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殴られる幸福  作者: 夜白ゆき
第一章 音のない世界
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中編 触れられた

 二学期末、冬の陽が、静かに傾いていた。

 放課後の校舎の屋上は、金網越しに茜色の空を映している。風が吹き抜けるたび、金属フェンスがカタンと鳴って、まるで誰かの咳のようだった。コンクリートの床には誰のものでもない足跡が点々と残り、それが風に消されていくのを、千尋はじっと見つめていた。

 彼の影も、長く伸びていた。制服の袖を外し、カーディガンだけで寒さを受け止める。吐いた息が白くなって、それを指でつかもうとして、手が空を切った。金網の外には、街がある。人々が住む、たくさんの部屋の灯り。けれどそのどれにも、千尋の居場所はない。

 背中を壁に預けてしゃがみ込むと、誰かの残したチョークの落書きが、足元にぼんやり浮かんでいた。かすれた絵文字の顔。その横に、小さな黒い羽虫が一匹、ふらふらと飛んでいる。その羽音は、耳をすませなければ聞こえないほどに小さく、弱く、震えていた。風に流されるでもなく、逃げるでもなく、ただその場を漂うようにして、何かを探すように揺れていた。

「……なんだよ、おまえ」

 千尋はポツリと呟いた。虫は返事をしない。ただ飛んでいた。重力の下で、必死に羽ばたいて。

 目を逸らすように千尋は空を仰いだ。まぶしいほどに澄んだオレンジ色の雲が、グラデーションになって広がっている。美しいと思った。こんなにも美しいのに、自分の胸の中には、何ひとつ灯らない。

 ――いっそ、このまま。そう思った瞬間、風が制服の裾を巻き上げた。屋上の端まで、ほんの数歩。誰にも気づかれない高さ。転落、事故、あるいは自殺。新聞記事にさえ載らない可能性などが頭を駆け巡る。

 ――やろうと思えば、できる。でも千尋は、足を動かさなかった。

「……死にたいわけじゃ、ないんだよな」

 風に向かって呟くと、自分の声が、風の中でかき消された。あの羽虫が、ふらふらと目の前を横切って、どこかへ飛んでいった。

 ここは“音のない世界”だ。誰も声をかけない。誰も手を伸ばさない。たとえ風が吹いても、それはただ通り過ぎるだけのもので、何も運んではこない。でも、だからこそ。ほんの少しの痛みでも、何かを感じさせてくれる気がする。そんなふうに思ってしまう自分が、怖くなかった。

 千尋はゆっくりと立ち上がった。ポケットに入っていた消しゴムを取り出し、コンクリートの床に落とす。跳ねた音が、耳の奥で静かに響いた。――それでも、まだ、生きている。音のしない世界の中で、唯一、自分だけが聞こえた音だった。

 四階建ての中学校、その最上階。放課後の施錠前のわずかな時間。ここに来る生徒は少ない。誰も彼も、友達とコンビニへ寄ったり、スマホ片手に喋ったり、あるいは部活に行ったり。千尋には、そういう“誰かと過ごす放課後”はなかった。なかったというより、思い出せない。小学の頃から、薄く削られるように、それらは手元から消えていった。

「……なんか、飛べたらいいのに」

 独り言が、風に溶けていく。千尋の目は、ゆっくりと下を向いた。校庭、職員室、駐輪場。どれも音のない風景。笑い声は届かない。耳が聴こえないのではない。ただ、“音”が、届かない。数日前、机の上に描かれた「死ね」の文字。消そうとして、爪で掻いて、逆に引っ掻き傷だけが残った。誰が書いたかもわからない。教師も気づかない。誰もが知らないふり。千尋自身も、声を出さないふり。存在しないふり。

「案外、飛べるかも……」

 ぽつりと呟いた言葉が、自分の中に落ちていく。でも、すぐに思考は止まった。……いや、ちがう。と、心がブレーキをかけた。落ちたいわけじゃない。終わらせたいわけでもない。ただ、“このまま透明でいるのが、もうしんどい”だけだった。誰かにぶつかりたい。誰かと、なにかを交わしたい。でも、自分から声をかける勇気もなければ、誰も気づいてくれない。

 風が、髪を揺らす。フェンスの外の空が、今日だけ少しきれいだった。この世にたった一人しかいないような感覚――それは恐怖でもあり、どこか詩のようでもあった。


            *

 

 中学一年生も終わり頃、それまでと変わらない日常。放課後のチャイムが鳴って、校門とは反対の方向へ歩き出した。クラスメイトたちは駅へ、部活生たちはグラウンドへ――千尋だけが、静かに裏道を選んだ。理由は、ひとつだけだった。

 ――帰りたくなかった。家に戻れば、声のないテレビと、食べかけの惣菜パックが並んだ食卓が待っているだけだ。誰もとがめはしない。けれど、誰も喜びもしない。「おかえり」と言われることのない玄関は、千尋にとっては冷蔵庫よりも冷たい場所だった。だから、意味もなく寄り道をする癖がついていた。

 その日は、体育館の裏手に足が向いていた。人通りの少ない通路。ブロック塀と体育倉庫に挟まれた狭い抜け道。夕陽がコンクリートを赤く染め、影がじわりと長く伸びている。――その時だった。

「っ……!」

 肩が、激しくぶつかった。

 視線を上げると、目の前に“壁”のような上半身があった。知らない顔。見上げるほどの身長。顔つきも体格も、どう見ても同学年じゃない。制服のネクタイの色が、二年生以上のものだったことで、それが上級生だと気づいた。

「……どこ見て歩いてんだよ」

 その声に、体が凍る。

 笑っていない目。唇だけが歪んで動いている、表情の形だけを真似た“笑み”。

「おい、“ゴミ”みたいなチビが動いたぞ」

 不意に、背中を押された。ほんのわずか、指先が肩甲骨の上をかすめた――それだけのはずなのに、身体が前に押し出された。世界がぐらついた。足がもつれ、視界が斜めに傾いた。

 ――え……? 思考が追いつく前に、膝がアスファルトにぶつかり、そのまま両手が地面を受け止めた。ざらついた地面の感触が、手のひらを裂いた。乾いた音。細かい砂利が皮膚にめり込み、熱を帯びたようにジン、とうずく。反射的に手を引き寄せると、皮膚の間からじんわりと血がにじんでいた。けれど――痛みは、すぐには来なかった。その代わり、胸の奥で“何か”が確かに震えた。

 ……今、俺……押された? この一年間、誰にも触れられることがなかった。呼ばれることも、見られることも、叩かれることもなかった。“透明な存在”として生きていた千尋にとって、それはあまりにも異質で、衝撃的だった。

 誰かの手が、自分に触れた。その手が、自分を傷つけた。

 ――俺、“ここ”にいたんだ。その事実が、痛みよりも先に、胸を貫いた。焼けるような手のひらの痛みすら、証明のように思えた。目をそらされるより、よほど“人間”らしいとさえ思った。にじんだ痛みに、指先が震える。そして、笑い声が落ちてきた。

 肩を掴まれた瞬間、世界が止まったような気がした。骨が軋むほどに指が食い込む。制服の布越しでも、手のひらの熱が伝わってくるほどだった。ぐいと持ち上げられ、小さく地面を離れた足が宙を泳ぐ。視線が宙ぶらりんになった次の瞬間――

「ッ……!」

 背中に衝撃が走った。

 ドスッ。

 肉が凹む音。皮膚の下で筋肉が暴れ、肺の奥から空気が一気に押し出された。息が、できない。喉が鳴った。目の前が反転する。地面が傾いたように、景色が一気に下へ落ちていく。膝を砕いた。手のひらがまたアスファルトに擦れる。痛みがじわじわと、遅れてやってくる。でも――

 ――あ、……。その一撃の衝撃が、皮膚の奥、骨の芯を揺らした時。なぜか、胸の奥がふっとあたたかくなった。痛かった。怖かった。でもそれ以上に、「ここにいる」という感覚が、身体中を駆けめぐっていた。顔が歪む。涙が出そうになる。でも泣きたいわけじゃなかった。ただ――今、自分は確かに「この世界に触れている」。痛みなのに、なぜかあたたかい。蹴られて、転がって、呼吸が浅くなっているのに――肺が焼ける。喉がヒュッと鳴る。空気を取り込もうとしても、胸がうまく動いてくれない。それでも、体のどこかが震えていた。痛みのせいじゃない。寒さのせいでもない。

 ――誰かに触れられた。そのことが、あまりにも衝撃だった。殴られた。吐き気が込み上げる。けれど、嫌じゃなかった。蹴られた。骨の奥が熱をもつ。けれど、ドキドキしていた。突き飛ばされた。視界がかすむ。けれど、その痛みは“透明じゃない自分”を肯定してくれているようで、幸福だった。暴力のはずなのに――それは、“反応”だった。存在してなかったはずの自分に、誰かが触れた。目の前の“他人”が、自分を認識して、拒絶して、突き飛ばしてきた。

 ……俺、今……ここにいるんだ。呼吸はまだ乱れていた。でも、心はそれ以上にざわめいていた。まるで初めて心臓の鼓動を意識した時のように、「生きている」という熱が、静かに、でも確かに胸の奥で暴れていた。

「なに、こっち見てんだよ。マジで気持ち悪いんだよ」

 上から落ちてきたその声が、頭の中で反響する。次の瞬間、もう一発――鋭い膝が、腹部のど真ん中に突き刺さった。

 ――ッぐぅ……。空気を吸う前に、肺から息が全部押し出された。胃が捻じられるようにひっくり返り、喉の奥に熱いものがこみ上げてくる。思わず口を開けるが、吐くことも、声を出すこともできない。視界がぐにゃりと歪んだ。音が遠のいていく。世界の重力が、急に足元だけに集中したみたいだった。足が痙攣し、膝が崩れる。立っていられない。膝から落ちたコンクリートの冷たさが、皮膚よりも内臓に響く。

 ……重たい。自分の身体が、重たい。脳が、ふわふわと宙に浮いていくような感覚。でもそのくせ、胃のあたりは地面に押し潰されているように痛い。涙は出ない。でも、身体のどこかが確かに叫んでいた。“世界のどこかに、自分の存在が刻まれている”。そんな錯覚に近い感覚。殴られている最中、千尋の心は、逆に“静かだった”。否定も、恐怖も、恨みもなかった。ただ、――ああ、ようやく“触れられた”。という、奇妙な実感だけ。

 倒れたままの千尋を見下ろし、何人かの足音が遠ざかっていった。笑い声が混じっていた気がするけれど、耳には届かない。

 地面に頬をつけたまま、千尋は目を閉じた。まるで、それが“布団”でもあるかのように。


 夕陽が沈んで、通学路は藍色に染まりはじめていた。膝は破けて血が滲み、シャツの裾には土がついている。でも、千尋の顔には、なぜか微かな安堵のようなものが浮かんでいた。――おかしいな……なにこれ……。自分でもわからない。ただ、さっきの“熱”が、まだ体のどこかに残っていた。

 目の端で、空き地に何かが動いた。――猫だった。細身の野良猫が、足元の石にすり寄って、毛づくろいをしている。毛並みは悪くない。耳が少し欠けていて、尻尾は曲がっていた。

 千尋は立ち止まり、しゃがみこんだ。破けたズボンにさらに土がつく。猫と目が合った。数秒の沈黙のあと、千尋は、口元だけで「にゃー」とつぶやいた。音は出さない。ただ、形だけ。

 猫はしばらく見つめた後、面倒くさそうに視線を逸らして、向こう側へ歩き去っていった。

「……それでいいよ」

 独り言のように、千尋は笑った。ほんの少しだけ、世界が柔らかくなったような気がした。


 家に帰ってきても、電気は点いていなかった。鍵は開いていた。靴もある。

 母はいるはず――でも、気配がない。奥の風呂場で、ドアが半開きになっている。覗き込むと、母が服を着たまま床に横になっていた。目は閉じていて、薄くうなっている。

 千尋は何も言わず、風呂の電気を消してドアを閉めた。“これがいつものこと”なのが、もう異常とも思えなくなっていた。台所に行くと、ラップをかけられた冷えたごはんと、明らかに放置された味噌汁が置かれていた。火も通っていないような、ただの“形”だけの夕食。

 椅子に座ると、体が重力に負けたように沈む。それでも、なんとなく習慣で、冷たいご飯を口に運んだ。味はしない。でも、腹は空いていた。テレビの音もない。外の車の音だけが、微かに響いていた。食べ終えて、洗い物もせず、洗面台の前に立った。

 鏡の中に映る、自分。傷だらけの顔。乾いた血。埃と汗。どこかで転んだような小学生に見えるかもしれない。でも、これは全部“現実”。千尋は鏡に向かって、小さく言った。

「……おかえり」

 返事はない。当たり前だ。でも、それでも何かを確認したくなったのだろう。鏡の中の自分に、誰かの代わりをさせたかったのかもしれない。少しだけ目を細めて、笑うように言った。

「……やっぱ、気持ち悪いな」

 そのまま、歯も磨かずに布団に潜った。目を閉じても、頭の奥で“あの一発目”が繰り返されていた。殴られた瞬間、心が震えた。それが、良いことなのか悪いことなのか、まだわからない。でも、少なくともあの瞬間、自分は確かに“生きていた”。あの痛みが、体の奥でじんじんと“灯り”のように残っていた。

 誰にも見えない小さな火。それが、まだ生きている証だった。



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