第05話 戻れない
翌朝、悠真はほとんど眠れていなかった。
机の上のなんでも変身機は、昨夜と変わらない顔で置かれている。丸くて、冷たくて、何事もなかったみたいに黙っている。あのひとりでに明滅した一瞬だけが、悪い夢だったみたいに見えるくらいには静かだった。
でも、夢じゃない。
悠真は何度もそこへ視線をやった。
見ているだけで喉の奥が乾く。
隣の部屋からは、まだ物音がしない。
ノワールもブランも起きていないのか、それとも起きていて黙っているのか、わからない。
今日は、朝の手順を決められなかった。
朝、晃一に戻す。
昼、ノワールとブランへ分ける。
夕方、また晃一へ戻す。
ここ数日で勝手にできてしまったその流れが、今朝は最初の一歩から妙に重い。
昨夜の光のせいだ。
いや、それだけじゃない。
昨日の晃一の顔色。
帰宅したあとの重い呼吸。
紙袋を置いた時の、あの一瞬の迷い。
あの紙袋の中身は、たしかノワールとブランを見てから選んだのだろう。雑にコンビニで済ませる人ではない。買うと決めたら、少しでも似合うものを選ぶ。そういう癖まで思い出してしまう。
全部が、胸の中で嫌な形に繋がっている。
母が病気で死んだ朝のことを、悠真は今でもうまく思い出せない。
白い病室と、父の静かすぎる横顔と、「もういない」という事実だけが、切れ切れに残っている。
あの時から、父の前でどう悲しめばいいのかがわからなくなった。
泣き方を外したまま、親子の時間だけがずれていった。
だから今、父を失うかもしれない朝は、母を失った時の傷までまとめて引きずり出してくる。
「……父さん」
机の上の変身機へ向けて呟く。
返事はない。
当然だ。
まだ、誰も変えていない。
その時、襖が細く開いた。
白銀の頭部が、そっと覗く。
「おにいちゃん」
ブランだった。
パンダのぬいぐるみを抱いたまま、少し眠そうな声で言う。
「おはよう」
「……おはよ」
「きょう、へんなかお」
「朝から観察すんなよ」
「してる」
「知ってる」
ブランは襖の隙間からするりと出てくる。
その後ろから、ノワールも静かに現れた。
「昨夜から、落ち着かないご様子でした」
ノワールが言う。
「寝ていないのでは」
「少しは寝た」
「少し、ですか」
「うるさい」
「事実確認です」
「ほんとそういうのだけちゃんとしてるよな」
でも、その言い返しにも力がなかった。
ブランが、悠真の膝へ軽く頭を預ける。
冷たい装甲の感触が、布越しに伝わる。
「おとうさん、する?」
その問いに、悠真はすぐ答えられなかった。
今日は怖い。
でも、やらないという選択肢も、すでに持てなくなっている。
晃一と話したい。
確認したい。
戻れるかどうか、確かめないといけない。
でももし戻れなかったら。
もし本当に、昨日が最後だったら。
「……やる」
ようやくそう言うと、ブランは素直に頷いた。
「うん」
ノワールだけが、ほんの少しだけ目を伏せた。
「お兄ちゃん」
「何」
「本日は、無理に行わなくても」
「無理じゃない」
自分でも少し強すぎる声だった。
「……確認しないほうが無理だ」
ノワールはそれ以上言わなかった。
変身機は、手に取るといつもより冷たく感じた。
いや、気のせいかもしれない。
いつだって冷たかった。
でも今日は、その冷たさが妙に骨の奥までくる。
「父さん。戻れ」
声に出す。
光が走る。
いつもと同じように。
黒が寄り、白が引き、ノワールとブランの輪郭が一人分へ畳まれていく。
ここまでは、同じだった。
ここまでは。
だが、光が収まりかけたその瞬間、輪郭が定まらない。
「……え」
悠真の喉から、情けない声が漏れる。
ひとつへ集まりかけた形が、そこでぶれる。
人の身体の線になりきらない。
装甲が半端な位置で揺れ、黒と白が噛み合わず、まるで無理やり組み上げたものが弾かれるみたいに、ぐら、と崩れる。
次の瞬間、弾けるように光が散った。
床へ膝をついているのは、ノワールとブランだった。
晃一はいない。
「……は?」
悠真は一歩、前へ出る。
「今、戻っただろ」
誰に向けるでもなく言う。
「戻りかけた」
ノワールが、低い声で答えた。
「ですが、できませんでした」
「できませんでした、って」
悠真は自分でも驚くほどすぐ、変身機を握り直していた。
「もう一回」
「お兄ちゃん」
「もう一回だ」
ノワールの制止を聞かず、命じる。
「父さん、戻れ!」
光。
駆動音。
黒と白の収束。
また、同じところで崩れる。
今度は、もっとひどかった。
輪郭がひとつへ集まる前に、内側から裂ける。
まるで、晃一という形そのものが、もうそこへ収まれなくなっているみたいに。
光が散る。
また、ノワールとブランだけが残る。
「……何で」
悠真は、変身機を見下ろした。
「何でだよ」
「お兄ちゃん」
「うるさい」
思わず強く言う。
「もう一回」
ブランが、びく、と肩を震わせた。
でも悠真は止まれなかった。
「父さん、戻れ」
「戻れ」
「戻れって言ってんだろ!」
三度目。
四度目。
五度目。
試すたびに、同じだった。
光は走る。
収束はする。
でも晃一にはならない。
ひとつへなりかけて、必ず壊れる。
壊れて、またノワールとブランが残る。
最後には、ノワールが床へ片手をつき、ブランはその場にへたり込んでいた。
完全な機械の身体のはずなのに、見ているだけで「限界」という言葉が浮かぶくらい、二人とも静かに乱れていた。
「……もう」
ノワールが、息を整えるみたいな間を置いて言う。
「本日は、おやめください」
「まだだ」
悠真は食い下がる。
「まだ一回くらい――」
「だめ!」
今度はブランが叫んだ。
白銀の身体が震えている。
大きな獣の顔の奥で、目だけがひどく幼く揺れていた。
「いたい」
ブランが言う。
「へんなの、やだ」
その声に、ようやく悠真の手が止まった。
いたい。
その一言が、頭の中の何かを一気に冷やした。
ノワールも、静かに続ける。
「晃一さんへ収束しかけるたび、内部で強い反発が起きています」
「反発って」
「うまく説明できません」
ノワールは低く言う。
「ただ、以前とは違います」
「違うって、何が」
「……戻れないのかもしれません」
その言葉だけは、はっきり聞こえた。
戻れない。
悠真の中で、何かが音もなくひび割れた。
「……は?」
「まだ断定は」
「断定してるのと同じだろ」
「お兄ちゃん」
「何でそんな落ち着いて言えるんだよ!」
声が上ずる。
ノワールは少しだけ視線を落とした。
「落ち着いてはいません」
「嘘つけ」
「嘘では」
「じゃあ何でそんな顔できるんだよ!」
ノワールが答える前に、ブランがパンダを抱きしめたまま小さく呻いた。
「おとうさん、こないの?」
その問いに、誰も答えられない。
悠真は、その場で立ち尽くした。
変身機は手の中で冷えきっている。
なのに、自分の手だけが嫌に熱かった。
何度目かわからない沈黙のあと、インターホンが鳴った。
ぴんぽん、という音が、妙に場違いだった。
悠真は顔を上げる。
ノワールもブランも反応しない。
というより、する余裕がないみたいだった。
もう一度、鳴る。
悠真はふらつく足で玄関へ向かった。
扉を開ける。
「……よう」
そこにいたのは、牧瀬だった。
ラフな格好に、コンビニ袋。昨日と変わらないはずなのに、今日のその姿はひどく現実的で、だからこそ少し救いみたいに見えた。
「何で」
悠真の声は掠れていた。
「何で来た」
「何でって」
牧瀬は少し肩をすくめた。
「いや、あれからどうしてるかなって」
「……それだけ?」
「それだけ」
牧瀬は眉をひそめる。
「悪いか」
その何気なさが、逆に現実だった。
本当に、ただ何となく来たのだ。
昨日のあとの神代家が気になって、それだけで。
悠真は何も言えない。
その沈黙だけで、牧瀬は何かを察したらしかった。
「中、入るぞ」
確認というより、ほとんど決定事項みたいな声だった。
止める気力もなく、悠真は道を空ける。
牧瀬がリビングへ入る。
その瞬間、ソファの端で丸まっていたブランが、顔を上げた。
白銀の目が、最初に見たのは牧瀬ではなかった。
その後ろからついてきた悠真の顔だった。
血の気の引いた顔。
焦点の定まらない目。
泣きそうなのに、泣くことすらできていない顔。
さっきまで何度も何度も「戻れ」と命じていた、お兄ちゃんの顔。
「……」
ブランの身体が、ぴく、と震える。
「おい、晃一」
牧瀬がまだ事情も知らないまま言う。
「どうした、その……」
でもブランには、その声は届いていなかった。
見えているのは、顔面蒼白の悠真だけだ。
「……ぼく」
ブランが、ひどく小さい声で言った。
悠真ははっと顔を上げる。
「ブラン?」
「ぼくが」
白銀の身体が、ぎゅっと縮こまる。
「ぼくが、おとうさん、とっちゃった」
「え」
「ぼくが、いるから」
声が震える。
「おにいちゃん、かなしい」
悠真の呼吸が止まる。
「ちが」
否定しようとした言葉は、最後まで出なかった。
「ぼく、だめ」
ブランは、パンダを抱きしめる腕へ力を込める。
「いらない」
「ブラン!」
悠真が一歩踏み出した、その瞬間だった。
白銀の影が、玄関へ向かって弾かれたみたいに走った。
「っ、おい!」
牧瀬が振り返る。
玄関の扉がまだ閉まりきっていない。
ブランはその隙間を抜けて、外へ飛び出していく。
「ブラン!」
悠真が叫ぶ。
続いて黒い影が動きかけて、止まる。
ノワールだった。
すぐには追わなかった。
追えなかった、というほうが近い。
黒金の身体がその場で硬直している。
さっきまでの変身の反発がまだ残っているのか、脚がかすかに震えていた。
それでも、その赤金の目は扉の向こうを見ている。
「ノワール」
悠真が呼ぶ。
ノワールは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
逡巡だった。
残るか、追うか。
お兄ちゃんのそばにいるか、飛び出したブランを追うか。
そして、次の瞬間には顔を上げた。
「……ブランを一人にできません」
そう言って、ノワールは一人駆け出した。
扉の向こうへ、黒金の影が消える。
残された悠真は、その場で一歩も動けなかった。
「何があった」
牧瀬の声が飛ぶ。
悠真は振り向く。
喉が熱い。
言わなきゃいけないのに、言葉がまとまらない。
「……戻れない」
ようやくそれだけ出した。
「父さんに」
言い切った瞬間、現実になった気がした。
「戻れない、たぶん」
牧瀬の顔から、軽い色が消える。
「試したのか」
「……」
「悠真」
「……何回も」
「何回」
「五回、くらい」
牧瀬が息を止めたのがわかった。
「馬鹿かお前」
「わかってるよ!」
怒鳴るつもりじゃなかったのに、声が勝手に荒くなる。
「わかってるよ、そんなの! でも確認しないと、戻れるかどうか……」
「確認の仕方が最悪だ!」
「じゃあどうすればよかったんだよ!」
「俺を呼べ!」
「呼んだら来たのかよ!」
「今回はたまたまだ! だから余計に、来る前にやるなって話してんだ!」
そこで、二人とも言葉を切った。
怒鳴り合っている場合じゃない。
外では、ブランが飛び出していったままなのだ。
「……くそ」
牧瀬が低く吐き捨てる。
「黒いほうは?」
「追った」
「なら、待つしかない」
「待つ、って」
「今のお前が追っても、余計悪化する」
その言い方があまりに冷静で、悠真は何も返せなかった。
悠真は、震える両手でなんでも変身機を抱え込んだ。
冷たい。
重い。
さっきまで、自分はこれを握って、何度も「戻れ」と命じていた。
戻したくて。
確認したくて。
父を失いたくなくて。
でも今、その全部がいっきに胸へなだれこんでくる。
朝からずっと顔色の悪かった晃一。
収束しかけるたびに壊れていった輪郭。
ノワールの静かな声の下にあった限界。
ブランの「いたい」と「やだ」。
そして、顔面蒼白の自分を見て、嫌われたと思い込んで飛び出していった白銀の背中。
「……っ」
泣きそうになる。
喉が熱い。
息がうまく吸えない。
でも、その次の瞬間、もっとひどいことに気づく。
泣きそうなのは自分だ。
苦しいのも自分だ。
でも、もっと傷ついたのは自分じゃない。
晃一だ。
ノワールだ。
ブランだ。
戻れなくなったのは父で、
痛みと恐怖を直接受けたのも二人で、
それでも自分のほうを見ていたのも、あの三人だった。
その事実が、胸の奥をひどく静かに抉った。
悠真は、ゆっくりと指を開く。
抱え込んでいた変身機が、机の上へ重く戻った。
「……俺、行く」
掠れた声で言う。
牧瀬がすぐ顔を上げた。
「悠真」
「迎えに行く」
「今のお前は」
「わかってる」
悠真は遮る。
「俺が余計悪化させるかもしれないのも、わかってる」
喉が痛い。
それでも、もう止まれなかった。
「でも、あのまま待つのは無理だ」
「……」
「俺があんな顔したから、ブランは飛び出したんだ」
その言葉にしてしまった瞬間、現実になった。
「だから、迎えに行く」
牧瀬は何か言いかけて、やめた。
止められても行く。
たぶん今の悠真は、そういう顔をしていた。
神代家の近くの小さな公園。
遊具も少ない、住宅街の端の空き地みたいな場所。
そこに、白銀の白虎がしゃがみ込んでいた。
パンダのぬいぐるみを胸へ抱え込んで、うつむいている。
肩が、小刻みに揺れていた。
少し遅れて、黒金の影が辿り着く。
「……ブラン」
ノワールだった。
ブランは顔を上げない。
「帰りましょう」
「やだ」
「お兄ちゃんが」
「しらない!」
ブランが顔を上げる。
目だけが、ひどく幼い怒りと怯えで揺れていた。
「しらない! おにいちゃん、ぼく、いらないもん!」
「違います」
「ちがわない!」
白銀の身体が、立ち上がる。
「ぼくがいるから、おとうさん、こない! おにいちゃん、かなしい! ぼくのせい!」
ノワールは一瞬だけ言葉を失った。
「ブラン」
「ノワールはいいよね!」
ブランが叫ぶ。
「ノワール、ちゃんとしてるし、つよいし、おにいちゃんのこと、ちゃんと見てるし! ぼく、へんで、うるさくて、いらない!」
「そんなことは」
「ある!」
言葉を叩きつけるみたいに叫ぶ。
「ぼく、おとうさん、とっちゃった! おにいちゃんから、とっちゃった!」
ノワールの脚が、かすかに震える。
ブランは、その震えを見た。
「……」
怒鳴り返そうとしていた顔が、そこで止まる。
ノワールは息を詰めたまま立っている。
落ち着いた声を保とうとしている。
でも、それだけだ。
平気なわけではない。
平気でいられるわけがない。
戻れないかもしれない。
お兄ちゃんは顔面蒼白だった。
自分だって、さっきまで立っているのでやっとだった。
その全部を押さえ込んだまま、ここへ来ている。
「……ノワール」
ブランの声が急に小さくなる。
「ノワールも、やばい?」
ノワールは、しばらく答えなかった。
それから、やっと言った。
「はい」
その一言で十分だった。
ブランの顔が、くしゃりと歪む。
「なんで来たの」
「あなたを一人にできません」
「でも、ノワールも、こわれる」
「そうかもしれません」
「じゃあ、なんで」
「……あなたも、そうだからです」
その言葉のあと、ブランはもう何も言えなかった。
白銀の身体が、ふら、と一歩前へ出る。
黒金の身体も、ほんの少しだけ揺れる。
そのまま、二人はぶつかるみたいに抱き合った。
冷たい装甲同士が触れ合う、硬い音がした。
でも、それはどうしようもなく必死な抱擁だった。
「おにいちゃん」
ブランが、ノワールの肩へ顔を埋めたまま言う。
「こわい」
「はい」
「きらわれたら、おわる」
ノワールの指先が、ブランの背へ回る。
「はい」
「いやだ」
「私もです」
二人の頭に、同時にフラッシュバックする。
顔面蒼白の悠真。
泣きそうで、でも泣けなかった顔。
変身機を握りしめて、立ち尽くしていた姿。
あの顔に、嫌われたと思った。
見捨てられたと思った。
そうなったら終わりだと、まだ言葉にもならないところで知っていた。
人格を手に入れたばかりの自分たちには、帰る場所が悠真しかない。
それが、どれだけ残酷なことかも知らないまま。
「……帰る」
先に言ったのはブランだった。
「おにいちゃんのため」
ノワールは目を閉じる。
「はい」
「おにいちゃんのため」
「はい」
それは、半分呪いみたいだった。
でも今の二人には、それしかなかった。
神代家の玄関の前まで戻ってきた時だった。
扉が勢いよく開く。
飛び出してきたのは、悠真だった。
「ブラン! ノワール!」
泣きそうな顔だった。
本当に泣きそうで、でも泣くより先に駆け寄ってくる顔だった。
二人はそこで足を止める。
「ごめん」
悠真は、ほとんど息も整えないまま言った。
「ごめん、俺、ほんとに、ごめん」
何に対しての謝罪か、全部は言えていない。
でも、それで十分だった。
ブランの中で、何かが決壊する。
「おにいちゃん」
白銀の身体が、弾かれたみたいに飛び出した。
重い金属のタックルだった。
悠真は「うわっ」と小さく声を漏らし、よろめく。
でも倒れなかった。
両腕で、ちゃんと受け止めた。
「おにいちゃん」
ブランが抱きついたまま、声を震わせる。
「ごめんなさい」
「違う」
悠真はすぐ言う。
「違う、ごめん、俺のほうが」
「ごめんなさい」
「違うって」
言いながら、自分でも泣きそうな声になっていた。
白銀の装甲は冷たい。
重い。
でも、その重みを、悠真は手放さなかった。
少し離れたところで、ノワールが立ち尽くしていた。
一歩引いた位置。
両手をぎゅっと結んでいる。
抱きつきたい。
でも、行けない。
行っていいのか、まだわからない。
その逡巡が、あまりにもはっきり見えた。
その様子を、玄関の内側から牧瀬が見ていた。
最初に浮かんだのは、やはり「晃一だ」という認識だった。
晃一が二つに裂けて、それぞれが違う形で悠真へ向かっている。
その理解はまだ消えない。
でも、それだけでは済まない。
白いほうの泣き方も、
黒いほうの逡巡も、
そこにはもう、別々の育ちかけた人格がある。
ただのエラーではない。
その理解が、ようやく牧瀬の中へ落ちる。
「……晃一」
牧瀬の声が、低く落ちた。
黒金の頭部が、びく、と動く。
「ノワール」
上から、悠真が名前を被せる。
赤金の目が、大きく揺れた。
晃一の裂け目でも、単なるバグでもなく、“ノワール”として。
その瞬間、最後の堰が外れたみたいに、ノワールは一歩前へ出た。
ためらいが、まだ残っている。
自分も行っていいのか。
お兄ちゃんに触れていいのか。
白いほうだけで埋まっている場所へ、黒い自分も入っていいのか。
その迷いごと抱えたまま、ノワールの身体は前へ傾いた。
「お兄ちゃん」
低い声が、少しだけ掠れていた。
悠真は、ブランを抱きとめたまま、顔を上げる。
白銀の重みが胸へ食い込み、腕が震えている。
それでも、もう片方の腕を迷わず伸ばした。
「来い」
その一言は、命令でも許可でもなく、ほとんど懇願みたいだった。
ノワールは、その腕へようやく自分から収まった。
黒金の重みが、悠真の身体へさらに増える。
片側には泣きじゃくるみたいにしがみつく白銀のブラン。
もう片側には、ずっと耐えていたものをようやく預けるみたいに、静かに寄りかかってくる黒金のノワール。
重い。
冷たい。
機械の身体だからこその硬さが、腕にも胸にも食い込んでくる。
でも、その重さがひどく確かだった。
悠真は一歩よろめく。
それでも足を踏ん張る。
落とさない。
二人とも、絶対に落とさないと、反射みたいに思った。
「ごめん」
悠真は、ブランの頭部とノワールの肩のあいだへ顔を埋めるみたいにして言う。
「ごめん、ごめん、俺が悪かった」
ブランが胸元で震える。
「おにいちゃん」
「ごめん」
「ちがう」
泣き崩れるみたいな声で、ブランが言う。
「ぼく、いらないって、おもって」
「思うな」
悠真はすぐ返した。
「そんなこと、絶対思うな」
「でも、おとうさん」
「違う」
今度は、さっきよりはっきり言う。
「違う。お前のせいじゃない」
その言葉を、たぶん一番聞きたかったのは自分自身でもあった。
ノワールは何も言わない。
言わないまま、少しずつ体重を預けてくる。
ずっと結んでいた両手はもうほどけていて、片方の手が、おずおずと悠真の服の背へ触れた。
その指先の遠慮が、逆に痛かった。
「ノワール」
悠真は名前を呼ぶ。
黒金の頭部が、ごく小さく動く。
「ごめん」
その一言に、ノワールの肩がわずかに震えた。
「……はい」
返事は短い。
でも、その一音の中に、ここまで飲み込んでいたものが全部沈んでいる気がした。
三人の身体が、玄関先で折り重なる。
白銀のブランは、幼いみたいに必死にしがみついている。
黒金のノワールは、静かなまま、でも確かに離れない。
悠真は、その両方を抱え込みながら、ようやくわかった。
ノワールもブランも、冷たい機械の身体をしているのに、
失いたくない重みとして腕の中にいる。
それがどれだけ残酷で、どれだけ救いだったか、
もう分けて考えられなかった。
その光景を見た瞬間、玄関の先で足音が止まった。
「……は?」
圭介だった。
大学帰りらしい鞄を肩へかけたまま、神代家の前で立ち尽くしている。
目の前のものを理解できない顔で、ただ固まっていた。
泣きそうな悠真。
抱きつく白銀の白虎。
その横でようやく身を寄せた黒金のアヌビス。
そして玄関の内側に立つ牧瀬。
誰一人、すぐには動けなかった。
そのまま、世界だけが一段深いところへ落ちたみたいに、静かに変わってしまった。




