第06話 受け取ってください
玄関先で、圭介はしばらく動けなかった。
泣きそうな顔の悠真。
そこへ抱きついている白銀の白虎。
少し遅れて身を寄せた黒金のアヌビス。
そして、その一部始終を見ていたらしい牧瀬。
状況を理解できるわけがない。
「……は?」
ようやく出た声は、それだけだった。
無理もない。
黒と白の獣頭をした、明らかに人間ではない二体が、悠真へしがみついている。しかも悠真は、それを拒むどころか、落とさないように必死で支えていた。
理解が追いつくわけがない。
「圭介」
悠真が名前を呼ぶ。
その声があまりに掠れていて、圭介は逆に一歩も動けなかった。
「いや」
圭介はようやく喉を鳴らす。
「何これ」
視線が、悠真から白銀へ、黒金へ、また悠真へと揺れる。
「何がどうなってんだよ」
答えられる人間は、その場にいなかった。
ブランが、さらに悠真へ顔を埋める。
「おにいちゃん」
震えた声だった。
「やだ」
「大丈夫」
悠真はすぐ返す。
「もう大丈夫」
それが本当かどうかなんて、自分でもわかっていない声だった。
ノワールは、圭介を見た。
赤金の目がわずかに細くなる。
警戒しているのだと、圭介にもなんとなくわかった。
その視線の温度が、逆に現実だった。
着ぐるみでも、幻覚でもない。
あれは、自分を見ている。
「……中、入れ」
牧瀬が低く言った。
「ここで固まっててもどうにもならん」
圭介は反射で言い返す。
「どうにもならんのは、そっちだろ!」
「そうだな」
牧瀬はあっさり認めた。
「だから中だ」
そのやり取りが逆におかしくて、圭介はそこで初めて息を吐いた。
逃げようと思えば逃げられた。
見なかったことにして、背中を向けることもできた。
でも、できなかった。
悠真の顔が、あまりにひどかったからだ。
「……わかった」
圭介は小さく答える。
「逃げねえよ」
その一言に、悠真の肩が少しだけ落ちた。
リビングへ戻ってからもしばらく、まともな会話にはならなかった。
ブランは悠真の隣から離れない。
パンダのぬいぐるみを抱いたままなのに、その上からさらに悠真の服を掴んでいる。
ノワールも少し距離を取ってはいるが、玄関先の時と同じく、いつでも割って入れる位置に立っていた。
圭介はソファの端へ座らされたまま、何度も目を瞬かせる。
視界の中に黒金と白銀がいるだけで、脳が処理を拒んでいる感じがした。
「……説明」
やっと絞り出した声は、それだけだった。
「してくれ」
悠真は、変身機の置かれた机を見た。
あの丸い金属の塊を見るだけで、喉の奥がひりつく。
でも、説明しないわけにはいかない。
「父さんが」
最初の一言が、もう重かった。
「裂けた」
圭介が眉を寄せる。
「裂けた?」
「晃一さんが二人へ分かれた、って意味だ」
牧瀬が横から補足する。
「事故で、な」
「事故で済ませんなよ……」
圭介が呟く。
「済んでない」
悠真が言う。
「だから、こうなってる」
その声の薄さに、圭介はそれ以上軽く返せなくなった。
「……どっちが、神代さんなんだよ」
その問いに、空気が一瞬で張る。
悠真は答えられない。
牧瀬が低く言う。
「どっちも、だ」
「どっちも?」
「そういう分かれ方をした」
圭介は、白銀を見る。
黒金を見る。
どちらも、自分の知っている“神代悠真の家”には存在しないものだ。
でも、その二体は、怪物みたいに見えなかった。
見えたのはむしろ、必死に悠真だけを見ている何かだった。
「……名前」
圭介が言う。
「あるのか」
ブランが、そっと顔を上げた。
悠真が答えるより先に、ノワールが言う。
「私はノワールです」
低く、落ち着いた声だった。
少し間を置いて、白銀の肩が揺れる。
「ぼく、ブラン」
声はまだ震えていた。
でも、ちゃんと名乗った。
圭介は、二人を見たまま動かなかった。
ノワール。
ブラン。
名前を持った瞬間、理解不能な怪物だったはずのものが、余計に現実味を増す。
しかもその二人は、部屋の中で悠真の顔しか見ていない。
依存、という言葉が圭介の頭をかすめた。
いや、もっと切実で、もっと幼い何かだ。
帰る場所を、全部ここへ預けているみたいな。
「……お前ら」
圭介は低く言う。
「悠真のこと、好きなのか」
ブランが、何のためらいもなく頷いた。
「うん」
ノワールは少しだけ間を置いてから、静かに言う。
「はい」
その“はい”が、やけにまっすぐで、圭介は一瞬だけ言葉を失った。
悠真は顔を覆いたくなった。
でも、できない。
ブランがまだ服を掴んでいるからだ。
「……何でそんなこと聞くんだよ」
掠れた声で返すと、圭介は眉を寄せた。
「見りゃわかるだろ」
「見りゃわかるって」
「この部屋ん中で、お前の顔しか見てねえじゃん」
その言葉は、鋭かった。
ノワールもブランも、たしかにそうだった。
牧瀬でもなく、圭介でもなく、部屋のどこでもなく、悠真の顔ばかり見ている。
嫌われていないか、見捨てられていないか、今もたぶん、それを確認し続けている。
その事実が、悠真の胸をまた強く刺した。
その日の神代家は、静かすぎた。
牧瀬は結局帰らなかった。
数日前の軽い来訪とは違い、今日は本当にここを離れてはいけないと思ったらしい。
変身機の近くに座り、ソファの上の三人を、何も言わず見ていた。
圭介も帰らなかった。
帰れるわけがなかった。
親友の家で、親友が泣きそうな顔をして、黒と白の機械の弟みたいなものに抱きつかれている。
そんな光景を見たあとで、じゃあまた明日な、で済ませられるほど器用ではない。
夜が更けるにつれて、ブランはようやくソファの端でうとうとし始めた。
パンダのぬいぐるみを抱え込んだまま、その肩だけが時々びくっと揺れる。
夢の中でもまだ泣いているみたいだった。
ノワールは眠らなかった。
眠れないのだと、見ればわかった。
静かに座っているだけで、張り詰めている。
悠真は、朝までひどく浅い眠りしか取れなかった。
目を閉じても、昨夜の嗚咽の続きみたいな息苦しさだけが残っている。
翌朝、最初に動いたのはブランだった。
目を覚ました白銀の白虎は、少しのあいだぼんやりしていた。
それから、すぐ近くの机の脇にある紙袋へ気づく。
「……これ」
小さく呟いて、ふらりと立ち上がる。
悠真は、ソファにもたれたまま目を開けた。
昨夜ほとんど眠れなかった。圭介も同じような顔をしている。牧瀬だけが、椅子に座ったまま仮眠を取ったらしく、目を閉じていた。
ブランは紙袋を両手で引き寄せる。
ノワールが、その横へ静かに寄った。
「確認しますか」
「うん」
二人は、中を覗き込む。
白虎のぬいぐるみ。
アヌビスのぬいぐるみ。
朝の光の中で見るそれは、妙に息を呑ませた。
「……ぼく」
ブランがそっと白虎を持ち上げる。
「これ、ぼく」
「似ています」
ノワールも、黒いアヌビスを取り上げた。
黒金の装甲の指先に、小さく柔らかい黒い布が収まる。
「こちらは、私です」
二人は、しばらくそのままぬいぐるみを見ていた。
どちらも冷たい身体をしているのに、腕の中にある小さな柔らかさが妙に不釣り合いで、
それなのに、ひどく大事そうに抱えている。
ノワールが先に顔を上げる。
赤金の目が、まっすぐ悠真を見る。
「お兄ちゃん」
「……何」
「これ」
言葉はそれだけだった。
その隣で、ブランも白虎のぬいぐるみを胸へ抱いたまま、こく、と頷く。
「おにいちゃんに、あげる」
悠真は、息を止めた。
そこで初めて、二人の腕の中にあるものが視界へ入る。
「……え」
情けない声が出る。
「俺に?」
どうして二人がこれを差し出したくなったのか、理屈はたぶんない。
ただ、自分たちによく似たぬいぐるみがここにあって、
なぜかそれを、お兄ちゃんに受け取ってほしくなった。
それだけだ。
「これ」
ブランがもう一歩近づいてくる。
白虎のぬいぐるみを、両手で差し出す。
「おにいちゃん」
ノワールも、その横に立つ。
アヌビスのぬいぐるみを、静かに差し出す。
「受け取ってください」
その光景が、あまりにも残酷だった。
悠真は、少しのあいだ動けなかった。
目の前には、白と黒の小さな機械の弟たちがいる。
その手には、二人がなぜか自分へ渡したいと思った贈り物がある。
しかもその衝動は、あまりにまっすぐだった。
受け取ってしまったら。
その瞬間に、何かが本当に決定してしまう気がした。
「……え」
「アヌビスと白虎」
圭介は続ける。
「神代さん、一昨日、俺のバイト先でこれ買ってた」
そこで一度だけ言葉を切る。
「会計したの、俺」
その一言で、最後の留め金が外れた。
一昨日。
晃一がまだ晃一として外に出て、
自分の意思で店に入り、
立ち止まって、
迷って、
それでも買った。
そして帰宅して、渡そうとして、やめた。
あれは、本当に父からの贈り物だった。
しかも、それは晃一が晃一としてできた、最後の父親らしい振る舞いだったのかもしれない。
「……っ」
悠真の手が、震える。
受け取らなければいけない。
でも、受け取ったら泣く。
受け取った瞬間に、もう父からではなく、双子からそれを受け取ることになる。
その事実が、あまりにも重かった。
「お兄ちゃん」
ノワールが、もう一度言う。
静かな声だった。
「受け取ってください」
ブランも言う。
「おにいちゃん」
二人とも、自分たちが何をしているのか、その全部まではわかっていないのかもしれない。
でも、兄へ渡したいと思っていることだけは本物だった。
悠真は、ようやく手を伸ばした。
右手で白虎を。
左手でアヌビスを。
ぬいぐるみは、あたりまえに柔らかかった。
ノワールとブランの身体はいつも冷たくて硬いのに、
その二人の手から渡されたものは、信じられないくらい柔らかい。
その感触が、余計に駄目だった。
「……ありがとう」
言えたのは、それだけだった。
でも声はもう崩れていた。
ブランが、ぱっと顔を明るくする。
「うん」
ノワールは、それを見てほんの少しだけ目を伏せた。
安堵したのだと、わかった。
受け取ってもらえた。
拒まれなかった。
見捨てられなかった。
たぶん今の二人にとって、それはそれだけで生存に近いことだった。
「……っ、ぅ」
次の瞬間、悠真の喉が潰れたみたいな音を立てた。
泣くまいと思った。
でも無理だった。
手の中のぬいぐるみを胸へ抱き寄せた瞬間、全部がだめになった。
「父さん」
零れた声は、ひどく幼かった。
「父さん……」
そのまま、泣き崩れる。
床へ座り込むみたいに膝から力が抜ける。
白虎とアヌビスのぬいぐるみを抱いたまま、肩が大きく揺れる。
昨日までなら、絶対にこんなふうには泣けなかった。
でも今は、目の前にノワールとブランがいる。
しかも、その二人が自分へ差し出したものを、もう受け取ってしまっている。
だから、泣くしかなかった。
「おにいちゃん」
ブランが、おそるおそる呼ぶ。
泣いているのを見て、少しだけ不安そうになる。
「だいじょうぶ?」
その問いが、余計に涙を増やした。
「だいじょうぶじゃねえよ……」
悠真は泣きながら笑うみたいな声で言う。
「全然、だいじょうぶじゃない」
でも、その言葉のあと、白虎とアヌビスのぬいぐるみを胸へ抱いたまま、もう一度だけはっきり言った。
「……でも、ありがとう」
ブランは、その“ありがとう”にほっとしたみたいに小さく頷いた。
ノワールも、わずかに肩の力を抜く。
圭介は、その光景を見て何も言えなかった。
目の前で起きているのは、ただの怪奇現象ではない。
贈り物を渡す双子と、それを受け取って泣き崩れる悠真。
そこには、もう関係しかなかった。
牧瀬も、何も言わなかった。
言えるわけがなかった。
晃一はもう、以前の晃一のままではないかもしれない。
でもその不在の形で、こうしてちゃんと贈り物だけは届いてしまっている。
しかも、その最後の一手を担ったのがノワールとブランであることが、あまりにも重い。
部屋の中は、しばらく誰も動けないまま静かだった。
悠真の嗚咽だけが、小さく続いている。
その足元に、白銀と黒金の二体がいる。
不安そうに見上げながら、でも逃げずに、ちゃんとそばにいる。
その光景を見た圭介は、そこで初めて理解した。
自分はもう、ここから外へ帰るだけの人間ではいられない。
見てしまったから、では足りない。
この家の壊れ方と、この三人の寄りかかり方を見てしまって、それで何もせず外へ戻るのは、もう無理だった。
「……悠真」
低く、圭介が名前を呼ぶ。
悠真は顔を上げられないまま、返事もできない。
それでも圭介は続けた。
「俺、今日帰らない」
その一言に、部屋の空気が少しだけ動く。
「勝手に決めんなよ」
泣いたままの声で、悠真がようやく言う。
「決める」
圭介は短く返す。
「この状態で帰れるかよ」
そのやり取りが、少しだけいつもみたいで、
だからこそ余計に、世界が変わってしまったことをはっきりさせた。
悠真はぬいぐるみを抱いたまま、また少し泣いた。
ノワールとブランは、そのそばを動かない。
それが、この先どこまで続くのかは誰にもわからない。
でも少なくとも今は、
手渡されたものと、
受け取ってしまったものが、
もう取り返しのつかない形でここにあった。
朝というには遅く、昼というにはまだ早い時間だった。
神代家の空気は、泣いたあとの部屋の匂いをまだ少し残している。
昨夜、玄関先でブランが悠真へぶつかり、ノワールもその腕の中へようやく収まった。
それから先、誰もまともには眠れていない。
圭介はソファの端で、起きているのか寝ているのかわからない顔をしている。
「帰らない」と言ったのは、たぶんこの一晩のことだけだったはずだ。
それでも、その一晩が思ったより重いのだろうと見ればわかる。
机の前には牧瀬がいた。
ぬるくなった缶コーヒーを持ったまま、目だけはずっと起きている。
悠真は、変身機の置かれた机から少し離れた場所に立っていた。
その横には、白と黒のぬいぐるみが並んでいる。
昨夜、受け取ってしまったものだ。
柔らかくて軽くて、何も知らない顔をしている。
なのに、それを見るたび、胸の奥が痛む。
「……おにいちゃん」
ブランが起きた。
パンダを抱いたまま、眠そうな目でこちらを見る。
「おはよう」
「……おはよ」
「へんなかお」
「朝一番に言うな」
「でも、ほんと」
「知ってる」
その後ろでノワールも目を開けた。
黒金の目が、まず悠真を探す。
見つけると、少しだけ肩の力が落ちる。
「おはようございます」
「おはよ」
「眠れていませんね」
「何でわかるんだよ」
「顔です」
「事実で殴るな」
「殴ってはいません」
いつものやり取りだった。
そのいつもの感じに、悠真は少しだけ息をつける。
立ち上がったノワールは、まっすぐ悠真のそばへ来た。
何をするわけでもない。
でも、すぐ手が届く距離で止まる。
それだけで、昨夜の続きみたいだった。
悠真は無意識に、その頭部の横を軽く撫でた。
ノワールは一瞬だけ固まって、それから何も言わなかった。
離れもしない。
ブランが、その様子をじっと見ていた。
それから、眠そうな声のまま言う。
「……ノワールばっかり」
「何だよ急に」
「ぼくも」
そう言いながら、白銀の身体がふらふら寄ってくる。
寝起きで足元がおぼつかないのに、来る方向だけは正確だった。
悠真は思わず笑って、空いているほうの腕を少し広げる。
「来いよ」
それだけで、ブランはすぐ機嫌を直した。
パンダを抱いたまま、悠真のもう片側へくっつく。
ノワールが、ほんのわずかに視線を下げる。
「……狭いです」
「そっちが先に来たんだろ」
「そうですが」
「じゃあ我慢」
悠真が言うと、ブランが得意そうに言った。
「みんな、みたい」
「まだ名前ついてないだろ」
「でも、みたい」
その言い方が妙に可笑しくて、牧瀬が小さく鼻で笑った。
笑いが落ちたあと、誰もすぐには次の言葉を継がなかった。和んだのではない。ただ、この形のまま息をつくことに、まだ全員が少し慣れていないだけだった。




