第03話 これがまずい
晃一が有給を取った翌日、神代家の空気はもう少しだけ変になっていた。
正確には、変なことに慣れ始めていた。
朝、晃一に戻す。
少し話す。
そのあと、悠真の意思でノワールとブランへ分ける。
昼にも、夜にも、それを繰り返す。
きっちり制御できているわけではない。
でも少なくとも今のところ、変身は悠真が望んだときに起こる。
戻すのも、裂くのも、自分の指と声ひとつだった。
そのこと自体が、もう十分おかしい。
机の端には、開きっぱなしの端末があった。画面には盤上パンタの配信アーカイブ一覧と、見返しかけたケモロボ解説動画のサムネイルが並んでいる。昨夜の途中で止まったらしいその画面も、もう神代家の散らかりの一部になりかけていた。
でも、悠真はそこへほとんど疑問を持たなくなりかけていた。
むしろ、自分が望めばこの家の空気を変えられることに、妙な安心を覚えていた。
父でいさせる時間も、二人でいさせる時間も、自分の声ひとつで決まる。その事実に安堵してしまう時点で、もうかなり危ない。
「……また、やるのですか」
ノワールが静かに問う。
黒金の装甲は午前の光を鈍く返し、その赤金の目だけが落ち着いてこちらを見ていた。
「やる」
悠真は変身機を持ったまま答える。
ノワールの視線は悠真だけを見ていない。ブランがどこへ立っているか、机の角がどこにあるか、襖がどれくらい開いているかまで、無意識に確かめているようだった。
「父さん、今のうちに飯食っといた方がいいし」
「それは理解できます」
「あと、俺も話したい」
ノワールは少しだけ目を細めた。
「そうですか」
「そうだよ」
「おとうさん、くる?」
ブランが訊く。
「来る」
「また?」
「また」
悠真は変身機を握る。
「父さん。戻れ」
光が走る。
黒が寄り、白が引き、ノワールとブランの輪郭が一人分へ畳まれていく。
晃一が現れる。
「……っ」
今日は昨日よりも顔色が悪い気がした。
「父さん」
悠真が近づく。
「大丈夫?」
「昨日よりはよくない」
「じゃあやめとく?」
「いや」
晃一は首を振った。
「今のうちに話せるなら、そのほうがいい」
その言葉に、悠真は少しだけ黙る。
晃一は異変を感じている。
それでも拒絶しない。
ノワールとブランになることが、いまの親子関係の修復に繋がる唯一の鍵だと、もう気づいてしまっているから。
「じゃあ、飯」
悠真は言った。
「今日はちゃんと食えよ」
「親みたいなこと言うな」
「父さんが今そういう感じじゃないんだからしょうがないだろ」
「ひどい言い草だな」
そう言いながらも、晃一は少しだけ笑った。
食卓に並ぶのは昨夜の残りと、今朝のうちに足した簡単なおかずだけだ。
でも二人で向かい合って食べているだけで、昨日までとは少し違う朝になる。
「大学、どうなんだ」
晃一が訊く。
「またそこ?」
「まただ」
「しつこ」
「親だからな」
「それ便利な言葉だよな」
「便利だから使う」
少しだけ間があいて、二人とも笑う。
こういう笑い方ができるのは、いまだけかもしれない。
そのことがわかっているから、悠真は今日もあえて普通の話をする。
「父さん、会社大丈夫なの」
「今日は休んだ」
「明日は?」
「まだ決めてない」
「相良部長、何て」
「体調整えてから考えろ、だと」
「いい上司じゃん」
「たまにはな」
「たまにはって失礼だろ」
「部下だから言えることもある」
そんなふうに、今までならわざわざ話さなかったようなことまで話せる。
いま目の前の晃一は、少しだけ素直だ。
そしてその素直さは、たぶん長くは持たない。
「父さん」
「何だ」
「配信の話、昨日したじゃん」
「ああ」
「俺、あれ見てるとき、ちょっとだけ自分のこと考えなくて済むんだよ」
晃一は箸を止めた。
「そんなにか」
「そんなに」
「……俺には、そういうのあんまりなかったな」
「父さんって感じする」
「どういう意味だ」
「ちゃんとしすぎてる」
「してない」
「してる」
「お前にだけは言われたくない」
その返しが少しだけいつもみたいで、妙にほっとする。
でも、そのすぐあとで晃一が黙った。
「悠真」
「なに」
「俺がノワールとブランになると、お前が笑うのは本当だ」
悠真は目を逸らしそうになる。
「……」
「昨日も言ったけど」
晃一は低く続ける。
「たぶん、それが今の俺にできる、いちばんわかりやすいやり方なんだろう」
「何が」
「お前と、ちゃんと話すための」
その言葉が、昨日よりも重く響く。
変身なんて、本来は最悪の事故だ。
なのに晃一は、それを親子の関係修復へ使おうとしている。
異変を感じているくせに、拒絶できない。
「……父さん」
悠真は変身機のほうを見る。
「無理すんなよ」
「してない」
「してる」
「お前もだ」
その返しに、もう言い返せなかった。
しばらくしてから、悠真は変身機を手に取る。
「ノワールとブランに戻れ」
光が走り、晃一の身体がまた二つへ分かれる。
光が収まる。
そこにはまたノワールとブランがいる。
晃一はもういない。
「おとうさん、いた?」
ブランが訊く。
「いたよ」
「どんな?」
「今日はちょっと、昨日より喋った」
「へんなの」
「ほんとな」
ノワールは静かにこちらを見る。
「お兄ちゃん」
「何」
「晃一さんを長く維持したいのであれば、頻度は下げた方がいいと思います」
「……それ、父さんも言いそう」
「私は私です」
「そうだな」
悠真は少しだけ笑う。
ノワールもブランも、晃一の記憶は持っていない。
それなのに、二人が少しずつ“らしさ”を持ち始めている。
そこが怖い。
でも、そこが刺さる。
昼過ぎ、インターホンが鳴った。
悠真は玄関へ向かいながら、少しだけ顔をしかめる。
この時間の来客に心当たりはない。
扉を開ける。
「……え」
そこにいたのは、牧瀬だった。
ラフすぎる格好に、コンビニ袋。研究者というより、昔から神代家に勝手に上がってくる面倒な身内みたいな顔をしている。実際、悠真が小さい頃から、晃一の友人として何度も家にいた男だ。
でも、いまこのタイミングで来ることは想定していなかった。
「よう、悠真」
「何で……」
「晃一から連絡きた」
「連絡?」
「“例の荷物、やばい。今すぐ来い”って」
牧瀬は眉をしかめる。
「で、来た」
悠真の喉が、急にひりついた。
家の中の秘密を、外の大人に見せる。
しかも相手は牧瀬だ。小さい頃から知っているからこそ、妙に生々しい。
家の中の異常が、本当に“外”へ晒される感じがした。
「……入れよ」
「お、おう」
牧瀬は勝手知ったる様子で靴を脱ぎ、リビングへ入る。
そして、食卓の向こうにいる黒金と白銀を見た瞬間、さすがに足を止めた。
「……晃一?」
その一言には、本気の困惑が混じっていた。
ノワールが静かに立ち上がる。
「牧瀬さん」
「いや、待て」
牧瀬は一歩近づく。
「どういう分かれ方だよ、お前……」
ブランがパンダを抱いたまま、きょとんとする。
「おまえ?」
「晃一に決まってるだろ」
牧瀬は白銀と黒金を交互に見た。
「何で二人いるんだ、って話だけど」
その言い方に、悠真は妙にざわついた。
牧瀬はまだ、この二人を晃一として見ている。
バグ。エラー。分かれた状態の晃一。
そういう扱いだった。
「ちゃんと説明しろよ」
悠真が言う。
「何が起きてんのか」
「それはこっちが聞きたい」
牧瀬は変身機を見て、顔をしかめる。
「これ、搬出ミスでそっちへ行っただけの試作品だぞ。動く前提で置いてない」
「じゃあ何であるんだよ」
「ラボの段取りが終わってたから」
「最悪だな」
「最悪だよ」
牧瀬は変身機へ手を伸ばした。
「とりあえず、これは回収する」
「え」
「当たり前だろ。こんなの家に置いとく状態じゃない」
「待って」
悠真は反射で手を伸ばし、変身機を先に掴んだ。
「それ、持ってくな」
「持ってく」
「だめだ」
「悠真」
牧瀬の声が少し低くなる。
「今のこれは、戻せる可能性のあるエラーだ。放っといていいもんじゃない」
「戻せるなら、なおさらだめだろ」
「ラボで見るしかない」
「持っていかれたら、もう戻せないかもしれないじゃん!」
その声は、自分でも驚くほど必死だった。
牧瀬が一瞬黙る。
悠真の手の中で変身機が冷たい。
「お願いだから」
悠真は言う。
「まだ、ここに置いといて」
「悠真」
「父さんと、やっとちょっと話せるようになったんだよ」
喉が熱い。
「今しかないんだ」
言いながら、自分がどれだけ身勝手なことを言っているかもわかっていた。
事故で。
危険で。
正しく処理されるべき物だ。
でも、それでも手放したくない。
「……晃一」
牧瀬は黒金と白銀を見た。
「お前も何か言え」
その呼び方に、ノワールがわずかに目を細める。
「牧瀬さん」
「何だ」
「それを持っていかれると、お兄ちゃんが嫌がります」
「嫌がるとか、そういう話じゃ」
「嫌です!」
ブランが割り込んだ。
パンダを抱えたまま、変身機を持つ悠真の前へ立つ。
「だめ」
「晃一」
牧瀬は苛立ったように言う。
「お前、今そういう状態じゃ」
「だめ」
ブランは繰り返す。
「おにいちゃん、かなしいから」
ノワールも、その横へ立つ。
「現時点で回収は不適切かと」
「何でそんなに冷静なんだよ……」
「お兄ちゃんの意思を優先したいので」
「晃一、お前さ……」
牧瀬は言いかけて、やめた。
黒金と白銀を見比べる目が、少しだけ変わる。
まだ“二人の人格”として認めるほどではない。
でも、単純なエラーの振る舞いではないことには気づき始めている。
その沈黙が、悠真をますます必死にさせた。
「頼む」
変身機を抱え込むみたいにして言う。
「まだ持ってかないで」
「……」
「お願い」
牧瀬は、長く息を吐いた。
「今すぐには持っていかない」
ようやく言う。
「でも、これは放置していい物じゃない。わかってるな」
悠真は小さく頷く。
本当は、わかっている。
わかっているのに、今はそれより手元に置くことを選んでしまう。
「で」
牧瀬は頭を掻いた。
「わかってる範囲だけ言う」
変身機を指す。
「情動応答型の試作機。感情の振れ幅に引っ張られて、自己認識に干渉する。晃一の場合は、たぶん一人のまま抱え込んでたものが二方向へ裂けた」
ノワールとブランを見る。
「抑える側と、まっすぐ出る側」
「じゃあ性格が分かれたってこと?」
悠真が問う。
「現時点では、そういうエラーに近い」
牧瀬は言う。
「戻せる可能性はある。だから余計に、雑に回すな」
そして変身機を指して続けた。
「これで変えられるのは、今のところ悠真の意思が引き金になってるからだ。お前が軽く使うほど、後で何が残るかわからなくなる」
その一言が、妙に胸へ落ちた。
分離も再統合も、自分がやっている。
そのことを、他人の口で言われると、急に重い。
けれど、変身機を抱く手は緩まなかった。
その夜、悠真はノワールとブランの寝ている部屋を覗いた。
覗くつもりはなかった。
水を飲もうとして通りがかっただけだ。
ただ、襖が少しだけ開いていて、そこから白銀と黒金が見えた。
狭い布団に、二人並んでいる。
背丈は小さいのに、装甲の厚みのせいで妙に場所を取っている。
白虎はパンダを抱き込むみたいにして丸まり、アヌビスはその横で静かに目を閉じていた。
冷たい機械のはずなのに、その並びだけがひどくあたたかく見えてしまう。
悠真はそこで、牧瀬へ変身機を渡さなかった自分を思い出す。
危険だとわかっていた。
でも、手放せなかった。
父と話せる時間も、ノワールとブランがここにいる時間も、どっちも欲しかった。
襖の隙間をそっと閉じる。
胸の奥で、何かが少しずつ沈んでいくみたいだった。
楽しい、ではない。
でも、もう手放したくない。
それが、たぶん一番まずい。
神代家の朝は、少しだけ手順を持ち始めていた。
起きる。
顔を洗う。
朝飯を作る。
そして、今日は誰でいるかを決める。
そんな家、まともなわけがない。
でも、三日も続くと人は手順を覚える。
悠真は、机の上のなんでも変身機を見下ろした。
丸い金属装置は、相変わらず道具らしく見えない。生活の中に置いていい重さでも、質感でもない。なのにもう、この家ではそれが朝の選択肢に入り始めている。
最悪だ。
最悪なのに、少しだけ落ち着く。
「……今日は、どうなさいますか」
食卓の椅子に座ったノワールが、静かに言った。
黒金の装甲は朝の光を鈍く返し、その赤金の目だけが落ち着いてこちらを見ている。背丈は小さいのに、胴の厚みと肩幅のせいで妙に存在感がある。
ブランはいつものパンダを抱えたまま、床でこちらを見上げていた。
「おとうさん?」
「いや」
悠真は答える。
「朝は二人のままでいい」
「いい?」
ブランが首を傾げる。
「うん。飯食ってから」
「おとうさん、あと?」
「あと」
そう言った時点で、悠真はもう、自分の中の順番が変わっていることに気づいていた。
まず晃一へ戻すのではない。
最初にノワールとブランがいる前提で考えている。
そこに一瞬だけ、罪悪感みたいなものが差す。
でも、見ないふりもできてしまった。
「じゃあ、朝飯」
悠真は言う。
「昨日の残り、温めるから」
「お手伝い、できますか」
ノワールが問う。
「え」
「見ているだけ、というのも落ち着きません」
「……できるの」
「やってみないとわかりません」
「ぼくも!」
ブランが即座に言う。
「いや、お前はたぶん危ない」
「なんで」
「全部」
「全部……」
少ししょんぼりした声になるのが、わかりやすすぎる。
悠真は、そこでふっと息を吐いた。
「じゃあ、ブランは皿並べる係」
「それならできる!」
「ノワールは、味噌汁あっためるの見てて」
「見ているだけですか」
「急にやけどとかされても困るだろ」
「私はやけどしません」
「そういう問題じゃない」
でも結局、ノワールは見ているだけでは済まなかった。
「火力が強いです」
「え」
「そのままだと沸騰します」
「うわ」
「ですので」
黒い装甲の指先が、すっとコンロの火力を落とす。
「この程度が適切かと」
「……普通にできるじゃん」
「観察の結果です」
「器用だな……」
「お兄ちゃんが雑すぎるだけでは」
「事実で殴るなよ」
その横で、ブランは皿を二枚持って、真剣な顔で食卓へ運んでいた。
「おにいちゃん」
「なに」
「これ、まっすぐ?」
「ちょっと曲がってる」
「むずかしい」
「お前それ、運べてるだけでもえらいよ」
「えらい?」
「えらい」
「ぼく、えらい!」
「えらいえらい」
そう言って頭を撫でると、白銀の装甲越しにブランがぱっと嬉しそうな顔をした。
機械のはずなのに、反応だけはあまりに素直で、危ういくらいかわいい。
その光景を、ノワールが静かに見ていた。
「……何」
悠真が気づいて訊く。
「いえ」
「何か言いたそうじゃん」
「別に」
「その“別に”は別にじゃないだろ」
ノワールは少しだけ視線を逸らす。
「私は撫でられていませんので」
「は?」
「事実です」
「いや、そこ?」
「そこです」
声は落ち着いているのに、言っていることは意外と子どもっぽかった。
悠真は少しだけ目を丸くする。
「お前、そういうの気にするんだ」
「気にしてはいません」
「気にしてるだろ」
「……」
「無言が一番わかりやすいんだよな」
悠真は苦笑して、黒金の頭部へ手を伸ばした。
「ほら」
ごつごつした装甲の感触。冷たい。生き物の熱はない。なのに、撫でられたノワールはほんの少しだけ肩の力を抜いたように見える。
「これでいい?」
「……はい」
「素直かよ」
「今のは、必要な確認です」
「何の?」
「公平性の」
「知らねえよ」
でも、少し笑ってしまう。
笑えてしまうことが、やっぱり一番まずかった。
都合よく回っている。そう感じてしまった瞬間、悠真は自分が何に安堵したのかを考えないようにした。




