表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/14

第02話 戻れるから大丈夫

 眠れたわけがなかった。


 夜が明けても、神代家の空気はまだ昨夜の途中に取り残されている。ダイニングテーブルの上には、食べかけの夕飯がそのまま残っていた。焼き魚はすっかり乾き、味噌汁の表面には薄い膜が張っている。窓の外だけがいつも通りに明るくて、そのことが逆に腹立たしかった。


 悠真はソファの端に座ったまま、何度目かもわからないため息をついた。


 視線の先には、黒金のアヌビスと、白銀の白虎がいる。


 ノワールとブラン。


 結局、昨夜のうちに名前までついてしまったのがいちばん意味がわからない。白い方は当然みたいな顔で「ぼくはブラン」と言い、黒い方は少し考えたあと、「では、私はノワールで」と落ち着いて名乗った。父が二人のケモロボに裂けた翌朝に交わす会話では絶対にない。


 でも、その異常さに慣れてしまいそうな自分が、もっと嫌だった。

 なのに同時に、名前を呼べば振り向いて、指示すれば止まることに、胸のどこかが勝手に落ち着いてしまっていた。そこまで含めて最悪だった。


「……なんでそんな普通に座ってられんの」


 つい口をつく。


 ノワールは、きちんと椅子へ腰掛けていた。黒金の装甲は朝の光を鈍く返し、その目だけが落ち着いた赤金に光っている。背丈は悠真の胸あたりまでしかないのに、肩幅と胴の厚みのせいで妙に小さく見えない。少年のサイズ感と機械のがっしりした重量感が、まだ頭の中で噛み合わなかった。


「座らないほうがよろしかったですか」

 その横で、ブランはテレビ台の角やソファの肘掛けを順番に触っていた。兄のほうだけではなく、部屋そのものを覚えようとしているみたいだった。


 低い声で、静かに返ってくる。

「いや、そういう意味じゃなくて……」

「でしたら、問題ないかと」

「問題しかないんだよ……」


 ブランのほうは床へ座り込んで、パンダのぬいぐるみを抱いていた。


「おにいちゃん」

「なに」

「これ、ふわふわ」

「見ればわかる」

「すごい」

「そうだな……」


 会話が成立していること自体、まだめまいがする。


 昨夜、封筒の中身を読めるところだけ拾ってみた。

 可逆性。再統合。負荷。実測不足。

 ろくでもないことだけはわかった。


 でも――もし戻れるなら。


 その考えに、どうしてもすがりたくなる。


「……一回、やるぞ」

 悠真は立ち上がる。


 机の上にある、問題のなんでも変身機を手に取った。ひやりと重い。人の生活の中にあっていい道具の感触じゃない。持つたび、手の中で世界の側が間違っている気がした。


「やる、とは」

 ノワールが問う。

「戻れるか試す」

「晃一さんに」

「うん」

「おとうさん?」

 ブランが首を傾げる。

「そう」


 本当は怖い。

 でも、試さなかったせいで戻れたかもしれない可能性を捨てるのは、もっと怖い。


 悠真は変身機を握りしめた。


「父さん。戻れ」


 乱暴な命令形だった。


 けれど装置はちゃんと反応した。表面のラインが淡く光り、低い駆動音が鳴る。ノワールとブランの身体にもそれぞれ光が走る。


 黒が寄る。

 白が引く。

 装甲の線がほどけ、また絡み、ひとつの人体へ無理やり畳まれていく。


 光が弾けた。


 そこにいたのは、息を切らした晃一だった。


「……っ、は」

 テーブルへ手をつき、しばらくそのまま動かない。


「父さん!」

 悠真が駆け寄る。


 晃一は顔を上げ、数度まばたきしてから、ようやくこちらを見た。

「……悠真」

 声はちゃんと晃一のものだった。

「わかる?」

「わかる、っていうか……わかるけど」

「そうか」

 晃一は小さく息を吐いた。

「よかった」


 その一言が妙に普通で、悠真は一瞬だけ本当に泣きそうになった。


 戻れる。


 本当に戻れる。


 じゃあ、まだ大丈夫だ。


「……なんだ、戻れるじゃん」

 口に出た声は思った以上に軽かった。

 晃一は顔色こそ悪いが、頷く。

「たぶんな」

「たぶんやめて」

「俺もそう思う」


 そのやり取りに、悠真は思わず笑ってしまう。


 晃一がそこにいて、晃一の声で返してくる。

 それだけで、昨夜までの異常さが少しだけ薄まって見えた。


「座れよ」

 悠真は言った。

「味噌汁、温め直す」

「……いいのか」

「何が」

「お前がそういうこと言うの、珍しい」

「うるさい」

「そうか」


 晃一が、少しだけ口元を緩めた。


 それだけで、昨夜までとは違う朝になってしまう。


 悠真は台所へ立ち、味噌汁を温め直した。椀を差し出すと、晃一は素直に受け取る。食卓の向かいに座って、湯気を挟んでいるだけなのに、昨日までとは空気が違った。


「熱いから気をつけて」

「子ども扱いするな」

「してない」

「してる」

「してないって」

「……まあ、ありがとう」


 その“ありがとう”が、少しだけ柔らかい。


 晃一が機嫌のいい人間だとは思わない。

 でも、今はいつもより言葉がまっすぐ出ている気がした。


「父さん」

「何だ」

「どこまで覚えてる?」

 晃一は少し考えた。

「断片だけだ」

「断片」

「白いのが、たぶんうるさい」

 悠真は吹き出した。

「それはわかる」

「黒いのは妙に静かだった気がする」

「それもわかる」

「お前、随分余裕だな」

「余裕ではないけど」


 そう言いながらも、悠真は少し笑っていた。


 晃一も、それを見て少しだけ息を吐く。

「……昨日よりはマシそうだな」

「父さんも」

「何が」

「昨日より、ちゃんと喋ってる」

「昨日の続きだからな」

 晃一は椀を置いた。

「お前が言ってたこと、全部が間違ってるとも思わん」

 悠真は少し黙る。

「……そういうの、昨日言えよ」

「昨日は無理だった」

「今は?」

「今は、ちょっとだけ余計なことを考える暇がない」

「何それ」

「たぶん、今の俺、変な意味で正直なんだろう」


 その返しが、少しおかしくて、悠真はまた笑った。


 こういう会話をしたかったのかもしれない。

 いや、こういう形でしかできないのなら最悪なのだけど。

 それでも、いま目の前の晃一とは、昨日より少しだけましに話せる。


 その時、つけっぱなしだったテレビから、妙に明るいCM音が流れた。

 白黒のパンダが画面の端を跳ねていく。新作ゲーム配信の告知だった。


「……これ」

 晃一が、テレビを見たまま言う。

「お前が見てるやつか」

 悠真は一瞬だけ黙る。

「……気づいてたんだ」

「何回か、画面開いたまま寝落ちしてただろ」

「うわ」

「そんなに好きなのか」

「別に」

「その“別に”は好きなやつだろ」

「……まあ」

「どういうところが」

 そこで悠真は少し迷う。

「わかんない。何か……見てると、ちょっと息しやすい」

 晃一は、少しだけ驚いた顔をした。

「そういうことも言うんだな」

「今しかないから言ってんだろ」

「そうか」


 晃一は、その答えを笑わなかった。

 茶化しもせず、ただ受け取った。

 そのことが少しだけ嬉しくて、同時に痛かった。


 今しかない。

 この親子の形は、たぶん今しかない。


 そう思った瞬間、さっきまでの軽さとは別の痛みが差した。


「父さん」

「何だ」

「俺のこと、足りてないやつだと思ってる?」

 晃一はすぐには答えなかった。

 でも、今度の沈黙は昨日の沈黙とは違った。

「思ってない」

 と、はっきり言う。

「遅い」

「悪かった」

「それも遅い」

「知ってる」

 その返しが少しだけ情けなくて、悠真は笑ってしまう。


 笑ってから、ふと気づく。

 晃一の顔色が、朝より悪い。


「……父さん」

「何だ」

「しんどい?」

「多少は」

 晃一は正直に言った。

「でも、今日は会社には行かん」

「え」

「有給を取った」

 悠真は目を瞬かせる。

「こんな状態で出勤できるか」

「それはそうだけど」

「朝一で部長には連絡した」

「……相良部長?」

「そうだ」

「何て?」

「体調不良」

「嘘ではないけど雑だな」

「雑で通じる相手だから助かる」


 そこで、ようやく二人とも少しだけ笑った。


 晃一は異変を感じている。

 それでも休みを取り、この家に留まることを選んだ。

 ノワールとブランになることが、いまの自分たちにとって唯一ましな会話の鍵になっていると、もうわかってしまっているから。


「……父さん」

 悠真は変身機を見た。

「もう一回、戻す」

「戻す、じゃないだろ」

「裂く、のほう」

「物騒な言い方するな」

「でも、そういうことじゃん」

 晃一は少しだけ黙ってから、苦く笑った。

「まあな」

「嫌なら嫌って言えよ」

「……」

「父さん」

「嫌ではない」

 晃一は低く言う。

「お前がそのほうが笑うなら」

 悠真は、それにうまく返事ができなかった。


 変身機を握る。


 分離も再統合も、今のところ自分の意思で起こる。


 その事実が妙にしっくり来てしまう。

 自分が望めば、父を晃一に戻せる。

 自分が望めば、ノワールとブランへ裂けさせることもできる。


 それは、かなりまずい力だった。


「……ごめん」

 自分でも何に対してかわからないまま呟いて、

 悠真は命じた。

「ノワールとブランに戻れ」


 装置が低く鳴る。


 晃一の身体へ、白金の光が走った。

 輪郭が揺らぎ、肩が裂け、装甲が噴き出すように展開する。

 黒が生まれ、白が零れ、一人分の父が二つへ分かれていく。


 光が収まったとき、そこにいたのはまたノワールとブランだった。


 晃一はもう、どこにもいない。


 ブランがぱちぱちと目を瞬かせる。

「おにいちゃん」

「なに」

「さっき、おとうさんだった?」

 悠真は、一瞬だけ息を止めた。


 覚えていない。


 やっぱりこの二人は、晃一としての記憶を持っていない。


「……いたよ」

 悠真は言った。

「ちょっとだけ」

「どんな?」

「……昨日より、ちょっと話しやすかった」

「へんなの」

「ほんとな」


 笑って言ったあと、自分でその言葉に少しだけ刺される。


 でも、同時に思ってしまう。


 話せた。

 晃一と、ちゃんと。

 しかも戻れる。

 そして自分が望めば、また二人へ会える。


 なら、まだ大丈夫だ。


 その安堵が、たぶんもうかなり油断だった。


 昼を過ぎても、晃一は会社へ行かなかった。


 悠真が大学へ出るころにはすでにまたノワールとブランになっていたが、有給を取ったという事実だけで、この日の異常さが少しだけ家の外へ漏れずに済んでいる気がした。


 大学へ向かう足取りは、妙に軽かった。


 昨夜ほとんど寝ていないのに、頭の中だけ変に冴えている。スマホの画面には、何となく開いた動画アプリのホームが残っていた。盤上パンタの切り抜きが上がっている。サムネイルの向こうで、パンダ頭の配信者が笑っていた。


 親指が、無意識にそこで止まる。


 開きかけて、やめる。


 今はそれどころじゃない。

 ……いや、わりとそれどころな気もする。

 何を考えてるんだ自分は。


「おい」


 校門の手前で、聞き慣れた声が飛んできた。


 圭介だ。

 片手を上げながら近づいてくる。いつも通りのラフな格好。寝癖もそのまま。世界が壊れていない側の人間みたいな顔をしていて、少しだけほっとする。


「何その顔。徹夜?」

「まあ」

「何があったんだよ」

「いろいろ」

「雑だな」

 圭介はじろっとこちらを見る。

「でも、なんか変だぞ、お前」

「元から変だろ」

「そういう意味じゃなくて」

 圭介は本気で眉を寄せた。

「なんか、テンションおかしくない?」

「え」

「昨日の夜、何かあったのに、それを変に飲み込んでる感じ」


 ぎくりとする。


 親友は本当に勘がいい。

 良すぎて嫌になる時がある。


「別に」

「別に、って顔じゃないだろ」

「……父さんとちょっと喧嘩して」

「それだけ?」

「それだけ」


 嘘は言っていない。

 肝心なところを全部抜いているだけだ。


 圭介はしばらく黙っていたが、やがて低く言った。

「まあ、詳しく聞くけど」

「聞くなよ」

「聞くよ。お前、その顔のまま一人で帰したくねえし」


 その言い方に、悠真は少しだけ言葉を失った。


 ありがたいのだ。

 でも今は困る。

 家に帰したくない、なんて言われたら、本当に帰せないものが家にいるから。


「……今度な」

「今じゃなくて?」

「今じゃなくて」

「ふうん」


 圭介は完全には納得していない顔だった。


「とにかく」

 彼は続ける。

「変な方向にテンション上がってる時のお前、ろくなことにならないから」

「ひどい言い草だな」

「事実だろ」

「否定はできないけど」

「できないんかよ」


 少しだけ笑いが落ちる。


 でも、圭介はすぐに真顔へ戻った。


「気をつけろよ」

「何に」

「知らん。でも、なんか危ない」


 その一言は、妙に残った。


 夜、寝る前に、悠真は何となくスマホを開いた。


 通知欄の上のほうに、見慣れたアイコンがある。

 盤上パンタの配信予定更新。


 今日は雑談。

 タイトルは軽い。

 でもサムネイルの一言だけ、妙に目に引っかかった。


『ちゃんと見てる?』


 たったそれだけだ。


 誰に向けた言葉でもないはずなのに、

 一瞬だけ、心臓が変な鳴り方をした。


「……なんだよ」


 自分に言うみたいに呟く。


 でも、タップはしてしまった。


 部屋の向こうでは、白虎がパンダを抱いていて、

 少し離れたところに、黒金のアヌビスが静かに立っている。


 父は戻れる。たぶん。


 だから、まだ大丈夫だ。


 そう思ったまま、

 悠真は画面の向こうの声へ耳を傾けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ