29話 「あなたは妖精じゃなかった」
真っ暗だった。つい先ほどまで、たくさんの誰かが泣いていたのが聞こえていたはずだが、いつから聞こえなくなったのかも分からない。
自分もその声と一緒に泣いていた。けれど、今は感覚の一切が失われている。寒くて、痛くて、苦しくて、何も見えなくて、何も分からなくて、どうしようもなく泣いていた。
でも、それでよかったのかもしれない。
ここには何もない。苦痛は少しもなく、少しだけ暖かい暗がりがある。体の感覚はないものの、恐らく脱力しているのだろう。このまま身を委ねていたかった。
「ーーーー」
どこからか声がする。それに耳を傾けようとすると、全身に鋭い痛みが走った。痛さに身を捩ることもままならない。その声を振り払おうとしても、段々と声は大きくなる。
怖い、苦しい、もう、解放されたい。
それが段々自分の感情なのか、それとも声のものなのかが分からなくなる。
「妖精も、人も、世界も、全て許せないの」
怨嗟の声は、その時赤子の体を飲み込んだ。
*
「アネット、起きてくれ」
誰かの声がした。何と言っているか分からない、でもロザリーを呼んでいることは分かった。
ひどい夢を見ていた気がして、ゆるゆると目を開く。視界は霞んでいて、何も見えない。
「ーーまだ生きていてくれ」
その言葉に、視界が開ける。薄紫の空と、こちらを覗き込む影が見えた。
げほっ、と息苦しさに咽せ、口から水を吐き出す。
「アネット!」
誰かに体を起こされ、背中を擦られた。それに誘われるようにして、何度も何度も咳と水がこぼれる。
「ロザリー、大丈夫か!?」
ウェルシュの声に、のろのろと顔を上げた。体のどこかしこも痛くて、たまらない。姿を探せば、足元に心配そうな顔でこちらの様子を窺うウェルシュの姿があった。よく見るとずぶ濡れで、毛がぺっしょりと張り付いている。
反対側には、エルヴィーラがロザリーの手を握っていた。無事に鳥かごからは出られたようで、ロザリーはよかったと安堵する。
なら、ロザリーを支えてくれているのは誰だろう。そう思って、顔を上げた。すると、かちりと海のような青い目と目が合う。その人もウェルシュのようにずぶ濡れで、ロザリーを見て少し眉を下げた。
「テオ、さん……? けほっ、どうしてここに……」
ロザリーが咳混じりに聞くと、テオは目を細めてまた背を擦ってくれる。
「あまり喋るな、話すのもつらいだろう」
その優しげな声色に、朦朧とした意識でも少し困惑してしまう。二の句を告げずにいると、ウェルシュが少し胸を張った。
「おれと、ちょっとだけこいつが手伝って、あの竜を倒したんだぞ」
「……もうそれでいい」
諦めたようにテオがウェルシュに返す。当然のように二人が話しているのも気になったが、ひとまずの疑問を口にする。
「竜……? 溺れそうになったのを、助けてくれたんですか?」
無言で返され、はっと思い出した。ロザリーがテオに言ったことが、頭の中に蘇る。
「アネット……?」
また視界がにじんでいった。気付くとロザリーの目から、涙があふれ出す。止めたいのに、見られてはいけないと思うのに、こらえることも顔を覆うこともできやしない。
それを見たテオは、狼狽したように身じろぎをした。
「お前、また泣かせたのか!」
ウェルシュが怒る声が響いて、テオにぶつかったのか少しロザリーにも衝撃が伝わる。
「僕は何も言ってない!」
ついには言い合いを始めそうな二人に、慌ててしゃくり上げる喉を押さえてロザリーは声を上げた。
「ごめんなさい、テオさん……!」
その言い合いがぱたりと止み、辺りはしんと静まり返る。震える手でロザリーは、テオの服の端を握りしめた。
「私、ひどいこと言いました、ホスキンズさんがテオさんの家のこと話してて、テオさんがどういう風に生きてきたのかも全部知らなかったのに、勝手なことばかりで」
一気にまくし立て、息が苦しくなる。それでも伝えなければと、必死に息を吸い込んだ。
だが、テオは恐る恐るといった手つきで、ロザリーの涙を拭う。
「……気にするな。あれは、僕も言い過ぎた」
「でも……」
ぐるぐると考えすぎて、頭が痛い。だが、謝らないといけないという感情だけが、ロザリーの意識を繋ぎ止めていた。
「あなたは妖精じゃなかった」
ぽつりと場に落ちたロザリーの言葉に、テオは目を見開く。その手が震えたのが、テオに支えられた手から分かった。なおもロザリーは続ける。
「私の目は、人に偽装した妖精も暴くって、ホスキンズさんが言ってました。でも、私の目に映るテオさんは、人間です。私と、皆と、何も変わらない」
テオの青い瞳を、ロザリーは真っ直ぐに見つめる。気圧されるようにテオが身を引こうとするが、ロザリーが服を握りしめているため叶わない。
「だからあなたのせいじゃないです、あなたは、テオさんは何も悪くない」
涙が再び溢れてくる。でも言いたいことは、言うことができたと安堵した。許してくれるかどうかは分からない、ただの自己満足でいい。固まってしまって動かないテオに身を預けたまま、ロザリーは重たい瞼を閉じた。
*
「ロザリー……? ロザリー!」
「……気を失っただけだ」
猫が目を閉じたロザリーを起こそうとするので、それを制止する。だらりとロザリーは気を失い、その体は弛緩していた。人一人分の重さがテオの腕にのしかかっていたが、なぜかロザリーを横たえる気にならない。
そのままテオが黙していると、背後からざくりと土を踏む音がした。咄嗟に魔力を練り上げながら振り向くと、そこには顔を隠したローブの魔法使いたちが立っている。いつの間に現れたのかと、テオは歯噛みした。
「お前たち、学院の人間じゃないな」
鋭い視線と共にテオが言うと、そのうちの長身が一人、前に一歩前に出る。
「魔力を収めてくれ。我々は蛇、ブランドンの回収に来た」
低い男の声だった。確かに敵意は感じられない上に、本当に蛇であるのなら例え妖精たちの力を用いても勝てるかどうかは分からない。
テオは渋々と魔力を霧散させ、話に上がったブランドンの方を見やる。
「そいつは学院が処分する。手を出すな」
すると、ふっと笑ったのか微かにローブが揺れた。それにテオは思わず顔をしかめると、男は話を続ける。
「学院には話を通してある」
男の淡々とした言葉に、テオは目を見開いた。それを気にもせず、男はロザリーの方へと視線を向ける。そうして少し静止した後、口を開いた。
「彼女が妖精の瞳かい?」
「どこまで知ってる!?」
テオの警戒が跳ね上がる。元々ブランドンは、塔の中でも独自の研究を個人で行っている魔法使いだった。だが、これが塔ぐるみの行動であるならば、看過してはおけない。
男は、テオの問いには答えなかった。いつの間にか、他のローブの魔法使いによってブランドンは抱え上げられている。何か拘束のような物を着けられているが、魔力を封じるための道具だろうとテオは当たりをつけた。
「塔の内々で事を収めるつもりか?」
テオが剣呑な声色で問いただす。が、男は首を横に振った。
「ブランドンは、塔の法を犯した。封印された魔道具を持ち出し、非人道的な実験も数多く行っている。我々は罪を軽くするために奴を引き取るのではないよ、その逆だと心得てくれ」
テオの態度に対し、男はあくまで穏やかな声色を崩さない。段々とテオにも焦燥が募る。
「……妖精の瞳のことを、塔に報告するつもりか」
塔、もしロザリーに今後も危害を加える可能性があるのか、目的すらも分からない。ぴりぴりとした緊張感が、テオの背に汗を伝わせた。
「当然だろう。しばらくは上層部のみで留め置くが、彼女は危険な存在だ。野放しにしておくのは無防備すぎる」
その言葉に、迷わずに違うと返すことはできなかった。大規模の魔法の行使、ブランドンを執拗に攻撃したことを見るに、ロザリーがやったと思っていいだろう。その上、ロザリーは自分が魔法を使ったことさえ認識していなかった。詳細はウンディーネを問い詰めるとしても、男の言うことは間違ってはいない。
「今回は彼女の力が暴走した、それは認める。だが、アネットが望んで周囲に危険を及ぼしたわけじゃない」
テオは内心、するりと自分の口からロザリーを庇う言葉が出たことに驚いた。だが、表情には出さず、その理由も今は頭の片隅に押しやっておく。
「我々が危険視しているのは、周囲への影響だけではない。ロザリー・アネット自身に及ぶ危険の話も加味しているんだ」
諭すような声で続けられるそれに、テオは押し黙った。
「妖精の瞳はその希少さ、特異さゆえ、仕組みも、機能も、何もかもが明かされていない。そちらこそゆめゆめ口外しないことだ。ブランドンのようなものはいくらでも現れる」
蛇のうちの一人が、詠唱を始める。転移のためのものだとすぐに分かった。
「王宮の鼠も、学院に潜り込んでいる。気を付けることだ」
転移の間際に放たれた言葉に、ぞわりと鳥肌が立つ。
「待て、それはどういうーー」
「では、妖精の瞳によろしく」
テオが声をかける間もなく、男は蛇たちと共に霧のように消えてしまった。後にはテオたちと、ばらばらの馬車が残される。
テオは、男の言ったことを反芻するように考え続けていた。




