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第04話 最後の油断

 朝、晃一に戻す。


 昼、ノワールとブランに分ける。


 夕方、また晃一へ戻す。


 その手順が、神代家の中で少しずつ当たり前になり始めていた。


 当たり前であるはずがない。


 なのに悠真は、もう変身機を手に取る時、最初の頃みたいな躊躇いをあまり持たなくなっていた。冷たい金属の重さにも、白金の光にも、父の身体が裂けていく音にも、まだぞっとはする。ぞっとはするのに、その先にノワールとブランがいるとわかっているから、手を伸ばせてしまう。


 それがどれだけまずいことか、わかっているつもりなのに。


「お兄ちゃん」


 ブランが床から見上げてくる。

 今日もパンダのぬいぐるみを抱いていた。白銀の装甲に白黒の丸いぬいぐるみがやけに似合うのが腹立たしい。

 足元には、昨日勝手に自分の部屋から引っぱっていった薄い毛布まである。兄以外にも、落ち着くものを自分で選び始めていた。


「なに」

「きょう、どっち?」

「どっちって」

「おとうさん? ぼくたち?」

 その訊き方が、もう選択肢として成立してしまっている。


 悠真は、ほんの少しだけ言葉に詰まった。

 今この家では、“今日は誰でいさせるか”を自分が決めている。

 父でいる時間も、二人でいる時間も。


 そこに責任があるとわかっている。

 でも、その責任が、同時に甘い力にもなっていることも否定できない。

 自分が決めれば、この時間は続く。そう思ってしまうと、手放す理由のほうが先に薄くなる。


「……朝は父さん」

 悠真は答える。

「昼からは二人」

「じゃあ、あとでまた会える?」

「会えるよ」

「やった」

 ブランは嬉しそうにパンダを抱きしめ直す。


 ノワールは、少し離れた椅子からその様子を見ていた。

「お兄ちゃん」

「何」

「その返答は、少々軽率では」

「うるさい」

「事実です」

「事実で殴るなよ」

「殴ってはいません」

「そういう話じゃないんだよ」


 でも、少し笑ってしまう。


 笑えてしまうことが、やっぱり一番まずい。


「父さん。戻れ」


 変身機が低く鳴る。


 黒が寄り、白が引き、ノワールとブランの輪郭がひとつへ畳まれていく。

 骨とも金属ともつかない音がして、光が収まる。


 晃一がそこにいた。


「……っ」

 今日は、戻った直後から少し呼吸が浅い。


「大丈夫?」

 悠真が訊く。

「大丈夫、とは言いづらい」

 晃一は苦く笑った。

「だが、まだ話せる」

「その言い方やめろよ」

「事実だ」


 そのやり取りまで、もう少しずつ手に馴染んでいる。


 晃一は今日、午前のうちに一度だけ会社へ顔を出すつもりだと言った。

 昨日有給を取ったぶん、完全に丸投げにもできないらしい。相良部長には大まかな事情――もちろん変身のことではなく、体調が安定しないことだけ――を伝えてあり、短時間なら来なくてもいいと言われたらしいが、それでも一度は顔を見せておきたいと晃一は言った。


「無理すんなよ」

 悠真が言う。

「してない」

「してる」

「お前ほどではない」

「何それ」

「お前、俺を戻したり裂いたりするたびに、だんだん顔が迷わなくなってる」

 悠真は言葉に詰まる。

「……」

「責めてるわけじゃない」

 晃一は、少しだけ声を落とした。

「ただ、慣れるのが早いなと思って」

「父さんだって拒まないじゃん」

 思わずそう返すと、晃一は少し黙った。

「拒んでも、お前が困るだろ」

「……」

「それに」

 晃一は視線を逸らす。

「ノワールとブランになると、お前が少し笑うのも本当だ」

 悠真は、それに何も言えなかった。


 図星だった。


 ノワールとブランがいる時の自分は、たしかに少しだけ楽だ。

 父の前で張る意地が、少しゆるむ。

 会話の温度も違う。

 そこへ、確かに救われている。


 だからこそ、言い返せない。


「……父さん」

 しばらくしてから、悠真は低く言った。

「今日、帰りどっか寄る?」

「どこに」

「別に。スーパーでも本屋でも」

「何だ急に」

「いや……」

 悠真は曖昧に言葉を濁す。

「ちょっと外の空気吸ったほうがいいかなって」

 晃一は少しだけ目を細める。

「お前がそう言うなら、そうするか」


 その返事が妙に素直で、悠真は少しだけ胸が詰まった。


 この父と息子の会話も、いましかないのかもしれない。


 昼過ぎ、晃一は一人で外へ出た。


 ほんの数時間だけ、会社と、その帰りに少し買い物をするつもりだと言って。


 悠真は玄関で見送ったが、本当は少し落ち着かなかった。

 ただ、少なくとも今のところ、晃一が晃一でいるあいだは、悠真が変身機を使わない限り変化は起きない。

 それが唯一の安心材料だった。


「ちゃんと戻ってこいよ」

 思わずそう言うと、晃一は少しだけ呆れた顔をした。

「家出みたいに言うな」

「だって、今の父さんちょっと信用ならないし」

「ひどいな」

「体調の話だよ」

「それなら否定できん」

 晃一は苦く笑って、靴を履く。

「すぐ戻る」

「……うん」

「あと」

 晃一は一拍だけ置いた。

「今日はお前、変身機をあまり触るな」

「何で」

「俺がいない間くらい、頭を冷やせ」

「父さんがそれ言う?」

「言う」

 その言い方が妙に父親らしくて、悠真は少しだけ目を伏せた。


 扉が閉まる。

 家の中が、急に広くなる。


 悠真はしばらく玄関の前に立ち尽くしていた。

 さっきまでそこにいた晃一の気配が、もう家の外へ出ている。

 ノワールもブランもいない。

 誰もいない。


 その空白が、思ったより大きかった。


 机の上の変身機を見る。

 触れれば、また何かを変えられる。

 でも今は、触れても変わる相手が家にいない。


 その当たり前のことに、妙に取り残された気分になった。


 圭介のバイト先は、駅前の雑貨屋だった。


 文房具、キャラクター物、季節小物、安いアクセサリー、ぬいぐるみ。何でも少しずつ置いてある、大学生が暇つぶしに入るにはちょうどいい店だ。


 晃一がそこへ入ったのは、スーパーへ行く途中、ショーウィンドウ越しにある棚が目に入ったからだった。


 黒いアヌビスのぬいぐるみ。

 白い白虎のぬいぐるみ。


 並んで置かれていた。


「……」


 晃一は、その前で足を止めた。


 自分でも何をしているのかわからない。

 ただ、一度視界に入った瞬間から、目が離れなくなっていた。


 ノワールとブランを見てから、世界の中の“似ているもの”へ敏感になっている。

 しかもこれは、似ているだけではなく、妙にそのままだった。


 小さくて、少しデフォルメされている。

 でも、黒と白の並びが、どうしてもあの二人を思わせる。


「……神代さん?」


 不意に声をかけられ、晃一は振り向いた。


 圭介だった。

 エプロン姿で、手に値札の補充用シールを持っている。見覚えのある大学生の顔が、店員の顔をしているのは少し変な感じがした。


「圭介くん」

「うわ、ほんとに神代さんだ」

 圭介は少し驚いたように笑う。

「珍しいですね、この辺」

「ああ、少し買い物に」

「体調、大丈夫ですか」

 その問いに、晃一は一瞬だけ目を細めた。

「悠真から何か聞いたか」

「いや、詳しくは全然。ただ、ちょっと変だったんで」

「そうか」

「神代さんも、顔色あんまよくないっすよ」

「正直で助かる」


 晃一は、そこで少しだけ苦笑した。


 圭介は悠真の親友だ。

 気のいい青年だし、礼儀もある。

 だが、親としては少しだけ距離の難しい相手でもある。自分の知らないところで悠真の顔を見ている人間だからだ。


「それ、気になります?」

 圭介が棚のぬいぐるみを見る。

 晃一は誤魔化すように視線を戻した。

「……まあ」

「アヌビスと白虎。新作です」

「そうか」

「買います?」

 あまりにまっすぐ訊かれて、晃一は少しだけ言葉に詰まった。


 何のために買うのか。

 悠真に渡すのか。

 ノワールとブランに似ているからか。

 それとも、その両方か。


「……買う」

 晃一は結局そう言った。


 圭介は少しだけ目を丸くして、それから棚から二つを取った。

「じゃあ、これ。レジ持ってきます」

「悪い」

「いえ」


 会計の間、圭介は何も余計なことを訊かなかった。

 それがありがたかった。


 紙袋へ二体のぬいぐるみを入れながら、圭介はふとだけ言う。

「悠真、変に抱え込むとこあるんで」

 晃一は顔を上げる。

「知ってる」

「ですよね」

 圭介は笑った。

「でも、神代さんも似てる気がします」

「……そうか」

「たぶん、似てるから喧嘩するんでしょうね」

 その言い方に、晃一は少しだけ息を吐いた。

「かもしれないな」


 紙袋を受け取る。


 小さな重みだった。


 ノワールとブランに似たぬいぐるみ。

 そして、たぶん今の自分が悠真へ渡せる、数少ない普通のもの。


 帰宅した時には、もう夕方だった。


 神代家の玄関を開ける。

 おかえり、と悠真の声が飛ぶ。

 いつもより少しだけ柔らかい声だった。


「……ただいま」

 晃一はそう返し、靴を脱ぐ。


 リビングへ入ると、机の上に変身機が見えた。

 その隣へ、晃一は紙袋を置く。


「何それ」

 悠真がすぐ気づく。

「買った」

「何を」

「……あとでわかる」

「何だよそれ」

「あとでいい」


 渡そうとして、でも喉の奥へ言葉が引っかかった。


 晃一がぬいぐるみを買ってくるような父親だと、悠真は思っていないだろう。

 実際、普段なら自分でもやらない。

 でも今日は、やってしまった。


「父さん」

 悠真が変身機へ視線を落とす。

「今日は、どうする」

 その問い方が、もう当たり前みたいだった。


 どうする。


 晃一でいるか。

 ノワールとブランへ分かれるか。


 その選択を、悠真が持っている。


 晃一は紙袋を一瞬だけ見て、それから変身機を見た。

 胸の奥で、嫌な重さが増している。今日は朝からずっと頭が鈍く重い。会社でも、帰り道でも、身体のどこかが不安定な感じが消えなかった。


 それでも、拒めない。


 ノワールとブランになることが、いまの親子関係の修復に繋がる唯一の鍵だと、もう知っているから。


「……お前が決めろ」

 晃一は低く言った。

「そういう言い方ずるい」

 悠真は苦く笑う。

「じゃあ」

 変身機を手に取る。

「今日は、二人に戻って」


 光が走る。


 白金の帯が晃一の身体を包む。

 骨とも金属ともつかない音が鳴る。

 肩が裂け、黒が生まれ、白が零れ、一人分の父が二つへ分かれていく。


 光が収まる。


 そこにいたのはまた、ノワールとブランだった。


 晃一はいない。


 ブランはきょろ、と辺りを見回した。

 ノワールも静かに周囲へ視線を巡らせる。


 でも、二人とも机の脇へ置かれた紙袋には気づかない。

 いや、気づいていたとしても、それが何なのか考える余裕がなかったのかもしれない。


「おにいちゃん」

 ブランが不安そうに言う。

「おとうさん、いた?」

 悠真は、一瞬だけ息を止めた。


 ノワールも静かにこちらを見ている。


 覚えていない。


 この二人は、晃一としての直前の記憶を持っていない。


「……いたよ」

 悠真は言った。

「ちょっとだけ」

「どんな?」

「……昨日より、ちょっと話しやすかった」

「へんなの」

「ほんとな」


 笑って言ったあと、自分でその言葉に少しだけ刺される。


 でも、同時に思ってしまう。


 話せた。

 晃一と、ちゃんと。

 しかも戻れる。

 そして自分が望めば、また二人へ会える。


 なら、まだ大丈夫だ。


 その安堵が、たぶんもうかなり油断だった。


 夜。


 悠真は一人で、机の上の変身機を見ていた。


 隣の部屋からは、ブランの笑い声が少しだけ聞こえる。たぶんパンダのぬいぐるみを抱いているのだろう。ノワールの低い声も混ざる。それだけで、どこか救われるような、でも強く傷つくような気持ちになる。


 スマホを開く。

 盤上パンタのアーカイブ一覧が並ぶ。


 見ようと思えば、すぐ見られる。

 外側のやさしい声へ逃げ込むこともできる。


 でも今日は、画面の向こうより先に、机の上の現実が目に入った。


 冷たい変身機。

 その隣に、さっきまで置かれていた紙袋の痕。

 そして、自分の手で回している可変の生活。


「……父さん」


 誰に向けるでもなく、呟く。


 返事はない。


 それが当然なのに、少しだけ怖かった。


 明日も戻せる。

 たぶん。

 明日も二人へ会える。

 たぶん。


 その“たぶん”へ、今はまだすがれてしまう。


 でも、その時だった。


 机の上の変身機が、かすかに、ほんの一瞬だけ、ひとりでに明滅した。


 悠真は息を止める。


 今、自分は何も命じていない。

 誰も触っていない。


 なのに、光った。


「……は?」


 次の瞬間には、もう消えていた。


 見間違いかもしれない。

 疲れているだけかもしれない。

 そう言い聞かせることはできる。


 でも、胸の奥に、冷たいものが落ちた。


 可変は、本当にまだ自分の手の中にあるのか。


 その問いが初めて、はっきり形を持った。


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― 新着の感想 ―
> 隣の部屋からは、ブランの笑い声が少しだけ聞こえる。たぶん白虎のぬいぐるみを抱いているのだろう。ノワールの低い声も混ざる。あの二人が、父からの贈り物かもしれないものを手にしている。それだけで、どこか…
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