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第13話 たぶんもう、そうなんだと思う

 生活は、思っていたより早く形を持ち始めた。


 朝は九条が最初に起きることが多く、

 ノワールはその次で、

 圭介は起きていると言い張りながらテーブルに突っ伏し、

 ブランは最後まで布団にしがみつく。

 悠真は、その全部の真ん中くらいにいる。


 誰が牛乳を切らしたと言い、

 誰が洗剤の在庫を見て、

 誰がゴミ袋を補充し、

 誰が食パンの端を最後に食べたかまで、

 少しずつこの家の“いつも”になっていく。


 ある朝、ブランは寝癖のついた耳のままリビングへ来て、

「おはよ」

 とだけ言った。

 パンダを抱いたままだった。

 九条がすぐに、

「歯磨き」

 と言い、

 白銀が

「いま、いおうとした」

 と返し、

 圭介が

「絶対言う気なかっただろ」

 と突っ込む。

 ノワールはその横で、黙ってマグカップを出している。

 ブランは洗面所へ向かいながら、やけに機嫌よく、

「はみだし、はみだし」

「だいせいかい」

 と歌った。

 ノワールの手が、そのたびに一拍だけ止まる。

 もう初めてではない。家の中で何度か聞いて、そのたびに拾ってしまっている反応だった。


 ただそれだけの朝に、

 悠真は笑ってしまった。


 笑ったあとで、喉の奥に何かが残る。

 朝が来て、飯を食って、出かけて、帰る。

 その並びを崩したくないと思ってしまった。


     *


 昼、外へ出る回数は少しずつ増えた。


 駅前の本屋。

 文具店。

 スーパー。

 パン屋。

 川沿いの道。

 短い散歩。


 ブランは見たいものが増える。

 ノワールは覚えることが増える。

 九条は調整する量が増える。

 圭介は突っ込む回数が増える。

 そして悠真は、

 その全部を見ている時間が増える。

 歌の断片、洗い終えた皿、ブランが置きっぱなしにしたパンダ、ノワールが畳み直したジャケット。そういう具体物が増えるほど、この家は晃一不在のまま完成に近づいていく。


 ブランが外で新しい言葉を覚えるたび、

 ノワールが自分の判断で先回りするたび、

 悠真はどうしようもなく誇らしくなる。


 そのくせ、目が止まりそうになる瞬間も増えた。

 ノワールが袖をまくる時の手首。

 ブランが笑って首を傾げる角度。

 服を着たことで逆に際立つ身体の線。


 そこで初めて、悠真は視線を外す。

 必要以上に触れない。

 必要以上に褒めない。

 必要以上に近づかない。


 誰にも気づかれない程度に。

 たぶん、自分にも。


 夕方、九条が買ってきた洗剤をしまいながら、

「在庫管理表を作りましょうか」

 と言った。

 圭介がすぐに嫌そうな顔をする。

「急に生活感がガチ」

「生活ですから」

 九条は平然としていた。

「もう十分ガチだろ」

 悠真が言うと、

 九条は少し首を傾げる。

「そうですか」

「そうだよ」

「では、なおさら必要です」

 その理屈は強かった。


 ノワールは、表を作ると聞いてすぐにメモ帳を持ってきた。

「項目は」

「洗剤、食材、衛生用品」

「頻度は」

「使い切る三分の一手前」

「なるほど」

 そのやり取りが始まると、圭介はげんなりした顔をし、

 ブランは

「むずかしい」

 と言ってソファへ逃げる。


 悠真は笑った。

 本当に、ただの生活だ。

 事故の残骸の上に、こんなものが育っていいのかと思うくらい、ただの生活だった。


     *


 夜、食卓には唐揚げが並んだ。


 ブランは最初の一個で口の中を少し火傷して、

「あつい」

 と言いながらも二個目へ行く。

 ノワールはレモンをかけるかで少し迷って、

 最終的に半分だけかける。

 圭介は最初からマヨネーズを探して怒られる。

 九条は怒りながらも小皿を出す。

 悠真はその全部を見ながら、つい笑ってしまう。


「何ですか」

 九条が訊く。

「いや」

「何かありましたか」

「ない」

「顔が緩んでいます」

 ノワールが淡々と指摘する。

「お前またそれ言うのか」

「事実です」

 もう慣れている。

 その慣れ方がまた、少し可笑しい。


 ブランは唐揚げを咀嚼しながら言った。

「きょう、しあわせ」

 あまりにもまっすぐで、全員が少し止まる。

「急だな」

 圭介が言う。

「でも、そう」

 ブランは真顔だった。

「ごはん、おいしい」

「うん」

「みんないる」

「うん」

「だから」

 それ以上の言葉はいらない、みたいな顔をする。


 悠真は、その瞬間だけ唐揚げの皿へ視線を落とした。


 朝が来る。

 出かける。

 戻る。

 食べる。

 笑う。

 そういう日が、思っていたよりあっさり続いた。


 ノワールは自分で選ぶことが増える。

 ブランは兄の横から外のほうへも目を向ける。

 九条はもう家の一部みたいに動き、

 圭介も文句を言いながら居ついている。


 何かあると、二人はまだ悠真を見る。

 そのことに救われるたび、悠真は少し遅れて息を詰める。


 悠真は、自分の中にまだあるものを、

 見ないふりで薄めようとする。


 ノワールに視線を止める時間を短くする。

 ブランの甘えに応える手を、一拍遅らせる。

 夜はなるべく先に風呂へ行く。

 部屋の扉を閉める。

 誰にもわからないくらい小さく、

 でも確かに距離を取る。


 それが自制だと思うことにしている。


 けれど、近づかないことで消えるものばかりではなかった。

 沈んでいるだけだと、夜になると思い知る。


     *


 その夜、みんなが寝静まったあとだった。


 リビングには生活の形がそのまま残っている。

 畳みかけの洗濯物。

 ブランの絵本。

 ノワールのメモ。

 圭介の置きっぱなしの充電器。

 九条のまとめた買い物表。


 人がいる家の痕跡だ。

 暖かい。

 少し散らかっている。

 ちゃんと回っている。


 その真ん中で、悠真だけが起きていた。


 灯りはつけない。

 タブレットの画面だけが顔を照らす。

 盤上パンタの新しい配信が始まったばかりだった。


 今日の話題は、雑貨でもゲームでもなかった。

 好きなデザインの話。

 刺さる造形の話。

 フィクションの中で、どういう“過剰さ”に惹かれるか。

 どこまでいくと笑えて、どこから急に本気になるか。


 露骨ではない。

 けれど、輪郭ははっきりしていた。

 迂回しながら性癖の縁をなぞるみたいな話だった。


『わかる人だけわかればいいんだけどさ』

 盤上パンタが、笑い混じりに言う。

『ああいう、必要ないのにそこだけ妙に作り込まれてるやつ、好きなんだよね』

 その一言が、悠真の奥へひどく静かに落ちる。


 白夜の端っことして、コメントを打つ。


『それはかなりわかります』

『必要ないのに、が大事ですよね』

 少しして、盤上パンタがそれを拾う。

『そこわかるのいいね』

『そう、必要ないのに作り込まれてるのって、なんかもう思想だから』


 思想。

 その言葉に、悠真は少し笑う。

 笑いながら、画面から目を離せない。


 生活の形が色濃く残る部屋で、

 ごく当たり前に回っている共同体の真ん中で、

 自分だけがこうして、倒錯した部分を外へ流している。


 それは裏切りみたいでもあり、

 呼吸みたいでもあった。


 誰にも見せない顔で、

 誰にも言わない言葉を打つ。


 ノワールにも、

 ブランにも、

 九条にも、

 圭介にも、

 たぶん見せられない顔だった。


 画面の向こうへだけは流してしまう。


『今日はちょっと危ないですね』

 そう打つと、

 盤上パンタはまた笑う。

『今日はちょっと危ないかもね』

『でも、そういう日のほうが本音っぽいじゃん』


 タブレットの光の中で、

 悠真は自分でも見たことのないくらい楽しそうな顔をしていた。

 少なくとも、今この瞬間の彼は、

 孤独を埋めているというより、

 孤独ごとそこへ流し込んでいた。


     *


 私は、朝が来る前に目を覚ますことがある。


 たいていは、静かな時間だ。

 誰もまだ起きていない。

 家の中には、音が少ない。

 冷蔵庫の低い振動と、遠くの車の音くらいしかない。


 その時間は嫌いではない。

 整理しやすいからだ。


 私の中には、今までのことが順番に積まれている。


 最初に目を開けた時のこと。

 兄さんの顔。

 ブランの声。

 何が起きたのかわからなかった時間。

 それから、食事の仕方、服、家の中の位置、外の道、店の並び、共同体の声。


 私はたぶん、そういうふうに覚える。

 順番に。

 形にして。

 あとで取り出せるように。


 最初の頃の私は、兄さんの近くにいるしかなかった。


 兄さんに嫌われたら終わる。

 見失ったら終わる。

 そういう感覚が、理由より先にあった。


 でも、それだけではないものも増えてきた。


 九条さんと家事をする時の、順番が決まっていく感じ。

 圭介と話す時の、雑なのに妙に乱れない感じ。

 ブランが外で何かを見つけた時、先にどう止めるかを考える自分。

 兄さん以外にも、私の役割があると思える瞬間。


 そういうものが、少しずつ増えた。


 前より、自分を嫌う時間は減った。

 はっきり好きとは、まだ言えない。

 いていいと思える瞬間は増えた。


 ブランのほうが、その速さは上手い。

 私はまだ、そこまで素直ではない。


 兄さんのことも、前とは少し変わった。


 最初は、ただ世界の中心だった。

 そこにいなければ終わる場所。

 帰る先。

 見る先。

 選ばれる先。


 今も近い。

 今も好きだ。

 そのことに疑いはない。


 けれど、最近は時々、どう呼べばいいのかわからない感情が混ざる。


 褒められると嬉しい。

 触れられると、少し身体の奥が熱くなるような気がする。

 視線が合うだけで、思考が一拍遅れることがある。

 近くに座る理由を、自分の中で必要以上に探している時がある。


 それは、兄弟に向ける感情ではないのかもしれない。

 でも、では何なのかと問われると、まだ言葉がない。


 私はそのことを、今はまだ考えすぎないようにしている。

 名前をつけた瞬間に、何かが変わってしまいそうだからだ。


 忘れないものがある。


 晃一へ戻れなくなった、あの日のことだ。


 兄さんは焦っていた。

 顔色が悪くて、声が強くて、何度も何度も装置を使った。

 そのたびに、身体の奥へ何かが押し込まれる感じがした。


「戻れって言ってんだろ!」


 あの言葉だけは、今もはっきり残っている。


 命令。

 押し込み。

 強い声。

 何かを書き換えられるみたいな感覚。


 あれは一度きりではなかった。

 何度もあった。

 兄さんは壊れそうで、私たちも壊れそうで、

 止まらなかった。


 今は、普段そのことを考えない。

 考えないようにしている。

 兄さんが悪かったと、単純には思えないからだ。

 あの時、兄さんも限界だった。

 私もわかっている。


 わかっている。

 でも、身体は別の覚え方をしているのかもしれない。


 その夜、私は悲鳴を上げて目を覚ました。


 自分でも驚いた。

 喉が痛い。

 部屋は暗い。

 隣ではブランがまだ眠っている。

 大丈夫だと確認してから、私は自分の両腕を見た。


 黒い装甲。

 機械の腕。

 指の関節。

 硬さ。

 重さ。


 見慣れている。

 いつも使っている。

 なのに、その時だけ、どうしようもなく変だった。


 しっくりくる。


 それが、一番気持ち悪かった。


 これは私の腕だ、と身体のどこかが知っている。

 最初からそうだったみたいに動く。

 重さも、硬さも、届く距離も、全部わかる。


 でも、最初からそうだったはずはない。


 私はしばらくそのまま、腕を見ていた。

 違和感と、不気味さと、

 手放せない馴染み方が、

 全部同時にそこにあった。


 落ち着こうと思った。


 水を飲めば少しはましになるかもしれない。

 そう考えて、静かに部屋を出る。


 廊下は暗い。

 足音はほとんどしない。

 私は昔から、夜の家の気配をよく聞く。

 今夜もそうだと思っていた。


 だが、リビングの手前で、光が見えた。


 灯りではない。

 もっと低い、青白い光。

 扉の隙間から漏れている。


 誰かいる。


 そう思って足を止めた。

 音は小さい。

 喋り声。

 笑う声。

 画面の向こうの人間の声。


 そっと覗く。


 そこにいたのは、兄さんだった。


 灯りはついていなかった。


 タブレットの画面だけが、兄さんの顔を照らしている。

 リビングには、生活の痕跡がそのまま残っていた。

 畳みかけの洗濯物。

 ブランの絵本。

 九条さんのメモ。

 圭介の充電器。

 私の書いた表。


 その真ん中で、兄さんだけが起きている。


 画面の向こうでは、あの人が喋っていた。

 盤上パンタ。

 兄さんが時々見る配信者。

 私も名前は知っている。

 何度か一緒に見たこともある。


 でも、今の兄さんは、あの時とは違って見えた。


 楽しそうだった。


 それだけではない。

 何か、もっと。

 柔らかいのに、鋭い。

 嬉しそうなのに、遠い。

 見たことのない顔だった。


 コメント欄へ指を動かして、

 少しして、画面の向こうの人がそれを拾う。

 そのたびに、兄さんの口元が少し変わる。


 私は、その場から動けなかった。


 どうして、そんな顔をするのですか。


 そう思った。

 でも、口には出ない。


 あれは、誰ですか。


 そうも思った。

 兄さんなのに、

 兄さんのはずなのに、

 私たちといる時に見たことがない。


 その瞬間、私の中で、いくつかのものが一度にぶつかった。


 兄さんは優しい。

 兄さんは怖かった。

 兄さんに命令を押し込まれたことがある。

 兄さんに救われてもきた。

 私は兄さんが好きだ。

 兄さんに触れられると嬉しい。

 でもそれは、最初から作られていた感情なのかもしれない。


 そこまで思いかけて、私は強く息を止めた。


 嫌だった。

 その考え方は嫌だった。


 もしこの気持ちが作られたものなら、

 私の中にある大事なものまで全部、誰かの設計になってしまう。

 嬉しかったことも、

 救われたことも、

 自分で選びたいと思ったことも、

 全部。


 そんなはずはないと、思いたい。


 でも、絶対に違うとも、まだ言えない。


 私は扉の陰で、自分の機械の指先を強く握った。

 しっくりくる。

 やはり、しっくりくる。

 その感覚がまた、ひどく不気味だった。


 リビングの中で、兄さんはまだ画面を見ている。

 こちらには気づかない。

 楽しそうで、

 遠くて、

 少し、知らない人みたいだった。


 私は結局、水を取りに行けなかった。


 ただ、その光景を見たまま立ち尽くした。

 自分の中の矛盾だけが、やけに重かった。



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自分と居る時には見せない笑顔を自分ではない誰かと居る時に見せてるのを見てしまうと、しんどいよね
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