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第12話 ほんとにある

 翌日の外出は、本当に短いはずだった。


 家の近所を一周して戻る。

 まずは服の動きと周囲の視線に慣れる。

 九条は最初からそう決めていた。


 だからこそ、玄関の前でブランが妙に神妙な顔をしているのが、少し可笑しかった。


「ブラン」

 悠真が声をかける。

「ん」

「緊張してる?」

「ちょっと」

「珍しいな」

「だって、ほんとに、そと」

 その答えに、ノワールが横から静かに言った。

「昨日の時点で、相当浮かれていたでしょう」

「それとこれは、ちがう」

「そうですか」

「そう」


 ノワール自身も、いつもより声が少しだけ低い。

 今日は黒に寄せた服をそのまま着ている。

 ブランも、昨日選んだアイボリーの長袖と柔らかいパーカーをまた着た。

 お気に入りになったらしい。

 兄が選んだからではなく、自分で好きになったらしいところが、少し眩しかった。


 玄関のドアを開ける。

 外の空気が流れ込む。

 それだけで、家の中とは違う音の層が耳へ触れた。


 車の音。

 遠くの信号。

 通り過ぎる自転車。

 知らない人の会話。


「行きましょう」

 九条が先頭に立つ。

「今日は、まず一周です」

「いっしゅう」

 ブランが繰り返す。

「一周して、帰る」

「うん」

「それだけ?」

「それだけです」

 九条は振り向かずに答えた。

「できれば、です」

 その一言に、圭介が後ろで笑う。

「できればって何だよ」

「ブラン次第です」

「俺のせい」

 ブランが言う。

「主に」

 ノワールが補足した。


     *


 最初の数分は、拍子抜けするほど何も起きなかった。


 家の近所の道。

 見慣れた塀。

 同じマンションの駐輪場。

 ごみ置き場のネット。

 そういうもののあいだを、ただ歩く。


 それだけなのに、二人には新しい。


 ブランは、最初こそきょろきょろしていたが、九条に「前」と言われるたびにちゃんと向き直る。

 ノワールは周囲を見つつ、歩幅の調整も忘れない。

 隊列は自然に決まっていた。

 九条が前。

 ブランと悠真が真ん中。

 ノワールが少し後ろ気味に両側を見ている。

 圭介が最後尾だ。


「先輩、ほんとに隊列組むんですね」

 圭介が小声で言う。

「安全のためです」

「いや、そうなんでしょうけど」

「他に方法がありますか」

「ないです」

「ならこれです」

 九条は振り返りもしない。

 その平然さが、変に心強い。


 曲がり角のところで、ブランがふいに足を止めた。


「はと」

「どこ」

 悠真が訊くと、

 白銀は道路脇を指した。

「いた」

 たしかにいた。

 灰色の鳩が二羽、のんびり歩いている。


「追うなよ」

 悠真が先に言う。

「おわない」

「ほんとか?」

「みるだけ」

 そう言って、ブランは数秒だけ鳩を眺めた。

 それから自分で目を離した。

 それだけのことが、今日は少しだけ大きい。


「えらい」

 悠真が言うと、

 ブランは少し得意そうに胸を張る。

「じゅんばん、わすれてない」

「ちゃんと覚えてるな」

「うん」

 白銀は嬉しそうに答えた。


 ノワールは、その横でほとんど表情を変えないまま言う。

「今のは悪くありません」

 ブランがそちらを見る。

「え」

「見たいのはわかります」

「うん」

「でも先に周囲でした」

「じゅんばん」

「そうです」

 九条も短く付け足す。

「今のは良かったです」

 その切り分け方が、妙に優しかった。


     *


 マンションの外れを曲がったところで、小学生くらいの子が母親に手を引かれて歩いてきた。


 その子が、ぴたりとこちらを見る。


「見て、あの人たち」


 声が大きい。

 悪意はない。

 ただ純粋に、珍しかっただけだ。


 ブランの足が止まる。

 ノワールの肩がわずかに強ばる。

 悠真の心臓が、一拍遅れて嫌な音を立てる。


 母親は慌てて子どもの手を引き、

 すみません、と軽く会釈して去っていった。

 その一瞬で全部終わった。

 何も起きていない。

 起きていないのに、空気だけが少し変わる。


「……へん?」

 ブランが小さく言う。

 その声が、思ったより静かだった。


 悠真は、答えをすぐに出せなかった。


 九条が代わりに言う。

「珍しかっただけです」

 ブランがそちらを見る。

「めずらしい」

「はい」

「へんじゃなくて?」

「変だと思う人もいるでしょう」

 その言い方は、ごまかしではない。

「ですが」

 九条は続ける。

「珍しいものを見て、すぐ何かを言う子どもはいます」

「……うん」

「だから、それだけであなたたちの価値は決まりません」

 静かな言葉だった。

 けれど、思っていたよりずっと深く刺さる。


 ノワールは少しだけ目を伏せたあと、

 ブランへ言った。

「気にしすぎなくていいです」

「でも」

「私も、少しは気になります」

 そこは正直だった。

「ですが、それで終わりではありません」

 その返しが、ノワールらしい。


 ブランは数秒だけ考えて、

「……わかった」

 と頷いた。

 完全に飲み込めたわけではない。

 でも、歩くことはやめなかった。

 歩き出す直前、白銀は自分に言い聞かせるみたいな小ささで、

「はみだし、はみだし」

「だいせいかい」

 と口の中で転がした。

 ノワールの耳が、ぴくりと動く。


 その時、圭介が妙な明るさで言った。

「ほら、たい焼き」

 全員の視線がそっちへ向く。

「急だな」

 悠真が言うと、

 圭介は肩をすくめた。

「今は急いでいいだろ」

 その軽さに、少しだけ救われる。


 たい焼き屋は、角を曲がったすぐ先にあった。

 もともと一周で帰る予定だったのに、

 九条は店と通りの広さを一度確認してから、短く言った。

「ここまでは延長しても大丈夫です」

「お、許可出た」

 圭介が言う。

「安全圏内です」

 九条は平然としていた。


     *


 たい焼きは、ブランが思っていたより熱かった。


「あつい」

「そりゃそうだろ」

「でも、おいしい」

「ならよかった」

 頬張るたびに表情が変わる。

 さっきの沈みが、少しずつほどけていくのがわかる。


 ノワールは、最初ひと口が小さすぎた。

「警戒しすぎ」

 悠真が言うと、

 黒金は真顔で返す。

「熱量が未知数でした」

「たい焼きにその言い方するやつ初めて見た」

 圭介が笑う。

 九条は無言のまま一番きれいに食べていた。


「先輩、そういうのうまいっすよね」

「普通です」

「いや、普通にうまい」

 圭介の言い方に、

 九条は少しだけたい焼きを見る。

「……崩す必要がないので」

 たぶん褒められている自覚はある。

 でも受け取り方が独特だった。


 たい焼きを食べながら、ブランが急に言った。

「そと、ほんとにある」

 その一言で、全員が少しだけ止まった。


「あるな」

 悠真が答える。

「ほんとに、いっぱいある」

「うん」

「おにいちゃんのへやのなかだけじゃない」

 その言い方が、不意に胸へ入る。


 兄の部屋。

 神代家。

 共同体。

 それだけが世界だった二人にとって、

 外は“ほんとにある”ものとして今日やっと輪郭を持ったのだ。


 ノワールも、たい焼きの紙袋を持ったまま言う。

「想定より、複雑でした」

「そりゃな」

「ですが」

 少しだけ間がある。

「見ておいたほうがいいと思います」

 その結論が、ノワールらしかった。


 九条は短く頷く。

「そのために出ました」

「はい」

「次はもう少し広げます」

 その一言で、次がまた決まる。


     *


 帰り道、ブランは今度こそ走らなかった。

 時々立ち止まりはした。

 でも自分で周囲を見ることを思い出し、

 ノワールも止める前に一拍待つようになっていた。


 悠真は、その二人を見ながら歩く。

 嬉しかった。

 外を見て、

 反応して、

 少し傷ついて、

 それでも戻らず歩く二人が、どうしようもなく眩しい。


 でも同時に、やっぱり少しだけ苦しい。


 世界が広がるということは、

 兄だけが世界ではなくなるということだからだ。

 それは正しい。

 正しいのに、胸のどこかが静かに軋む。


「どうしました」

 隣のノワールが訊く。

「顔」

「顔?」

「少し変です」

「失礼だな」

「事実です」

 その返しに、悠真は思わず笑う。

「……いや、何でもない」

「そうですか」

「うん」

 本当は何でもなくない。

 でも今は、それでいい気がした。


 帰宅して、靴を脱ぎ、服の乱れを直し、たい焼きの袋を捨てる。

 たったそれだけのことが、今日は妙に新鮮だった。


「ただいま」

 ブランが言う。

「戻りました」

 ノワールも続く。

 昨日より自然だった。

 外へ出て帰ることが、少しずつ身体へ入っているのかもしれない。


 悠真は二人を見て、息を吐く。

「おかえり」

 その言葉が、今日は昨日より軽く出た。


 ブランはたい焼きの袋を大事そうに抱えたまま笑っている。

 ノワールは新しい服の袖を一度だけ見下ろし、それから顔を上げた。


 外はあった。

 危うくて、目が多くて、それでも確かにあった。

 その現実を、今日は三人で持ち帰った。

 普通になれたわけではない。昨日より、普通のふりが少しだけ上手くなっただけかもしれない。それでも、進んだことだけは確かだった。


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― 新着の感想 ―
食べ物を口に出来るという事は排泄も出来る? 涙とかも流せるのかな?
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