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第10話 あなたがいるなら

 通話が切れたあとも、神代家の空気はすぐには動かなかった。


 テーブルの上には、手つかずの夕食がある。

 九条の閉じた端末。座り方の崩れない圭介。悠真の握ったままのスマホ。

 その部屋の真ん中に、ノワールとブランがいる。


 ついさっきまで、画面の向こうには外の父がいた。

 会社で働いて、部下を持って、承認を出して、誰かに必要とされていた晃一。

 その外側の輪郭が、この家の中へいきなり差し込まれた。


 しかも最後には、牧瀬まで同じ画面へ入った。

 二人を見えていないわけではないのに、それでも晃一へ向かうと言い切る人として。

 あの低い声は、通話が終わってもまだ部屋のどこかに残っている気がした。


「……きつ」

 最初にそう言ったのは圭介だった。

 ソファへ深く沈み込んだまま、天井を見ている。

「いきなり社会が来た」

「来ていましたよ、最初から」

 九条が言う。

「こちらが見ないふりをしていただけです」

「今それ言う?」

「今だからです」


 悠真は笑えなかった。

 画面越しの相良部長の声が、まだ耳に残っている。

 家の中だけで抱えるのはやめろ。

 責める声ではなかった。

 だから余計に逃げにくかった。


「おにいちゃん」

 ブランが膝へ寄ってくる。

「へんなおとな、もういない?」

「いない」

 悠真が答えると、ブランはほっとしたように肩を下げた。

「よかった」

「よくはねえだろ」

 圭介が言う。

「これからああいうの増えるって話だぞ」

「きらい」

「俺も」

 悠真が即答すると、圭介が少しだけ吹き出した。


 ノワールは笑わなかった。

 さっきから部屋の隅に立ったまま、考え込むみたいに黙っている。

 赤金の目は静かだが、静かすぎて、逆に落ち着かない。


「ノワール」

 悠真が呼ぶ。

「どうした」


 少しだけ間があった。

 ノワールは、言葉を選ぶ時いつもそうする。

 けれど今は、選んでいるというより、確かめながら拾っているように見えた。


「外には」

 ノワールがゆっくり言う。

「晃一の席が、まだあります」

「……うん」

「そして、そこからこちらへ来る人もいます」

「そうだな」


 ノワールは、そこでほんの少しだけ目を伏せた。

「私は」

 珍しく、その先がすぐには続かなかった。

「私は、本当の意味で外へ出たことがありません」


 ブランが顔を上げる。

「でたい!」

 反射みたいな声だった。

「おそと、いきたい」

「早いな」

 圭介が言うと、ブランはきょとんとする。

「だって、きになる」

 それはたしかにブランらしかった。

 知らないものへ、まっすぐ手を伸ばす。


 でもノワールは違った。


「私は」

 黒い耳が、ほんのわずかに揺れる。

「気になります」

 そこまでは、いつもの言い方だった。

「ですが、少し」

 また止まる。

「少し、不安です」


 その言葉に、悠真は一瞬だけ目を見開いた。

 ノワールがそういうふうに、自分の不安をそのまま口へ出すのは珍しい。


「何が」

 悠真が訊く。


「見られること、です」

 ノワールは答えた。

「何だと判断されるのか、わかりません。晃一ではないと見られることも、晃一として扱われることも、どちらも少し……こわい」


 部屋が静かになる。

 それはたぶん、この家の誰も、同じことをうまく言葉にできていなかったからだ。


 ブランは不思議そうにノワールを見る。

「こわい?」

「はい」

「でも、みたい」

「……はい」

 ノワールは頷いた。

「見たい、とは思います」


 そして、その次の言葉は、少しだけ小さかった。


「あなたが、いるなら」


 悠真は息を止めた。

 ノワールは目を逸らさない。

 逸らさないまま、たぶん今、自分で言ったことを確かめている。


「一人では、難しいです」

 ノワールは続けた。

「ですが、あなたがいるなら。圭介や九条もいるなら。外を見てみたいと、思います」


 その言葉は、派手ではない。

 けれど悠真には、妙に重かった。

 外への憧れだった。

 しかもそれは、ブランみたいな無邪気な飛び出し方ではない。

 こわいと知ったうえで、それでも見たいという言葉だった。


「……そっか」

 悠真はやっと言う。

「うん」

 それしか返せないのが少し情けなかったが、ノワールはそれで十分だったみたいに、小さく頷いた。


 九条が閉じていた端末へ手を置く。

「なら、準備が必要です」

 声はいつも通り冷静だ。

「外へ出るなら、見る側の問題だけではなく、こちらの整え方も要ります」

「服とか?」

 圭介が言う。

「服です」

 九条は即答した。

「今のままでは、さすがに説明が追いつきません」


 ブランがぱっと顔を上げる。

「ふく!」

「嬉しそうだな」

「うれしい」

 まるで隠さない。


 一方で、ノワールはまだ少しだけ硬い顔をしていた。

 だから悠真は、ソファから手を伸ばして、その手首へ軽く触れる。

 いつものみたいに。


「大丈夫」

 思わずそう言っていた。

「たぶん、すぐ全部は大丈夫じゃないけど」

 ノワールの赤金の目が、少しだけ揺れる。

「一人では出さない」


 その言い方が、自分でも妙に重いと思った。

 でも嘘ではなかった。


 ノワールは、しばらく黙ってから言う。

「……はい」

 短い返事だった。

 だが、その短さの中に、さっきより少しだけ柔らかいものが戻っていた。


「じゃあ、その準備は明日です」

 九条が言う。

「服を持ってきます」

「早」

 圭介が言う。

「外は待ってくれません」

 九条は平然としている。

「それに、ためらっている時間が長いと、余計に出づらくなります」


 それはたしかに、その通りだった。


 ブランはもう、外へ行く自分を想像している顔をしている。

 ノワールはまだ少し不安そうで、それでも否定はしなかった。


 外は、もう家の外にあるだけのものではない。

 相良部長の画面を通して、さっき一度、この家の中まで届いてしまった。

 だから次は、こちらから向かう番なのだと、悠真はようやく理解しはじめていた。



     *


 翌日の昼前、悠真が大学へ出て、九条も研究所へ顔を出し、圭介も講義でいない時間に、牧瀬がもう一度だけ神代家へ寄った。


 インターホンが鳴る。

 玄関を開けると、ノワールとブランが並んでいた。

 少しだけ間がある。

 その間の意味を、牧瀬はわかっている。

 悠真がいない相手へ、二人はまだ少しだけ慎重になる。


「まきせさん」

 ブランが先に言った。

「いないぞ、おにいちゃん」

「知ってる」

 牧瀬は靴を脱ぎながら答える。

「だから来た」

「なんで?」

「様子見」

 短く言う。

「九条に頼まれたのもある」

 嘘ではない。

 だが、それだけでもなかった。


 ラボへ行く前に、ほんの少し寄ってみようと思った。

 悠真がいない時間の二人を、見ておいたほうがいい気がした。

 それだけのことだ。

 それだけのはずだった。


 しばらくして、ブランが冷蔵庫を覗き込みながら言った。

「サンドイッチ、ある」

「昨日の残りですね」

 ノワールが言う。

「食べますか」

「まきせさんも?」

 ブランが振り向く。

 牧瀬は少しだけ鼻で笑った。

「食わねえよ」

「じゃあ、みてて」

「何を」

「つくるの」

「残りだろ」

「のせるの」

 説明が雑だ。


 結局、ブランは残りのパンへレタスをのせ、ハムをずらし、ノワールがマヨネーズの量を調整し、牧瀬はそれを黙って見ていた。

 見ているあいだに、二人の動きの違いがよく見える。

 ブランは思いついた順に手を出し、ノワールは後始末まで先に考える。

 どちらも晃一の影がある。

 だが、晃一ではない。


「……まきせさん」

 ブランがぽつりと言う。

「なに」

「おにいちゃん、いないと、ちょっとへん」

「そうか」

「でも、ノワールいる」

「います」

「だから、だいじょうぶ」

 その結論が、妙に真っ直ぐだった。


 牧瀬は、そこでようやく二人をまともに見た。


 黒金のほうは、いつでも理性の側に立とうとする。

 白銀のほうは、思ったことが先に身体へ出る。

 そういう差はある。

 だが、二人とももう、ただの反応や役割ではない。

 ちゃんと、それぞれの在り方でこの家へいる。


「……雑には扱えねえよ」

「だが、晃一として放ってもおけねえ」

 続いた言葉は、独り言に近かった。

 ほとんど独り言みたいに出た。


 ブランが顔を上げる。

「なに」

「いや」

 牧瀬は肩をすくめた。

「そういうことだ」

 ノワールは何も言わなかった。

 だが、その赤金の視線は一瞬だけ揺れた。


 帰る前、ブランが玄関で言った。

「またくる?」

 その問いに、牧瀬は少しだけ黙った。


 黒金も、静かにこちらを見ている。

 黒金と白銀。

 どちらも、晃一ではない。

 だが、晃一から切れてもいない。

 そういう存在が、玄関先で自分の返事を待っている。


「……来るよ」

 短く答える。

 それで十分だった。

 ブランはすぐに機嫌を直し、ノワールはほんのわずかに目を伏せる。


 その日の夕方、九条が服を持ってくる。

 外へ向かう準備は、もう言葉だけではなくなっていた。


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