捨てられた不幸の令嬢は、沈む船で第一王子に拾われ婚約者となる
「この船はもう間もなく沈没します!」
それを聞いても、レネアの胸には何の感慨も浮かばなかった。
煌びやかな大広間。
赤い絨毯が敷き詰められ、重厚な木製の柱が等間隔に並ぶ。壁には大きな鏡と油絵が掛けられ、天井からは幾つもの燭台が揺れていた。
数刻前までは舞踏会さながらの華やかさがあった空間。そこにいた人々の表情は今や一変し、恐怖に塗り潰されていた。
女たちは裾をたくし上げ、宝石を散らしながら出口へと走る。
男たちは椅子を押し倒し、テーブルを飛び越えて通路に殺到する。
ぶつかり合う肩。足元で砕けるグラス。倒れた給仕が踏みつけられ、悲鳴を上げても誰も振り返らない。
王侯貴族も、大商人も、顔を青ざめさせて群がっていた。
社交の場で朗らかに笑っていた姿は消え失せ、見苦しいほどに生き残りを求めて争っている。
「譲れ!」「押すな!」と怒号が飛び交い、泣き叫ぶ子どもの声がその隙間に混ざった。
床には葡萄酒の赤が広がり、絨毯を濡らしていた。香り立つ甘い匂いと、人々の汗と恐怖の臭気が入り混じる。燭台の炎が風に煽られ、影を大きく揺らす。
壁際にもたれかかり、その流れを眺めながらレネアは立っていた。
人の流れに逆らうように、ただひとり動かず。
無表情のまま、窓の外の闇を見つめている。
外は漆黒の海と夜空が溶け合い、時おり波が窓を打つ音が聞こえた。
喧噪のただ中で、彼女の周囲だけがぽっかりと取り残されたように静かだった。
白磁のように透きとおった肌。
長く伸びた黒髪は夜の海のように光を吸い込み、細い肩に流れ落ちている。
顔立ちは整っていて美しい。
だが、その美しさはどこか儚げだった。
頬の肉は薄く、鎖骨が浮き出し、手首は折れそうなほど細い。
ドレスの布地が余るほど痩せた体つきは、豪奢なホールの中でひどく場違いに映る。
船が……沈む。
レネアは頭の中でそう反芻してみたが、やはり何も感じるものはなかった。
もちろん意味を理解していないわけではない。
出航してから十時間。
すでに陸ははるか遠く、どこを見ても黒い海と夜空が続いている。
寄港地へ戻ることも、岸に向かって泳ぐこともできない。完全に沖合にいた。
つまり、この船が沈めば、誰ひとり助からない。
事実上の死刑宣告。
誰もがそれを理解しているからこそ、ホールは狂乱に包まれていた。
レネアは静かにその様子を眺めていた。
誰もが感情を隠そうともせず、右へ左へと駆け回り、怒鳴り、泣き叫んでいる。
命惜しさに体裁を捨て、互いを押しのけて出口へと群がる姿は滑稽でさえあった。
そんな混乱の中、ふと、ひとりの男に目が留まった。
彼だけは群衆に飲まれていない。
必死さを笑うわけでもなく、かといって同じように怯えるわけでもなく、冷めた眼差しでただ周囲を見回している。
鍛えられた体つき。背筋を伸ばした立ち姿。
着ているのは平服に近いが、纏う雰囲気は紛れもなく騎士のそれだった。
顔立ちは精悍で、気品があり、どこか場違いな落ち着きを漂わせている。
男も同じように思ったのか、レネアの方を見て視線が合う。慌てて目を逸らすが、男はレネアの方に近寄ってきて声をかけた。
「お前は何をしているんだ?」
低い声。問いかけは簡潔で、不躾だ。
「特に何も」
男に倣い、レネアも簡潔に、不躾に返す。
「逃げないのか?」
レネアは短く肯いた。
「ええ」
その返事を聞いた男の眉がわずかに寄った。
怪訝そうに目を細め、レネアをじっと見つめる。
「死にたいのか?」
「そうかもしれません」
そう答えても、レネアの表情が崩れることはなかった。少し尖った声色で、突き放すように男に向かって言う。
「真面目に答える気は無いようだな」
「別にふざけていませんけど」
「名はなんだ?」
「……レネア、です」
レネアは睨むように男を見た。組んだ腕に力が入り、押さえつけられた指先の下が白くなる。男と視線が交わると、彼女の方から問いを返した。
「……あなたこそ、逃げなくて良いんですか?」
「ああ。慌てて逃げなくたって、別に俺は死ぬことは無い」
「沖合に出た船が沈没するこの状況で?……ああ、あなたは加護持ちですか」
「よく知っているな。知る者は多くないはずだが」
「過信しない方がいいですよ。それ以上の加護の前では、役に立たなくなるかもしれません」
「ほう? 面白いことを言う」
男の口元がかすかに動いた。視線が鋭さを帯び、レネアを正面から射抜く。まるで戦場で好敵手と相対した時のような、楽しさと戦意が入り混じったような視線であった。
「お前にも加護があるということだな。なんの加護だ?」
「言う必要ありますか?」
短いやり取りの間にも、ホールの騒ぎは途切れず響いていた。レネアは視線を落とす。
「もうすぐ死ぬんだろう? なら言っても構わないじゃないか」
「死んでも言いたくないこともあるかもしれませんよ」
男はしばらく黙り込み、顔を軽く傾けた。
「そうか。なら無理には聞かない。代わりになぜここにいるのか答えろ」
「……別に、大した理由じゃありません」
「それでも良い」
下を向き視線を合わせないまま、しばらく黙っていたが、ひとつため息をついて、ポツリとこぼした。
「私が邪魔だから捨てられただけですよ。よくある話です」
「捨てられた?」
「……!」
レネアははっとして言葉を詰まらせる。唇を噛んで、すぐに視線を逸らした。
「口が滑りました。忘れてください」
男は目を細め、短く息を吐いた。顎に手を当てて考えるように沈黙する。
「やはり、沈没は仕組まれたものか」
「もういいでしょう!?ほっといてください!」
レネアが叫んだその瞬間、船が軋みをあげ、突如大きく揺れた。
ホールの壁に掛けられた鏡が鳴り、吊るされた燭台が大きく左右に振れる。椅子が倒れ、テーブルクロスがずれ、グラスや皿が床に散らばって砕ける。悲鳴が重なり、走り回る人々が次々とぶつかり合った。
だが――レネアと男の立つ周囲だけは違った。
床は揺れず、足元の赤い絨毯はしっかりと張りついたまま。彼女の髪も衣の裾も風一つ受けず、燭台の光も揺らがない。まるでそこだけが別の空間に切り取られたように、安定していた。
混乱の渦中にぽっかりと残された、奇妙な静けさ。明らかに自然な現象に基づくものではない。なんらかの力で物理法則を無理やり捻じ曲げられている。
レネアは息を呑み、男を見上げた。
「……それが、あなたの加護ですか」
「ああ、そうだ。お前、俺の国に来い」
「行きません」
「捨てられたのだろう? それなら来ない理由はないはずだ」
レネアは視線を逸らした。
「私はもう何も話しません」
「頑なだな。だが俺はお前に興味が出た。それに加護があるというのなら、これを見逃す手はない」
男は腕を組み、じっとレネアを見下ろす。
「勝負しないか?」
「勝負?」
「そうだ。お前が来ない理由を、俺が取り除いてやる。それができたら、お前は俺と一緒に来い」
レネアは眉一つ動かさずに返す。
「できるわけないじゃないですか。もう沈むまで時間もありません」
「出来たら来ると約束するか?」
「いいですよ。できるものなら、やってみてください」
レネアは軽く肩をすくめると、抱えた腕をさらに強く組み直し、視線を外へと逸らした。
それを聞いて、男は軽く笑って頷く。
「よし、成立だな」
踵を返して、レネアに背を向ける。
「どこへ行くんです?」
「気になることがあってな。少し調べにいくだけだ。もっとも、お前がすぐにでも一緒に来ると言うなら、そんな必要はなくなるが」
「行きません。勝手にしてください」
レネアはそう吐き捨てるように言うと、視線を落とした。
男は迷いなく歩み去り、人の波に紛れて姿を消した。
* * *
レネアと別れた後、男——レオンハルトは船長室に足を踏み入れた。
そこにはひとりの船乗りの格好をした男が青ざめた顔で椅子に腰を下ろしていた。
「ここで何をしている」
問いかけに、男はうつむいたまま肩を揺らす。
「見ればわかるだろう。神に祈っているのさ」
投げやりな声音だった。レオンハルトは一瞥し、さしたる興味もなさそうな声音で問いかける。
「神に祈る前に、やることがあるだろう。お前が船長か?」
男は弱々しく首を横に振った。
「船長は今、乗客の誘導のために走り回っている」
「じゃあお前は?」
「……ここの副船長だ」
「なら、聞きたいことがある。この船には何が起きたんだ」
副船長は深く息を吐き、言葉を絞り出した。
「氷山にぶつかったんだ」
先行していた船からは確かに氷山の存在を知らせる信号が送られていた。しかしその時、別の緊急信号が同時に入り、受信機はそちらを優先した。結果として肝心の警告は届かず、航路はそのまま維持された。
やがて衝突の三十分ほど前、海上に濃い霧が立ち込める。水平線は消え、白い帳に視界を奪われた。さらにその頃、機関室では火夫の交代が行われており、人員に隙が生まれていた。そこで起きたのが、バルブの調整ミスによる蒸気圧の低下だった。気圧が落ちたことで操舵の反応は鈍り、進路の修正が遅れる。
結果として、船は氷山を避け切れず、底部を擦るように衝突した。鈍い衝撃と共に鋼板が裂け、船底近くに長い傷口が開く。
当たりどころが悪かったため、そこから流れ込んだ海水は予想以上の勢いで、設計された水密扉をあっという間に越えた。仕切りは次々に無力化され、浸水区画は連鎖的に広がっていった。
副船長の話を聞いてレオンハルトは顎に手を当てて考えた。
この話が事実なら、氷山との衝突も霧も、蒸気圧の低下も、すべて偶然の積み重ねだ。狙って再現できるようなものではない。
どう考えても、ただの事故だ。
顎に手を当てたまま、副船長に疑問を投げかける。
「本来なら、こうした事態に備えて加護持ちを配置しておくはずだ。ましてや要人がこれだけ乗っている船だ。誰もいなかったのか?」
「本来は機密だが……もう今さら隠しても意味はないな。俺が加護持ちだ。静止の加護を持っている」
副船長は苦々しげに口を歪めた。
「海水の流入を止めることくらいはできる。多少の浸水なら抑え込めたはずだった。だが……間に合わなかった」
深く息を吐き、首をゆるゆると横に振る。両手で顔を覆い、絶望をしぼりだすように言う。
「すでに沈没の臨界点を超えていたんだ。流入を止めても時間稼ぎにしかならない。今はまだ浮力が残っているが、やがて不安定になり、船体に余計な負荷がかかる。そのとき破損が広がり、至るところから水が入り込む」
そこで言葉を切ると、重く深く息を吐いた。
「……そうなればもう、どうにもならない」
「そうか。わかった」
短い言葉を残し、レオンハルトは立ち上がった。副船長はそれ以上何も言わず、机の上で組んだ手を固く握りしめたまま、祈りとも呪いともつかぬ姿勢で動かない。
その姿を一瞥し、レオンハルトは扉へと歩みを進めた。
次にレオンハルトが足を向けたのは、船底近くの浸水区画だった。
通路のあちこちから海水が押し寄せ、すでに立ち入れない区画が次々と増えている。
一階はすでに完全に水没している。三階にはまだ水は届いていないが、階段を下りかけて二階を覗き込むと、そこはすでに海水に呑まれていた。
手を伸ばせば届くほどの位置に、暗い水面が波打っている。通路の奥はすでに水で塞がれ、揺れる光が壁や天井に不気味な模様を描き出していた。
「……ここか」
レオンハルトは立ち止まり、暗い海水のうねりを眺める。
流入の速さを測るように視線を巡らせ、静かに計算を下した。
「この調子なら、持って一時間ほどか」
副船長の言葉と照らし合わせれば、損害の規模に比べ浸水速度は明らかに遅い。
やはり、彼が言っていた通り、加護を使って必死に流入を抑えているのだろう。神に祈るなどと口にしていたが、実際にはそれなりに手を尽くしている。
レオンハルトは静かに目を閉じた。
加護を思い通りに扱うのは難しい。相応の訓練を積まなければ、自分の方が加護に振り回されてしまう。制御のできない力など、加護というより呪いに等しい。
種類や規模にもよるが、中には最後まで力を制御できずに終わってしまうものも多くいる。
加護とは、生まれや血筋に関わらず、一万人にひとりほどの割合で、どこからか突如として与えられる力だ。その人の周囲に、ひとつの現象をもたらす。訓練を重ねれば「無作為に起きる現象」を「意図して起こす力」に変えられるが、難易度は力の性質によって大きく異なる。
とりわけ強力な加護ほど制御が難しい。副船長も、その力をここまで扱えるようになるまでには、相当な鍛錬を積んできたに違いない。
レオンハルトは階段の縁に片膝をつき、手を水面へと伸ばした。指先が冷たい海水に触れる。
深く息を吸い、意識を集中させる。自らを包む加護の領域を押し広げ、船底のさらに奥まで覆うように拡大していく。
次の瞬間、現象が起こった。
水面がぐらりと揺れ、みるみるうちに水嵩が下がっていく。それに伴い船全体が軋み、大きく傾いた。急激な排水によって重心が崩れたのだ。
甲板の方からは、怒号と悲鳴がさらに強く響いてきた。
「.……このぐらいか」
二階から水が引き切ったのを確認し、レオンハルトは深く息を吐いた。
ひとまず時間は稼げたはずだ。
足元を濡らすこともなくなった通路を見回る。
漂うのは湿った空気と、木材に染み込んだ潮の匂いだけだ。水死体の姿は見当たらない。浸水が広がる前に、皆上の階へ逃げ切ったのだろう。
壁際に目を向けると、外板に大きな亀裂が走っていた。海に向かってぽっかりと開いた穴は、いまや窓のように波を映している。副船長の加護が効いている間は静止しているが、力が尽きれば、再び勢いよく水が流れ込んでくるに違いない。
裏は取れた。
副船長の言葉は概ね事実で、矛盾は見当たらない。 仕組まれた形跡もなく、すべては偶然の重なり。そうとしか思えない。
だが、それこそがおかしい。
あの女は「捨てられた」と言っていた。つまり、この場で死ぬ定めを背負わされているということだろう。ならば本来は、誰かが沈没を仕組んでいてしかるべきだ。
それなのに、調べれば調べるほど見えてくるのは、ただの事故の痕跡ばかり。細工も、策略も、一切ない。
にもかかわらず、船が沈むと最初から分かっていた者がいる。
そんな芸当が可能なのは一つしかない。
加護だ。
それも、偶然を必然に変え、この船丸ごとの運命を司る規模を持つ力。
「……あの女自身が、この事故を起こしたということか」
レオンハルトは面白くなってきたなと、笑った。
なぜレネアがあれほど頑ななのか、その理由は大体わかった。
レオンハルトは勝負事で負けたことがない。そもそも負ける勝負などするつもりはなかった。レネアを詰ませ、必ず母国へ持ち帰るつもりでいる。
勝負は良い。命を賭けた勝負なら尚更だ。あの女も命を賭けているのだから、自分も同じように賭けねば失礼だろう。
そう思い、レオンハルトはその場を後にした。
* * *
レネアは甲板の縁に立っていた。夜風が髪を揺らし、冷え切った海の匂いが鼻を刺す。周囲には誰の姿もない。
他の乗客たちは反対側で救命ボートを降ろそうと必死になっているのだろう。だが、レネアがここにいる以上、上手くいくわけがない。
悲鳴や怒号が途切れ途切れに届き、甲板の闇に反響している。
レネアは手すりに両手をかけ、ゆっくりと下を覗き込む。真っ黒な海がどこまでも続き、波がわずかな明かりを飲み込んでいた。肌を刺すほどの冷たさが、見下ろすだけで伝わってくる気がした。
覚悟は決めていたはずだった。だが、胸の奥でくすぶるかすかな感情に気がついた。
怖い。
死ぬのが、怖い。
そう感じた自分に、レネアは小さく驚いた。
長いあいだずっと一人だった。嫌われ、蔑まれ、疎まれ、そして今、ついには捨てられた。
怒りも恨みも憎しみも、とうの昔に枯れ果てている。何を思い返しても、感慨のひとかけらも湧かない。心の奥を探ってみても、何が残っているのかすら分からなかった。
心はもうとっくに死んでいる。
あとは肉体が死ぬだけだ。
一歩踏み出せば、冷たい海に身を投げ出して終わる。それだけのこと。そう頭では分かっているのに、その一歩を踏み出す足が、かすかに抵抗していた。
「それはルール違反だな」
後ろから、唐突に声がかかった。
「まだ勝負の決着がついていないだろう? まだお前の命のチップは卓の上のはずだ」
レネアは振り向く。見覚えのある顔。先ほどの男だ。
「また、あなたですか」
「どうしてもお前が欲しくなった」
「行かないと言ったはずですが」
「それは、お前が勝ったら――つまり俺がお前を説得できなかったら、だ」
レネアは首を横に振る。声は低く、揺るがない。
「無駄です。何があっても意思が変わることなどありえません」
男はじっと彼女を見つめた。問いかけるように言う。
「それは、お前がこの事故を引き起こしたから、だな?」
「だとしたら、なんですか? どうぞ、この場で処刑してください」
言葉に刃を込めるように言うレネアに、男は少し間を置いて答えた。
「そうだな。これがバレたらお前は処刑ものだろう。だから俺が匿ってやる」
「行かないって言ってるじゃないですか! 人を殺してまで生きようとは思いません!」
「やはりそれが理由か」
レオンハルトが短く言った。
レネアははっとして、口を閉ざした。
「ここには、俺の国にとって邪魔な奴らが集まっている。お前と俺だけで脱出しようと思っていたのだがな」
レオンハルトは目を閉じて頭の中で周囲を一瞥した。細い唇がわずかに緩む。
「まとめて始末するチャンスだったが、仕方あるまい」
視線を戻して、静かに続ける。
「殺してまで生きたくない、と言ったな。つまり人が死ななければ良いわけだな。いいだろう、全員助けてやる」
とても簡単なことのように言う。それを聞いてレネアは一瞬だけ嘲るように笑ったが、それはすぐに消え、元の諦観混じりの無表情に戻った。
レネアは顔を上げ、冷ややかに返す。
「できるわけないじゃないですか」
「なら、今ここに死者が一人でもいるのか? なぜ船はまだ沈んでない?」
「……」
レネアは何も言わずに、睨むようにレオンハルトを見る。
「お前の加護は、おおよそ見当がついている。これだけの偶然が重なることなどありえん。偶然を重ねる力。確率に干渉し、因果をねじ曲げる力」
レオンハルトの顔は変わらない。レネアは少しだけ顔を伏せ、奥歯を噛みしめる音が聞こえた。
「不幸、か。文献の中でしか見たことのない強力な加護だ」
「……死んでも言いたくないって言ったじゃないですか」
「安心しろ。お前は何も言っていない」
屁理屈を悪びれもなくいうレオンハルトを、レネアは目を細めながら見て、冷たい声音で返す。
「人のことを勝手に推測してズカズカ踏み込むなんて。デリカシーがないですね。そんな人のところに、行きたくありません」
「死にたがりのセリフには聞こえんな」
「死にたがりにも、尊厳はありますので」
しばらく黙って睨み合う二人。
レネアは唇をかすかに震わせながらも、視線を逸らさなかった。
「こんな素晴らしい力を使い捨ての爆弾扱いとはな。お前の家族は愚かとしか言えない」
「もうわかったでしょう? なんで船がまだ無事なのかわかりませんが、どこに行ったところでそこで不幸を撒き散らすだけです」
「俺が助けると言っただろう。何度も言わせるな」
それを聞いて、レネアは水が溢れたように感情を爆発させ、捲し立てる。
「できるわけないって何度も言ってるんですよ、わたしも! 不幸ですよ!? 不幸! 何があっても悪い方向に行くんです! 私がここにいる限り、この船が助かる道なんてありません! ここで死ぬのが誰にとっても一番良いんですよ!」
レネアはレオンハルトに向かって叫んだ。だが、実際に怒っていた対象は運命そのものに対してだった。長い間仕方がないことだと諦め、心を押し殺してきた。今更、それも死ぬ直前になってなんだというのか。人を弄ぶのも程がある。
「なんでそう言い切れるんだ? この船は俺の加護で沈没を防いでいる。お前の加護なんかに劣るものではないぞ」
「不幸に勝る力なんて、あるわけがない! 一体、なんだというのですか!」
レネアは声を震わせながらも、必死に睨み返した。
「疑うなら試してみるか。最後の勝負だ。どちらの力が強いか」
「……何をしようというのですか」
レオンハルトはレネアに近づき、通り越してヘリの側まで歩く。手すりを掴み、レネアを振り返って見ながら、なんでもないことのように言った。
「俺は今、ここから飛び降りる」
レネアの瞳が大きく見開かれ、息をのむ。
「……冗談はやめて下さい」
「ここから飛び込めば、スクリューが生む海流に引きずり込まれ、船体の下へ潜り込むことになる。呼吸はできず、冷たい海の中で体温は一瞬で奪われる。そうなれば、俺でも助からない。そのままスクリューに巻き込まれ、バラバラになるかもしれん」
レオンハルトの視線は真っ直ぐで、声色ひとつ変わらない。
「お前の力が本物なら、俺はそうなるはずだ」
「何を言っているんですか!」
レネアの声が裏返る。
「俺が死ねばお前の勝ち、死ななければ俺の勝ちだ。いくぞ。」
「だ、だめ!」
伸ばしたレネアの手が空を切る。
レオンハルトは甲板の手すりに片手をかけ、そのまま身を乗り出すと、迷いなく後ろへと倒れ落ちた。
レネアは思わず悲鳴を上げ、考えるより先に手すりを乗り越えて、後を追うように飛び込んだ。
視界がぐるりと反転し、甲板の灯りが遠ざかっていく。
風が頬を叩き、胃が浮き上がるような感覚が全身を支配する。海へ落ちる――そう覚悟して、レネアはぎゅっと目を閉じた。
だが、次に訪れたのは冷たい衝撃ではなかった。
「どんっ」という鈍い音とともに、弾むような柔らかい感触が全身を受け止める。衝撃は思ったほど強くなく、ただ身体が跳ね返されるように揺れる。
「……え?」
恐る恐る瞼を開くと、そこは救命用のゴムボートの中だった。黒い縁が月明かりを受けて光り、波に揺られて軋む音が耳に届く。
その正面には、先に飛び込んだはずのレオンハルトがいた。落ち着き払った様子で座り、レネアを見下ろしている。
「俺の勝ちだな」
短く告げられた言葉に、まだ現実を受け止められないレネアはただ呆然とした。
「ボート……?」
レネアはかすれた声で呟く。
「ああ。幸運にも、ちょうど飛び込んだ先に流れてきたようだ」
レオンハルトは淡々と答える。
「ここにボートがあるって、わかってたんですか……?」
「そんなわけないだろう」
レオンハルトは肩をすくめた。
「仮にそうだとしても、お前の“不幸”の中じゃ、こんな偶然に飛び乗れるはずがない」
「……なんで」
「俺の加護で、お前の不幸を“反転”させた。それだけだ」
「……反転?」
「ああ。幸運にも死者は出ていないし、大事故なのに船も沈没していない。俺は敵対派閥に恩を売れるし、何よりお前が手に入る。良いことずくめだな」
重力を反転させて、船を浮遊させ、海水の流入を反転させて排出した。ここで起きたマイナスはレオンハルトによって全て裏返されている。
「そんな……ことが……」
「だから言っただろう。お前程度で、俺の加護を超えられると思うな、と」
レネアは言葉を失い、ただ呆然とレオンハルトを見つめていた。
「さて、これでもう来ない理由はないな?」
レオンハルトが静かに問いかける。
「まだ……あります」
「なんだ?」
レネアは小さく息を吸い、心を決めたように背筋を伸ばして顎を引く。そしてレオンハルトから視線を逸らさぬまま告げた。
「……私が、必要だと言ってください」
レオンハルトの口元に微かな笑みが浮かぶ。
「お前が必要だ。――俺のものになれ」
レネアは胸の奥で何かがほどけるのを感じ、涙を一筋こぼしながら小さく頷いた。
程なくして、先行船が異常に気づき、濃い霧の中を奇跡的に引き返してきた。
救命ボートが流されてしまったため、乗客は幸運にも全員本船に残っており、一人残らず回収される。
ただ、乗客名簿と照らし合わせると、レネアの身柄だけが確認されなかった。彼女は行方不明のまま死亡扱いとなり、レオンハルトは元々調査のために無断乗船していたため、記録には残っていない。
「……その方が都合が良いだろう」
「ええ。家族には、生きていることを知られたくありません」
レネアはボートに揺られながら静かに答える。
「そういえば、あなたの名前をまだ聞いていませんでした」
「ようやく俺に関心が向いたか」
レオンハルトは淡く笑い、背筋を伸ばす。
「俺はグランディア国第一王子、レオンハルトだ」
「お、王族だったんですか! これは大変失礼を……」
「今さらそんな態度はいらぬ。そもそもお前も王族になるのだ」
「どういうことですか?」
「決まっているだろう。俺の婚約者になるんだ」
「こ、婚約者!?」
「何を驚いている。俺のものになれと言っただろう。勝負はお前の負けだ。今さら反故にする気か?」
「い、いえ……国に行くことは了承しましたけど、婚約者だなんて聞いていません!」
「嫌なのか?」
「い、嫌ってわけじゃ、ありませんけど……」
「なら問題ないな」
レオンハルトは揺れるボートの中で、当然のようにそう言った。
強引で、理不尽で、勝手すぎる言葉。けれど、レネアには不思議とそれが嬉しかった。
不要とされた命。存在そのものが“不幸”と呼ばれた自分。
それでも必要だと言ってくれる人がいる。そんなことだけで、今までの苦しみが消えるわけではないし、簡単に割り切れる話でもない。
「婚約者……か」
考えたこともなかった。そもそも他人と深く関わることなど自分の人生であると思ってはいなかった。レネアは生まれて初めて、自分の未来に想いを馳せる。
幸福を感じた経験など今までない。ないのだから上手く行く想像なんて浮かんでくるはずもない。
だけど、それでも。ほんの少しだけ、前を向いてみよう。レネアは揺れる海を見つめながら、静かにそう思った。
お読みいただきありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると励みになります。