ちょっと、かお、やわらかい」

 白銀のくせに、妙なところだけ見ている。


 動画の終盤、盤上パンタは雑貨の話からそのまま流れるみたいに、短い歌クリップを流した。

 明るい色のテロップが跳ねて、軽いイントロが鳴る。


 はみだし! はみだし! 大正解!

 きみは最初から 大正解!

 きみのかたちは きみだけの

 どこにもない星の 設計図!


 ブランの耳がぴんと立った。

「はみだし、はみだし」

 すぐに真似する。

「だいせいかい」

「そこだけ拾うな」

「そこ、すき」

「わかりやすいな」

 悠真は少し笑った。

「あと『どこにもない星の設計図』ってとこも、たぶんお前好きだろ」

「せっけいず?」

「変でも、その形のままでいいって言ってる感じのやつ」

 悠真はそこで、少し離れたところにいるノワールへ視線をやった。

「ノワールも、こういうのちょっと刺さりそうだけどな」


 少し離れた位置で、ノワールの手がまた止まった。

 今度は止まったことが、はっきりわかった。

 だが彼は振り返らず、整えていたものの位置をわずかに直すだけに留めた。

「……言葉としては、わかります」

 小さく、それだけ言う。


「ほら」

 ブランがすぐに嬉しそうな声を出す。

「ノワールも」

「好きだとは言っていません」

「でも、ぴくってした」

「していません」

「した」

 やり取りはそれだけなのに、妙に家の中へ残った。

 歌の断片だけが、動画の明るさより少し長く、リビングに残響していた。


     *


 朝、目が覚めた時、圭介は一瞬だけ自分がどこにいるのかわからなかった。


 天井が違う。

 匂いも違う。

 枕の硬さも、自分の部屋のそれとは違う。


 でも、すぐに思い出す。


 神代家だ。

 悠真の家。

 晃一さんが戻れなくなって、

 黒と白の機械の弟みたいなものがいて、

 牧瀬さんと九条さんが出入りして、

 昨日、自分は「明日も来られますか」と聞かれて、

 あっさり「行けます」と答えた。


「……何やってんだろ、俺」


 声に出してみる。

 返事はない。

 当然だ。


 でもその言葉は、思っていたより責める感じにはならなかった。


 何やってんだろ、という問いの中に、

 やめとけよ、という声もある。

 その一方で、

 でも、行かないの無理だったろ、という声も、同じくらいはっきりある。


 薄く開いたリビングの向こうから、つけっぱなしのテレビの音が一瞬だけ聞こえた。盤上パンタが出ているCMらしく、明るい声が短く跳ねてすぐ切れる。もう神代家の生活の背景にも、その名前は普通に混じっていた。

 圭介は寝返りを打つ。

 客用に用意された布団の向こう側から、台所の音が小さく聞こえた。

 食器の重なる音と、水の流れる音。

 誰かがもう起きている。


 九条さんだろうな、と思う。

 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ変なふうにざわついた。


 きれいだった。

 初対面の印象としては、それがいちばんわかりやすい。

 でもそれだけじゃない。


 無駄に大きい声を出さない。

 慌てない。

 必要なことを必要な順番で言う。

 なのに、冷たく切り捨てている感じもしない。

 ああいう人がこの家にいてくれると、たぶん本当に助かるのだろう。


 それを見て、圭介は思ってしまった。


 悠真のために残ろう、は本当だ。

 でも、それだけじゃない。


 九条さんがいるなら、もう少しここにいたい。

 あの人がこの家を整えていくところを、見ていたい。

 自分もその輪の中に入りたい。


 その気持ちを、善意だけで包むのは無理だった。


「……最悪だな」


 でも、その最悪さも嫌いではない。

 少なくとも、ただの偽善よりは本音に近い気がした。


 リビングへ出ると、九条がもう起きていた。


 その横で、ノワールが皿を並べている。

 少し離れたテーブルでは、悠真が半分死んだみたいな顔で座っていた。

 ブランはまだ丸まって眠っている。


「おはようございます」

 九条が先に言う。

「……お、おはようございます」

「眠れましたか」

「まあ、それなりに」

「それならよかったです」


 悠真が顔も上げずに言う。

「圭介、お前死んでる?」

「お前に言われたくない」

「それはそう」

 声がもうだいぶ終わっている。


 その時、ノワールが自然な動きで悠真の前へコップを置いた。

「水です」

「……ありがと」

 悠真はそれを受け取るついでに、ノワールの手首へ軽く触れた。

 何の意図もないみたいな動きだった。

 でもノワールは、その触れ方にごくわずかに反応する。

 近い。

 昨日からずっと、近いままだ。

 距離を取っているようには、少なくとも圭介には見えなかった。


 その様子を、ブランが眠そうな目で見ていた。

「……ノワール、ちかい」

「いつも通りです」

 ノワールが言う。

「ぼくも」

「起きてからにしてください」

「いま、おきてる」

 そのやり取りが可笑しくて、圭介は思わず笑った。


 九条がパンを皿へ移しながら言う。

「今日は大学に行きますか」

「……午後から」

 悠真が答える。

「一限は捨てた」

「賢明です」

「褒められてる感じしないな」

「褒めてはいません」

 即答だった。


 この家はまだ全然まともじゃない。

 でも昨日よりは、少しだけ会話が暮らしに近い。

 そのことが、圭介には妙に嬉しかった。


 朝食の席で、ブランがようやく起きた。


「……けいすけ」

 寝起きの声で呼ばれる。

「いる」

「いるよ」

 圭介が答えると、ブランはそれだけで少し安心したみたいに目を細めた。


 九条がパンを配る。

 ノワールが飲み物を置く。

 牧瀬は今日はラボへ先に戻っていて、家にはいない。


「今日は」

 九条が言う。

「午前のうちに牧瀬さんと一度連絡を取ります」

「ラボ?」

 悠真が顔を上げる。

「はい。研究所側の整理と、こちらの生活動線の確認です」

「人、増えてる扱いなんだ」

「増えています」

 九条は当然みたいに言う。

「少なくとも、一時的な来客ではもうありません」

 その一言に、圭介の手が少しだけ止まる。


 一時的な来客ではない。


 昨日の自分なら、まだ“たまたま泊まっただけ”と言えたかもしれない。

 でも今、その言い訳を九条が先に潰した。


 不思議と、嫌ではなかった。

 ちゃんと数に入れられている感じがしたからだ。


 ブランがパンを齧りながら言う。

「けいすけ、きょうもくる?」

「もう来てるだろ」

「じゃなくて、あしたも」

「……それは」

 言葉に詰まる。


 そこで悠真が、少しだけ顔を上げた。

「来れば」

 気のない言い方だった。

 でも、その気のなさが逆に悠真らしい。


「雑だな」

 圭介が言う。

「別に無理して来なくてもいいし、来てもいいし」

「もっと言い方あるだろ」

「圭介が勝手に選ぶほうがいい」

 悠真はコーヒーへ口をつけながら言う。

「俺のためとかにされると、ちょっと重い」

 その言葉に、圭介は胸の奥を少しだけ突かれた気がした。


 俺のため。

 違うとは言えない。

 でも、それだけでもない。


 悠真のためだけじゃない。

 九条さんがいて、

 ノワールとブランがいて、

 このおかしな空間に自分の居場所ができそうな気配があって、

 それを手放したくないと思っている。


 昼前、九条が牧瀬へ電話をかけた。


「はい。今のところ落ち着いています」

「いいえ、ノワールは安定しています。ブランはまだ波がありますが」

「……はい。三崎くんも来ています」

「はい、戦力になります」

 電話越しに何を言われたのか、九条の口元がほんの少し動いた。

 たぶん牧瀬が余計なことを言ったのだろう。


「悠真くんは午後から大学です」

「いえ、一人にはしません」

「はい。こちらは回します」


 電話を切ったあと、九条はテーブルの上へメモを置いた。

「牧瀬さんが、しばらくこの家のことを『共同体みたいなもの』と言っていました」

 悠真が顔を上げる。

「共同体?」

「まだ仮ですが」

 九条は続ける。

「もう、ただの協力者の寄り集まりではないという意味では、妥当かもしれません」


 共同体。


 大げさな言葉だ。

 でも、誰もすぐには笑わなかった。


 ノワールが、静かにその語を繰り返す。

「共同体」

 ブランも、少し遅れて真似する。

「きょうどうたい」


「……何か」

 悠真がゆっくり言う。

「事故の残り物みたいな感じは、少し減るな」

「でも、そうだっただろ」

 視線が落ちる。

「父さんが裂けて、戻れなくなって、その場に残ったやつらが、なんとなく居続けてた」

「そうですね」

 九条が頷く。

「ですが、今は少し違います」

「どう違うんですか」

 ノワールが訊く。

 九条は一拍だけ考えてから答えた。

「残ってしまった、ではなく、残ると決めた人が増えています」

 その言葉が、静かに落ちる。


 圭介は、そこで自分の胸の中のものへ名前がついた気がした。


 残ると決めた人。


 そうか。

 自分は、もうそっちに入っているのかもしれない。


 午後、悠真が大学へ行く支度をしているあいだ、

 圭介は台所の流しへ寄りかかった。


 九条は洗った容器を拭いている。

 ノワールが、その横で布巾を畳んでいた。

 妙に絵になる光景で、なんとなく直視しづらい。


「……九条さん」

 思わず呼ぶと、

 九条は手を止めずに「何でしょう」と返す。

「その」

 言葉が出てこない。

 何を聞きたいのか、自分でも曖昧だった。


 なんでそんなに落ち着いてるんですか、とか。

 こういう時に何でそんな迷いなく留まれるんですか、とか。

 あなたがいると助かるって、言っていいんですか、とか。


 でも、どれも言うにはまだ早い気がした。


「……いや、何でもないです」

 結局そう言うと、

 九条は一瞬だけこちらを見た。

「そうですか」

 それだけだった。


 ノワールが、布巾を畳む手を止めずに言う。

「三崎さん」

「え」

「顔が少し赤いです」

「うるさい」

 即答だった。

 九条はそのやり取りを聞いていたはずなのに、何も言わない。

 だから余計に恥ずかしい。


 夕方前、悠真が大学へ出る準備を終える。


「行ってくる」

 そう言う声は、まだ少しだけ不安定だ。

 ブランが、すぐに顔を上げる。

「いく」

「お前は行かない」

「なんで」

「今日は大学だから」

 昨日までなら、そのやり取りだけでブランはもっと不安定になっていたかもしれない。

 でも今は、九条が横から言う。

「帰ってくるまで、一緒に待ちましょう」

 その一言で、ブランは少しだけ考え、

「……うん」

 と頷いた。


 ノワールは、玄関の少し後ろから悠真を見ている。

「気をつけてください」

「お前、それ完全に送り出す側じゃん」

「送り出しています」

「そうだけど」

 悠真は少しだけ笑う。

 それから、無意識にノワールの襟元を指で整えた。

 自分でも何をしているのかわからないみたいな動きだった。

 でもノワールは、されるまま止まっている。

「……ありがと」

 悠真が言う。

 ノワールは何も言わない。

 でも視線がわずかに和らいだ。


 その光景を見て、圭介は思う。

 昨日までなら、この二人はもっとむき出しにしがみついていたかもしれない。

 でも今は少し違う。

 近い。

 近いまま、少しずつ外の人を増やしている。

 たぶん、それが共同体ということなのだ。


 悠真が出ていったあと、家の中は少し静かになった。


 ブランは最初こそ玄関のほうを見ていたが、

 九条に呼ばれてタオルを畳み始める。

 ノワールは洗濯物の位置を確認している。

 役割があると、二人とも落ち着くのかもしれない。


 圭介はソファへ座り込みながら、天井を見た。


 ここにいる理由は、もう一つではない。

 悠真が心配。

 それは本当。

 九条さんに惹かれている。

 それも本当。

 この家の空気を、もう少し吸っていたい。

 それも本当。

 自分の孤独を、ここで少し埋めたい。

 それも、たぶん本当だ。


 きれいな理由ではない。

 でも、だからこそ嘘じゃない気がする。


「……共同体、か」


 小さく呟く。


 まだ名前だけだ。

 実態はぼろぼろだし、綺麗でもない。

 でも、何となく残っただけの集まりでは、もうたぶんない。


 圭介はスマホを取り出し、自分の家のグループチャットを開く。

 今日は帰りが遅くなる、とだけ打って、少し迷ってから送信する。

 それだけで、何かが一歩進んだ気がした。


 神代家に残る。

 今日だけじゃなく、たぶん明日も。


 その決断は、誰に強制されたわけでもなかった。


「……まあ、いっか」


 そう呟いた時、

 ブランがすぐ横で顔を上げた。

「けいすけ、いる?」

「いるよ」

「よかった」

 その返事があまりにまっすぐで、圭介は一瞬だけ笑ってしまう。


 よかった。

 それだけで、人は案外残れるのかもしれない。


     *


 夜、悠真が帰ってきた時には、家の空気は昨日より少しだけ整っていた。


 九条が残り、

 圭介もまた来ていて、

 ノワールとブランがその中で動いている。


 牧瀬からも短い連絡が入る。

「共同体、でいいんじゃねえか」

 雑な文面だった。

 でも、それで十分だった。


 悠真は靴を脱ぎながら、少しだけ笑う。

「ほんとに、そうなってくんだな」

 圭介がソファから顔を上げる。

「何が」

「共同体」

 その言葉に、ブランがすぐ反応した。

「きょうどうたい」

 まだ少し拙い発音だった。

 でも、その不完全さがちょうどよかった。


 ノワールも、静かに続ける。

「共同体」


 その二つの声を聞いた瞬間、

 悠真は、この家がもう事故の残骸ではないのだと、少しだけ信じられた。


 父を取り戻したわけではない。

 喪失が消えたわけでもない。

 倒錯も、責任も、そのままある。


 それでも、残ると決めた人たちがいて、

 名前がついて、

 今日を回した。


 それだけで、昨日より先へ進んだ気がした。


「……ただいま」

 悠真が言う。

 ブランが、ぱっと顔を明るくする。

「おかえり!」

 ノワールも、少し遅れて言う。

「おかえりなさい」


 その返事が、

 家というより、

 共同体の声に聞こえた。


 悠真は靴を脱いだまま立ち尽くす。

 その顔を見て、ブランが先に寄ってきた。

「おかえり、した」

「したな」

 頭を撫でると、白銀はすぐ満足そうになる。


 ノワールは一歩遅れて近づいた。

 でも、今日はちゃんと来た。

 悠真はその黒金の頭部にも手を置く。

「ノワールも、ただいま」

 言ってから、自分でも少し変なことを言ったと思う。

 けれどノワールは、ごく短く目を伏せたあと、静かに答えた。

「……おかえりなさい、を、もう一度言えます」


 その一言だけで、今日は十分だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ