第6話:設計図の書き換え
意識が遠のく中、恭平は自身の体が「構造物」の一部として機能していることを、最期の瞬間まで冷静に感じ取っていた。
首に食い込むロープの強烈な張力。それは、外からドアを押し開けようとする「黒い質量」の圧力と、床に打ち込まれたアンカーボルトの抵抗力が、彼の頚椎を支点として完全に釣り合っている証左だった。
(……静定構造だ)
脳への酸素供給が絶たれ、視界が真っ赤なノイズに染まる中で、建築士としての恭平の理性だけが、その残酷な物理法則の美しさに陶酔していた。
彼が死ねば、この完璧な釣り合いは崩れる。筋肉の緊張が解け、肉体がただの死荷重と化した瞬間、ロープは緩み、ドアは異形を迎え入れるだろう。
だが、彼が生きている限り。この苦痛に満ちた「肉の楔」であり続ける限り。この部屋は、外敵を阻む完全な密室として機能し続ける。
十年前の男も、この瞬間の、この圧倒的な「正解」に、悦びを感じていたのだろうか。
目の前の、ドアの隙間からどろりと持ち上がった黒い深淵が、恭平の顔面を圧殺するように迫る。
鼻を突く、ヘドロと死臭が混ざり合った異臭。
五感のすべてが恐怖に塗りつぶされようとした、その時だった。
ミシッ、ミシシシシ……ッ!
恭平の背後。部屋の奥から、不穏な破壊音が響いた。
異形の圧力ではない。恭平自身の体重と、異形の力が生み出した、数百キロ、あるいはトンの単位に達しようとする張力が、ロープを通じて「支点」へと牙を剥いたのだ。
ドォォォォォンッ!!
爆発音と共に、床のコンクリートスラブが弾け飛んだ。
豪奢な姿見を固定していた四本のアンカーボルトが、周囲のコンクリート塊を撒き散らしながら、強烈な力で引き抜かれたのだ。
「が、はっ……!?」
支点を失った張力が、一瞬にして恭平の首を、前方――すなわち、開こうとしているドアの方角へと弾き飛ばした。
同時に、抵抗を失ったドアが、外側の質量に押されて勢いよく内側へ跳ね上がる。
恭平の身体は、首にロープを巻き付けたまま、突っ込んできたドアの表面に激突した。
そして、そのまま。
ドアの向こう側に渦巻いていた、あの黒い汚泥のような質量と共に、部屋の奥の暗闇へと、濁流に呑まれるようにして投げ出された。
(……奥の、空間……)
意識がブラックアウトする直前、恭平のライトが、一瞬だけ、こじ開けられたドアの向こう側を照らした。
そこは、廊下ではなかった。
図面には存在しない。十年前の男が、己の死をもって封印しようとした、水景館の「本当の最奥」。
そこには、無数の、泥に塗れた、人のかたちをした『何か』が、壁や天井を埋め尽くし、音もなく恭平を見下ろしていた。
ズルリ。
恭平の身体が、黒い泥の中に完全に沈み込む。
インカムから、遠野の、悲鳴のような声が聞こえた気がした。
ザザッ……ザザザザザ…………ッ。
ノイズが、世界のすべてを塗りつぶした。
◆
数ヶ月後。
東京・港区。ガラス張りの瀟洒な高層オフィスビルの一室。
冷房の効いた快適な会議室で、鳴海恭平は、数十人の投資家や役員を前に、プロジェクターのスクリーンを指し示していた。
「——以上が、旧・水景館、現・『レイクサイド・グランピング・リゾート水景』の現況調査報告、およびリノベーション計画の全容です」
恭平の語り口は、以前と変わらず、淡々と、論理的で、極めて事務的だった。
仕立ての良いスリーピースのスーツを着こなし、手元のアクリル製指示棒を鮮やかに操る姿は、都内の精鋭建築士そのものである。
「結論から申し上げますと、六〇六号室で起きた十年前の自殺事案による心理的瑕疵は、完全に払拭可能です。当該住戸は、躯体の一部に重大な構造的欠陥が見つかったため、隣接する住戸と共に一度解体し、基礎から再構築を行いました。これにより、物理的にも、法的にも、過去の因縁はリセットされています」
スクリーンには、かつてのカビ臭い廃墟の面影など微塵もない、モダンでスタイリッシュなリゾート施設の完成予想図が映し出されていた。
「素晴らしい。完璧なデューデリジェンスだ、鳴海君」
最前列に座っていた、このプロジェクトの出資者である初老の男が、満足げに深く頷いた。
「正直、あの曰く付きの物件をどう料理するかと思っていたが……。構造的欠陥として処理し、基礎から作り直すとは。建築士ならではの、実に見事な合理主義だ」
「恐縮です」
恭平は、丁寧に一礼した。嫌味のない、プロフェッショナルとしての完璧な所作だった。
「では、プロジェクトは承認ということで。……ああ、そうだ。鳴海君」
投資家の男が、ふと恭平の首元に目を留めた。
「その首……。少し、派手にやっちゃったようだね。ネクタイで隠れてはいるが」
恭平は、無意識に、ワイシャツの襟元に手をやった。
最高級のシルクのネクタイと、糊の効いた襟の隙間。
そこには、数ヶ月が経過した今もなお、皮膚の奥深くまで赤黒く変色した、一本の「深いロープの擦れ跡」が、まるで執拗な呪詛のように刻まれている。
「ええ……。現地の躯体調査中に、老朽化した配管が破裂しまして。少し、不覚を取りました」
恭平は、涼しい顔で、嘘を吐いた。
「痛みはありません。仕事には支障ございませんので、ご安心ください」
「そうか。プロ根性は買うが、体は大切にしなさい。……では、解散!」
投資家たちが、満足げに会議室を後にしていく。
拍手と、称賛の声。億単位の金が動く、成功の喧騒。
恭平は、誰もいなくなった会議室で、プロジェクターの電源を切った。
暗転したスクリーンの前で、彼は、一呼吸置き、持参したアタッシュケースから、一束の「紙の図面」を取り出した。
それは、先ほどプレゼンで発表した、承認済みの最終設計図ではない。
恭平が、個人的に、誰にも見せずに書き換えた、もう一つの「本当の設計図」だ。
恭平は、その図面を会議卓に広げ、LEDライトのペンで、最奥の一角を照らした。
レイクサイド・グランピング・リゾート水景。
その、最も奥深く。
かつて六〇六号室があった場所から、さらに奥、別館へと続くはずだった、あの「封印された空間」の真上。
新しい設計図の中央には、図面上ですら用途が書かれていない、奇妙な空間が設計されていた。
周囲を、一メートル以上の厚さを持つ分厚いコンクリート壁で囲み、遮音材と吸音材を、かつての六〇六号室とは「逆」の向きに施工する。中の音を、外へ絶対に漏らさない構造。
そして、その入り口には、スタジオ用の重厚なスチール製防音ドアを、通常とは逆の「外開き」で設置する。
もし、中の「何か」が、外へ出ようとドアを押し開けようとすれば。
テコの原理と張力によって、ドアノブに繋がれたロープが、部屋の中心にある「アンカー」を引き絞る。
完璧な、封印の構造。
恭平は、その図面をじっと見つめながら、首元の擦れ跡を、愛おしむように指でなぞった。
オカルトなんて信じていない。幽霊の類など存在しない。
だが。
あの廃墟の奥で恭平が見た、泥に塗れた人のかたちの『何か』。
そして、今も首に残る、あの圧倒的な『死荷重』の感触。
それらは、物理的な質量を持った「事実」として、この世界に存在している。
ならば、建築士としての恭平の仕事は、それを「無かったこと」にするのではない。
その質量を受け止め、正しく機能する「瑕疵のない空間」を設計することだ。
あの場所は、一度解体し、基礎から再構築した。
だが、基礎のさらに下。あの「蓋」の向こう側にいた『何か』は、今もそこにいる。
リゾート施設が完成し、人々が訪れれば、あの『重さ』は、必ずまた、外へ出ようとするだろう。
だからこそ、この「新しい六〇六号室」が必要なのだ。
恭平は、図面を丁寧に折り畳み、アタッシュケースにしまった。
彼の表情には、恐怖も、トラウマも、一切ない。あるのは、完璧な仕事を成し遂げたプロフェッショナルとしての、ドライで、冷徹な満足感だけだった。
コンコン、と。
会議室のドアが、ノックされた。
「鳴海先輩。人事部から、住み込みの施設管理人の応募者がいらっしゃいました。面談、こちらでよろしいですか?」
遠野美月の声が、インターホン越しに聞こえた。あの夜以来、彼女は恭平に対して、以前のような呑気な態度は取らなくなっていた。恭平の首の痕を、一度も直視しようとしない。
「ああ、通してくれ。ここでやる」
恭平は、椅子に深く腰掛け、ネクタイを少しだけ緩めた。
ドアが開き、遠野に促されて、一人の若者が入ってきた。
二十代半ば。少し古びたスーツを着ているが、身だしなみは整っている。人の良さそうな、少し頼りなげな笑顔。履歴書には「身寄りなし」の文字がある。
「は、初めまして! この度、施設管理人の職に応募いたしました、田中と言います。よろしくお願いいたします!」
若者は、恭平の前で、深々と、緊張した様子で頭を下げた。
恭平は、その若者を、値踏みするように頭から爪先まで見下ろした。
彼の視線は、若者の熱意や経験、人格などには、一切向いていない。
彼が、見ているのは。
この若者の肉体が、どの程度の『質量』を持ち、どの程度の『張力』に耐えうるか。
「新しい六〇六号室」という完璧なシステムを機能させるための、最後のパーツとして、どの程度の『性能』を持っているか。
ただ、それだけだった。
恭平は、十年前のあの男と同じ、そして、あの廃墟の最奥にいた異形たちと同じ、氷のように冷たい目を、若者に向けた。
そして。
ワイシャツの襟元から覗く、赤黒いロープの痕を隠そうともせず、恭平は、冷徹な事務的な口調で、こう尋ねた。
「一つだけ。採用の可否に関わる、非常に重要な確認をさせてください、田中さん」
恭平の問いかけに、若者は、緊張した面持ちで、固唾を呑んで次の言葉を待った。
会議室の冷房が、微かに、ズルリ、という、床を擦るような不快な音を立てた気がした。
「あなたの体重は……、正確に、何キロですか?」




