第07話 九条
九条が来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
インターホンが鳴る。
牧瀬が「来たか」とだけ言って立ち上がる。
その声に、家の空気が少しだけ張る。
玄関の向こうに立っていたのは、想像していたよりずっと整った女だった。
背が高い。
姿勢がいい。
派手ではないのに、立っているだけで妙に目に入る。
きれい、という言葉だけでは足りないくらい、あきらかに人目を引く側の人間だった。
その顔を見た瞬間、悠真は一拍遅れて思う。
――あの九条か。
大学で名前だけは何度も聞いた。
元ミスコン。
今でもたまに噂へ上る側の人。
自分たちの生活圏と地続きなのに、少しだけ遠い位置にいる有名人。
横で、圭介が完全に固まっていた。
「……おい」
小さく声をかけると、
圭介はほとんど口の動きだけで返した。
「無理」
「何が」
「いや、無理だろ」
「知らねえよ」
「いや、あの九条だろ」
「知ってるわ」
「お前、知っててその温度なのかよ」
「うるさい」
そのやり取りが小さすぎて、九条までは届かなかった。
こういう人が家の中へ入ってきて、手順を整え始めれば、息はしやすくなるのかもしれない。そう思った瞬間に、悠真は逆に少し身構えた。楽になりすぎるのも、たぶん変だ。
ただ、その間もノワールは悠真のすぐ斜め後ろにいた。
新しい来訪者を警戒している。
でも、悠真から距離を取るのではなく、むしろ近い位置で様子を見ている。
悠真は無意識に、その黒金の腕へ軽く触れた。
ノワールは一瞬だけ目を向けて、それからまた前を向く。
「九条です」
本人は落ち着いた声で名乗った。
「牧瀬のラボで研究員をしています」
圭介は一拍遅れて、がちがちに固い声を出した。
「は、初めまして……み、三……三崎、け、圭介です」
「落ち着け」
悠真が小声で言う。
「……すみません」
「大丈夫です」
九条はまったく笑わず、でも困らせもしない調子で返した。
「緊張されるのはよくあります」
「よくあるんだ……」
圭介がさらに打撃を受けた声を出す。
その間に、ブランが九条の足元へ寄っていた。
「おまえ、だれ」
「九条です」
九条は視線を落とす。
白銀の白虎。
黒金のアヌビス。
資料や連絡で聞いていたより、ずっと生々しい。
「くじょー」
ブランは口の中で転がす。
「きれい」
「おい」
悠真が思わず言う。
「初対面でそれ言うな」
「でも、きれい」
ブランは真剣だった。
九条はそこで初めて少しだけ瞬きをした。
「ありがとうございます」
短くそう返してから、今度はノワールを見る。
「あなたがノワール」
「はい」
「こちらがブラン」
「うん」
ブランが頷く。
「名前はもう付いているのですね」
九条が言う。
「この家らしいですね」
牧瀬が鼻で笑うみたいに息を吐く。
その言葉の隣で、ノワールはまだ悠真の近くにいた。
リビングへ入ってからは、九条が場へ骨を通した。
「まず、現状を確認します」
無駄な大声も、余計な感情の振れもない。
「晃一さんへの再統合は失敗。現時点では再試行禁止」
悠真の肩が少しだけ強ばる。
「ノワールとブランは、身体・精神ともに不安定」
ブランが悠真を見る。
その視線の意味を、悠真はまだうまく読み切れない。
「生活面では監督が必要です」
九条は続ける。
「少なくとも、今のままでは自然には回りません」
「俺も入るんですか」
圭介が訊く。
「昨日、帰らないと言ったでしょう」
九条は淡々と言う。
「一晩だけでも、場へ残ると決めた人は数に入ります」
その言い方は厳しいのに、どこかちゃんとしていた。
悠真は、少しだけ息を吐く。
“数に入る”。
ノワールとブランも、圭介も、自分も。
九条の言葉の中では、誰も曖昧なまま置かれていない。
その時、ノワールが静かに水を差し出した。
いつの間にか取ってきたらしい。
悠真が受け取ると、ノワールは「熱くはありません」と小さく言う。
どうでもいいひと言なのに、妙に胸へ入った。
「ありがとう」
悠真が言う。
ついでみたいにその頭部の横を軽く撫でる。
ノワールは一瞬だけ止まり、しかしすぐに元へ戻った。
九条はそのやり取りを見ていたはずなのに、何も言わなかった。
会話がひと段落したあと、九条は急に別方向から訊いた。
「悠真くん」
「え」
「何をしている時が、いちばん息をしやすいですか」
悠真は一瞬、言葉に詰まる。
唐突だった。
だが、逃げたいほどではなかった。
「別に、答えたくなければ構いません」
九条は言う。
「ただ、呼吸できる場所を把握しておいたほうが、落ちる人間は少し扱いやすいので」
「扱うなよ人を」
牧瀬が横から言う。
「扱います」
九条は即答した。
「落ちたままにするよりは良いです」
その言い方が妙に正しいから、余計に逃げにくい。
「……配信」
悠真はようやく言う。
「誰の」
圭介が反応する。
悠真は少しだけ眉を寄せる。
この場で名前を出すのか、と自分でも思う。
けれど、もう口に出しかけた以上、引き返せなかった。
「盤上パンタ」
部屋が一瞬だけ静かになる。
圭介は「ああ」と小さく言った。
「まだ見てんのか」
「まだって何だよ」
「いや、お前ずっと好きだなと思って」
「好きだよ」
「かなり有名な方ですか」
九条が確認するように言う。
「俺、ケモノ系とか全然わかんないけど、それでも知ってるくらいには」
圭介が肩をすくめた。
「ゲーム実況とか歌とか、そういう派手なのもやるし」
「あとガジェット紹介とか」
悠真が続ける。
「自作ドローンの動画とかも上げてる。CMにも出てるし」
「守備範囲が広いのですね」
「無駄に広い」
「無駄じゃねえよ。普通にすごいから」
牧瀬は知らないらしく眉をひそめる。
九条だけが、まっすぐ悠真を見ている。
「好きなのですか」
九条が訊く。
違わない。
違わないのだと、自分でわかる。
「……好き」
悠真は俯きがちに言った。
「たぶん、かなり」
「特に何がお好きなのですか」
九条が続ける。
「雑談」
悠真は少しだけ間を置いた。
「たまにやる、チルい感じのやつが一番好き」
その声の重さが、自分でも少し意外だった。
ブランが、ぱっと顔を上げる。
「パンダ」
「そう」
悠真は少し笑う。
「だからお前が最初に部屋のパンダ抱いた時、余計にやばかったんだよ」
「やばい?」
「知らなくていい」
ブランは、そこで少しだけ首を傾げた。
「じゃあ」
「ん?」
「おにいちゃん、ぼくのことも、好き?」
部屋の空気が一拍だけ止まる。
圭介が「うわ」と小さく漏らし、
牧瀬が露骨に眉を寄せ、
九条だけが表情を変えない。
悠真は、逆に少し笑ってしまった。
「何だその確認」
「だいじ」
ブランは真剣だった。
その真剣さに負ける。
「好きだよ」
悠真が言う。
「ノワールも」
ついでみたいに続けたのに、黒金の肩がぴたりと止まる。
「……一応、こっちも入るんだ」
圭介がぼそっと言う。
「入るだろ」
悠真が返す。
ブランはそれで満足したらしく、ぱっと機嫌を直した。
ノワールは何も言わなかったが、視線だけが一度だけ悠真へ向いて、すぐ戻った。
ノワールが、そこで低く訊いた。
「どういうところが、お好きなのですか」
その問いに、悠真は今度こそ完全に詰まる。
しばらく考えてから、ゆっくり言う。
「見てると、ちょっとだけ、自分のこと考えなくて済む」
九条は黙って聞いている。
圭介も軽口を挟まない。
「あと、ときどき」
悠真は続ける。
「どうでもいいみたいな顔して、でも変なとこだけちゃんと見てる感じがする」
「ここにいても、埋まらないとこ、あるだろ」
その一言で十分だった。
ノワールは、それを静かに聞いていた。
言葉の意味を全部は掴み切れないかもしれない。
でも“埋まらないところ”があると悠真が認めたことだけは、たぶんちゃんと受け取っている。
少しして、ノワールがごく小さく言った。
「……わかりました」
理解したとは違う。
でも、否定もしない声だった。
夕方に近づく頃には、九条が家の動線をほとんど把握していた。
どこに何があり、
誰がどの時間に不安定になりやすく、
何が足りていないか。
その把握の速さに、悠真は少しだけ圧倒される。
「今夜から、当面の役割を仮で決めます」
九条が言う。
「牧瀬さんはラボと対処方針の整理。三崎くんは外との買い出しと雑用。悠真くんは休息と、ノワール・ブランの近接観察」
「休息が役割になるの、だいぶ不本意なんだけど」
悠真が言うと、
九条は即答した。
「倒れられるほうが不本意です」
ぐうの音も出ない。
その横で、ブランがまた九条を見上げる。
「きびしい」
「必要です」
「でも、きれい」
「そこはさっき聞きました」
九条の返しは相変わらず平坦で、なのに少しだけ柔らかい。
ブランはそれが気に入ったらしく、満足そうに頷く。
ノワールは、そのやり取りを見ながら、いつの間にか悠真の椅子のすぐ横に立っていた。
役割を与えられても、そばにいることはやめない。
悠真は、それが少しだけ嬉しかった。
兄だけの世界が終わり始めている。
でも、ノワールが距離を置こうとしているわけではない。
むしろ、傷ついたあともまだ、役割と同じくらい自然にそばへ来る。
そのことがわかると、寂しさは少しだけやわらいだ。
しかも、少しだけくすぐったい。
ノワールが近くにいることを、前より意識してしまう自分がいる。
九条が本当に留まると決めたのは、夕方の光が家の奥へ傾き始めた頃だった。
「今夜、帰りません」
あまりにも自然な口調で言うから、最初は意味が入ってこなかった。
悠真が顔を上げる。
「え」
「当面、ここを回す人手が足りません」
九条は淡々と続ける。
「牧瀬さんはラボとの往復が必要ですし、三崎くんは外回りを頼みたい。悠真くんは休息が必要です」
「休息が必要なのは、まだ刺さるな……」
「刺さってください」
即答だった。
「倒れられるほうが困ります」
その言い方が、厳しいのに雑ではない。
その少し前まで、悠真とブランはタブレットで盤上パンタの短い切り抜きを見ていた。白銀はもう「ぱんだ」と言えば通じるくらいには、その画面の向こうの存在へ慣れている。
圭介が小さく手を上げる。
「えっと、俺は」
「三崎くんは、今夜はいったん帰っても構いません」
九条が言う。
「ただ、明日以降また来てもらう可能性は高いです」
圭介は一瞬だけ安心した顔をして、それからなぜか微妙に傷ついたような顔になった。
「帰ってもいいんだ……」
「何だよその反応」
悠真が呆れると、
圭介は咳払いを一つして誤魔化した。
ブランが、会話を聞きながら九条を見上げる。
「くじょー、いる?」
「います」
「ずっと?」
「“ずっと”はまだ言いません」
九条は答える。
「でも、今夜はいます」
それだけで、ブランの肩が少しだけ下がる。
ノワールは、少し離れたところでそのやり取りを見ていた。
けれど、悠真が視線を向けると、すぐこちらへ寄ってくる。
距離を取っているのではない。
誰かが入ってきたぶん、近くにいる理由が増えているようにも見えた。
九条はまず、寝床を決めた。
誰をどこで寝かせるか。
夜中に不安定になった時、誰がいちばん早く動けるか。
ブランの怪我の経過を見るならどの位置がいいか。
ノワールが起きた時に一人になりすぎない場所はどこか。
そういうことを、彼女は迷いなく並べていく。
悠真は部屋の隅に寄ったまま、その様子を見ていた。
自分の家なのに、どんどん動線が書き換えられていく。
でも、自分ではもう回せないともわかっている。
「悠真くん」
九条が呼ぶ。
「晃一さんの部屋、今どうなっていますか」
その一言で、空気が少しだけ止まった。
「……まだ、そのまま」
悠真は答える。
「何も、あんまり触ってない」
「わかりました」
九条はそれ以上は踏み込まない。
ただ、家の中の一室として確認しただけみたいな顔で頷く。
でも、そのさりげなさが逆に刺さった。
晃一の部屋。
使っていないと決めたわけでもない。
片づけると決めたわけでもない。
ただ、まだそのまま残っている部屋。
父は戻らないかもしれない。
でも、その部屋をどうするかなんて、まだ決められない。
そのことが、妙に苦しかった。
その時、ノワールが何も言わずに悠真のそばへ来た。
肩が触れるか触れないかの距離で止まる。
慰め方なんて知らないのだろう。
でも、離れないことだけはできる。
九条は整えられる。だが、この距離の中身までは整えられない。そのことを、悠真はぼんやり知り始めていた。
悠真は、その黒金の肩へ一瞬だけ頭を預けた。
すぐ離れたけれど、それで少しだけ呼吸が戻る。




