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第01話 父が裂けた夜

 晩飯の湯気が、まだテーブルの上に残っていた。


 味噌汁の椀は半分ほど手つかずで、焼き魚も、箸を入れたところから先が冷め始めている。テレビは消したままだった。代わりに、換気扇の低い音だけが台所に回っていて、その単調さが、かえって息苦しかった。


「だから、その言い方が嫌なんだよ」


 先に声を荒げたのは悠真だった。


 向かいに座る晃一は、箸を置いて、ほんの少しだけ眉を寄せる。怒鳴り返すほど感情的ではない。そこが、余計に腹が立つ。


「言い方じゃない。お前が最近、ちゃんとしてないから言ってるんだ」

「出たよ、ちゃんと」

「出たよじゃない。大学だって就活の準備だって、もう少し考えろ」

「考えてるって」

「考えてるように見えないから言ってるんだ」


 その声音はいつもと同じだった。低くて、真面目で、正しそうで、でも少しもこっちの体温に合わない。

 家の食卓なのに、会社で部下を詰めるみたいな声だった。そういうところが、昔から少しだけ息苦しかった。


 悠真は思わず笑った。乾いた、嫌な笑いだった。


「見えない、ね。父さんってほんとそれ好きだよな。見えてることしか信用しないの」

「そういう言い方をするな」

「じゃあどういう言い方ならいいんだよ」

「揚げ足を取るな」

「揚げ足取ってんのそっちだろ。俺のこと、ずっと“足りてないやつ”みたいに見るくせに」

「母さんが死んだ時も、そうだったじゃん」


 晃一の眉間の皺が、さっきよりはっきり深くなる。


「……今、その話をするのか」

「するだろ」

 悠真は乾いた声で言う。

「父さん、あの時もそうだった。泣くなとは言わなかったけど、結局ずっと“ちゃんとしろ”って顔してた。困らせるな、前向け、ちゃんとしてろって」


 それでも、すぐには言い返してこない。その一拍の沈黙が、悠真にはいつも苦手だった。怒鳴り合ってくれた方がまだ楽なのに、この人は、いったん胸の内側で何かを堪えてから、正しいことを選ぼうとする。


 その“正しさ”の手つきが、どうしても好きになれなかった。


「……お前を足りてないなんて思ってない」


 ようやく出てきた言葉は、やっぱり少し遅い。


「だったら、そういう顔すんなよ」

「どういう顔だ」

「今の」

「今の、じゃわからん」

「わかるだろ」


 晃一は、そこで小さく息を吐いた。


「悠真。俺はお前を責めたいんじゃない」

「はいはい」

「話を最後まで聞け」

「聞いたってどうせ、“父さんはお前のためを思って”だろ」

「お前は」

 晃一の声が少しだけ硬くなる。

「なんでも先回りして決めつけるな」


 悠真は椅子の背にもたれた。背中がぎし、と鳴る。


「決めつけてんのは父さんじゃん」

「何を」

「俺がちゃんとしてないとか、俺が考えてないとか」

「事実そう見える」

「ほらな」


 また同じところへ戻る。いつもそうだ。


 父はたぶん、本気で心配しているのだろう。仕事帰りの疲れた顔のままで、わざわざ食卓につき、向かい合って、言いにくいことを言おうとしている。そのことくらい、悠真にもわかる。


 わかるのに、腹が立つ。


 わかってしまうから、もっと腹が立つ。


「父さんさ」

 悠真は、魚の皿を見たまま言った。

「俺のこと、ちゃんと見たことあんの」

「ある」

「ないだろ」

「ある」

「じゃあなんで、今さらそんなこと言うわけ」

「今さらじゃない。前から言ってる」

「前から言ってるのが嫌なんだよ!」


 声が台所の壁に跳ね返った。


 自分でも少し驚くくらい大きかったが、引っ込みはつかなかった。


「父さんって、俺が何か一つでもうまくできてないと、そこしか見ないじゃん」

「そんなことはない」

「あるって」

「ない」

「じゃあ今、俺の何を見てるわけ」

「……」

「ほら」


 晃一が黙る。


 その一瞬、悠真は勝ったような気がした。最低な勝ち方だと思う。でも、言わせてしまった、と思った。晃一の言葉を止められた。父の正しさの流れを、一回だけ詰まらせた。


 なのに、その沈黙の次に来たのは、怒鳴り声ではなかった。


「……見てるから、言ってるんだ」


 低い声だった。


 さっきまでよりも、少しだけ深いところから出ている声。


 悠真は、そこで初めて顔を上げた。


 晃一は、珍しく真正面からこちらを見ていた。怒っているというより、追い詰められている顔だった。いつもの、少し無愛想で、正しくて、どこか鈍い父親の顔ではない。何かを言い間違えたくなくて、それでももう後戻りできない人の顔。


「お前がどうでもいいなら、こんなこと言わない」

「……」

「見てるから、危なっかしく見える」

「危なっかしいって何」

「何でもだ」

「雑すぎるだろ」

「雑でもそう見える」

「だからそれが嫌なんだって言ってんの!」

「じゃあどうしろって言うんだ!」

 とうとう、晃一の声が割れた。


 その瞬間だった。


 がた、と何かが鳴った。


 食卓ではない。台所でもない。二人のすぐ後ろ、リビングとの境目に置かれた仕事机のあたりからだった。


 悠真は反射的にそちらを見る。


 机の上には、封筒が一通と、丸みを帯びた奇妙な金属装置が置かれている。昼間からそこにあった箱の中身だ。晃一が「何だこれ」と言いながら封筒だけ開け、難しそうな紙面を見てすぐ閉じたまま放っていたもの。


 その装置が、今、微かに光っていた。


「……は?」


 悠真が間の抜けた声を漏らした次の瞬間、光が一気に強くなる。


 白く、いや、金とも銀ともつかない光だった。机の上の装置から伸びた帯が、まるで呼吸みたいに脈打って、晃一の胸元へ吸い込まれていく。


「父さん?」


 晃一が立ち上がりかける。


 だが、その身体が途中で止まった。喉の奥で何かを飲み込むみたいな音がして、背筋がびくりと震える。箸が床に落ちた。からん、と軽い音がしたのに、そのあとに続いた音は軽くなかった。


 骨が軋むような。

 金属がこすれるような。

 でも生き物の中でしか鳴らないような、嫌な音。


「な、……」


 悠真の言葉にならない声の前で、晃一の輪郭が揺らぐ。


 肩が裂ける。

 背中の線が捻れる。

 腕が、脚が、ひとつの人間の収まり方をやめて、二つの方向へ引き裂かれていく。


「嘘だろ」


 笑うしかないみたいな声が漏れた。


 晃一の身体は、そこで終わらなかった。


 黒い装甲が、金の回路を走らせながら片側へせり上がる。

 白い装甲が、銀の継ぎ目を閃かせながらもう片側へ展開する。

 頭部の形が、人のそれではなくなっていく。耳ではない。耳より大きく、鋭く、獣の頭骨みたいなシルエット。鼻梁は長く、顎は装甲に覆われ、目だけが異様に生々しい光を宿している。


 黒金のアヌビス。

 白銀の白虎。


 それが、食卓のわきに立っていた。


 いや、立っていた、というより、現れた、と言うべきだった。晃一がそこから消えて、代わりに二体の異形が、当たり前みたいな顔でそこにいる。


 しかも。


「ちょ、待っ……」


 悠真は一歩前へ出て、そこでもう一度言葉を失った。


 装甲の切り替わりが不完全なのか、二体は下着すら身につけていなかった。全身は獣じみた装甲に包まれているのに、その境目にある生々しい部分だけが妙に人間めいていて、余計にまずい。しかも色まで合っている。黒い方は黒金の硬質さの中に重い気配を隠していて、白い方は銀白の清潔さの中に無防備な柔らかさを含んでいる。どちらも背丈は中学生くらいしかないのに、肩幅と胴の厚みだけがやけにしっかりしていて、少年めいた小ささと機械的ながっしり感が噛み合っていなかった。


 何だこれ。


 本当に何だこれ。


 意味がわからない。

 意味がわからないのに。


 めちゃくちゃ刺さるんだけど。

 目を逸らしたのに、次の瞬間にはまた見ていた。見たくないのに、輪郭を確認してしまう。そういう反応を自分がしていることが、いちばん気持ち悪かった。


「いやいやいやいや、待って、待って待って待って!」


 悠真は自分で何を言っているのかわからないまま、まず反射で自室へ駆け込んだ。タンスを引き開ける。何でもいいから布。とにかく何か履かせなきゃいけない。見えてはいけないものが見えている。いや、もう見てしまっている。最悪だ。最悪なのに、何かが頭の奥で勝手に喜びかけていて、もっと最悪だった。


「何で俺こんな……!」


 引き出しから適当なボクサーパンツを二枚ひったくり、戻る。


 黒金の方――アヌビス型の方は、警戒したようにわずかに身構えていた。白銀の方――白虎型の方は、きょろきょろと辺りを見回している。二体とも、こちらを見ている。父だったはずなのに。父じゃない顔で。なのに、まったく知らない存在でもない目で。


 その混線が、悠真の理性をさらに悪くした。


「と、とりあえず……履いて!」

 自分でも情けない声が出る。

「何でもいいから! いや何でもよくないけど、今はそれでいいから!」


 白い方が、小首を傾げた。

「……はく?」

 声が高い。柔らかい。耳の奥を直接撫でられたみたいな響きだった。


 黒い方は、少し低い。

「……必要なのですか」

「必要だろ!」

 悠真は半泣きみたいな声で叫んだ。

「むしろ何で必要じゃないと思ったんだよ!」


 本当に何でそんな会話をしているのか、自分でもわからない。


 とにかく、近づくしかなかった。


 先に白い方へ下着を押しつける。白虎は素直に受け取ったが、履き方がわからないらしく、ただ眺めている。黒い方は、こちらの手元と自分の身体とを見比べて、微妙に固まっていた。だが、その戸惑い方にも妙な落ち着きがある。


「父さん……じゃないのか、これ……?」


 言いながら、悠真はその疑問に自分で答えられない。


 でも、触れる距離まで近づく。


 白い方の腰へ手を回して布を通す。

 硬い装甲の境目に、指が少しだけ触れる。冷たい。ぞっとするくらい、冷えている。人肌ではない。生き物の熱が一切ない、完全な機械の冷たさだった。


「っ」


 変な声が喉まで上がって、悠真は慌てて噛み殺した。


 白い方は、じっとこちらを見ていた。

 大きな獣の顔で。なのに目だけが妙に幼い。背丈は自分よりずっと低いのに、装甲の厚みのせいで、子どもっぽいと片づけられない存在感がある。


「おにいちゃん?」

 と、その白虎は言った。


 悠真は、その一言で本当に頭が真っ白になった。


「は?」

「おにいちゃん」

「何で」

「だって、そう」

 白い方は、何のためらいもなく言う。

「そう、思ったから」


 思ったから、で済むことじゃない。


 黒い方にも下着を押しつける。こちらはまだ多少警戒していたが、嫌がりはしない。むしろ、どこか困ったように視線を逸らす。その動きが妙に律儀で、余計にまずい。


「履ける?」

「……たぶん、では困りますよね」

「そうだよ……!」


 でも結局、悠真がほとんど手伝う羽目になる。


 黒い装甲の腰回りへ手を伸ばすたび、白い装甲の足元へしゃがむたび、頭のどこかが「見てはいけない」「でも触っている」「ていうか父さんだったものに何してるんだ俺」と叫び続けているのに、別のどこかは妙に静かだった。指先へ返ってくるのは、熱ではなく、機械の冷えだけだった。


 落ち着け。

 とにかく今は隠せ。

 兄として。

 いや兄って何だ。

 父さんなのに。

 父さんだったのに。

 でももう、どう見ても、兄と呼ばれているのは自分で。


 最悪だ。


 最悪なのに。


 すごく刺さる。


「……終わった……」


 履かせ終わったあと、悠真は本気でその場にへたりこみたくなった。


 白い方は、ぱちぱちと目を瞬かせている。

 黒い方は、こちらを見下ろして、低く言った。


「……助かりました」


 その声音が、変に落ち着いていて、余計に駄目だった。


 悠真は両手で顔を覆う。


「助かりましたじゃねえよ……」


 でも、そのまましゃがみ込んでいるわけにもいかない。


 机の上で、まだうっすら冷たい光を残している金属装置が視界に入る。

 その横に、白い封筒。

 中には、びっしりと文字が詰まった数枚の紙が入っていた。


 ――情動応答型分岐変質試作機・暫定仕様

 ――被験体の認知負荷上昇時における多重自己像分離仮説

 ――再統合には対象側の自己認識安定と外部誘導の双方が必要

 ――可逆性は理論上担保、ただし継続時間・負荷・個体差の実測不足

 ――非ラボ環境下での起動厳禁


「何だよこれ……」


 悠真は紙を見たまま呟く。


 読める単語と読めない単語が半々だった。

 可逆性。理論上。再統合。実測不足。起動厳禁。


 読めるところだけ拾っても、ろくなことが書いていないのはわかる。


「最悪だろ……」


 父が二人のケモロボに裂けている。


 しかもその説明書は、説明する気があるのかないのかわからない。


 でも今ここにいる二人が、それでもこの紙よりずっと生々しく、こちらを見ている。


「……父さん?」


 恐る恐る呼ぶ。


 二体は、同時にこちらを見た。


 その瞬間、悠真ははっきりわかった。


 違う。


 晃一ではあるのかもしれない。

 でも、晃一のままではない。

 その二つの視線は、同じ人間の延長ではなく、すでにそれぞれの角度でこちらを見ている。


 白い方が、先に一歩近づいてきた。

「おにいちゃん」

 またそう呼ぶ。

「なに?」

「へんな顔」

「そりゃそうだろ」

「かなしい?」

 悠真は答えに詰まる。

「……わかんない」

「そっか」


 白虎は、それだけ言って、ふと部屋の隅へ視線を向けた。


 そこには、古びたパンダのぬいぐるみがあった。悠真が昔、ゲームセンターで取ったものだ。何となく捨てられず、部屋の片隅に置いたままだった。


 白虎は、迷いなくそこへ歩いていく。

 しゃがんで、両手で抱き上げる。

 白銀の装甲に、パンダの丸い白黒が妙に似合った。


「……何でそれ」

 悠真が呆然と呟く。

「いい」

 白虎は満足そうに抱きしめる。

「これ、すき」

「いや、まあ、いいけど……」


 本当にいいのかはわからない。


 でも、その光景から目が離せなかった。


 白銀の白虎が、パンダを抱いている。


 黒金のアヌビスは、その様子を少し離れた位置から静かに見ている。

 その赤金の視線がわずかにこちらへ流れてきて、悠真は息を呑んだ。


 何だこれ。


 父が二人に裂けた。


 しかも、めちゃくちゃ刺さる。


 しかも、白い方はパンダを抱いてる。


 しかも、黒い方は妙に格好いい。


 意味がわからない。


 意味がわからないのに、頭のどこかがはっきり言っていた。


 たぶん、もう遅い。


 何かが、始まってしまった。

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