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殴られる幸福  作者: 夜白ゆき
第一章 音のない世界
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前編 透明な僕

 水瀬千尋/十二歳/中学一年生

 冷蔵庫のモーター音が、部屋の呼吸みたいに一定のリズムで響いていた。耳が慣れてしまえば気にならない音なのかもしれないが、水瀬千尋の耳には、まるで鼓膜にこびりつくようにざらついて聞こえてくる。テレビはついていた。音量はゼロ。画面の中ではお笑い芸人が何かを叫び、スタジオの観客が口を開けて笑っている。だがその笑い声は、千尋の世界には届かない。母はそのテレビの前に、ずっと同じ姿勢で座っている。薄手のカーディガンを羽織った背中は、今日もゆっくりと上下しているだけで、千尋に目を向けることはなかった。

「……今日、晩ご飯、いる?」

 返事はない。かすかな咳払いが聞こえただけだった。いつものことだ、と千尋は思う。声をかけるタイミングも、口調も、何もかも自分なりに考えているつもりだったが、母から返ってくるのは、ほとんどいつも“沈黙”だった。

 台所には鍋がひとつ、蓋をしたまま置かれていた。中身は冷え切った味噌汁。表面にはうっすらと油の膜が浮いている。ガス台の火は点けられた気配すらない。冷蔵庫を開けてみる。買い置きのヨーグルトと、ペットボトルの水が数本。コンビニのおにぎりがひとつと、賞味期限の切れた卵。千尋は、扉をそっと閉めた。

「……なんか、匂いな」

 呟いた声も、すぐに壁に吸い込まれて消えた。味噌汁の匂いもしない。焼き魚の香りもしない。料理をする人間がいなければ、家庭の匂いなんてものは、こんなにも無臭になるのかと、千尋は思った。

 いつから、こうなったんだっけ。いや、正確には――いつからこうじゃなかったのかを思い出せない。父親が家を出て行ったのは、小学三年の春だった。その前も、まともな家だった記憶はない。壁越しに怒鳴り声が響き、夜中にガラスが割れる音で目を覚ますこともあった。皿の飛ぶ音。母の叫び声。父の低い怒号どごう。あの頃の千尋は、その音たちを“家庭の音”として記憶していた。

 でも、父がいなくなったあと――残されたのは、無音だった。音がしないことが、こんなにも残酷で、冷たくて、重いことだとは、子供の頃には知らなかった。冷たいだけの空気が、胸の奥までじわじわと凍らせてくる。

 かつて母は、「千尋、何ボーッとしてんの」と言って、笑顔でよく頭を軽く叩いてきた。千尋はそれが嫌いじゃなかった。“存在を認識される”ということが、どんなに貴重で、嬉しいことなのか、その頃はまだ分かっていなかったのだ。

 今はもう、頭を叩かれることもない。名前を呼ばれることすら、ない。自分という存在が、この家の中で、壁や家具や冷蔵庫と同じレベルになっている――そんな感覚が、日に日にリアルになっていく。

 

 時計の針は十九時を過ぎていた。どの家庭でも、夕飯の支度が終わり、団らんの時間が始まる頃合いだ。でもこの家には、食器の音も、箸の動く気配もない。千尋は台所の椅子に腰をかけ、さっき閉めたばかりの冷蔵庫の方向を、ぼんやりと見つめた。

 ふと、視線の先にある自分の手が、ひどく細く、冷たく見えた。骨ばっていて、少し震えている。まるで他人の手みたいだな、と思った。自分の身体なのに、まるで“借り物”みたいだった。この世界で、どこに自分がいるのかもわからない。

「……ごちそうさま」

 食べていない食事に、千尋は静かに言った。それは誰に向けた言葉でもなく、ただ、自分の存在を確かめるための呟きだった。でも、やっぱり返事はなかった。壁の向こうの隣人が咳き込む音だけが、小さく部屋に響いていた。これが、「家庭」ってやつの、正体だった。少なくとも水瀬千尋にとっては――そうだった。

 

            *


 朝。曇り空の中に、薄く太陽が浮かんでいた。晴れてるとも言えず、かといって雨でもない。中途半端な光が町を照らすその風景は、千尋の内面そのもののようだった。

 登校路の歩道を、千尋は無言で歩く。肩にぶら下げた鞄は、中身がほとんど入っていないせいで、やけに軽い。教科書もノートも、ロッカーに放置している。学校に行くこと自体が“惰性”のようなものだった。それでも家にいるよりはマシ――そう思える程度には、学校という場所にも期待を捨てていなかった。

 ふと、足元を猫が横切った。痩せていて、毛並みも悪く、でもその歩き方だけはやたらと堂々としていた。千尋は思わず目で追ってしまう。

「……つよそうだな、おまえ」

 ぼそりとつぶやいたその声は、風に溶けて消えた。住宅街を抜け、校門の見えるあたりまで来たときだった。

 前を歩いていたひとりの女子生徒が、ふいに振り返った。

「あっ……おはよう、水瀬くん」

 その声は、やけに明るく響いた。

 ――一瞬、耳を疑った。名前を呼ばれた? 千尋は立ち止まり、彼女を見た。長い髪を結んだ、どこにでもいるような女の子。クラスの誰かだとはわかるが、名前までは思い出せない。――それでも、彼女の笑顔はまっすぐだった。

 千尋は、ごくわずかに会釈を返した。声は出なかった。けれど、その目の奥には、ほんの少しだけ、揺れがあった。

「……」

 彼女はそのまま、また前を向いて歩き出した。千尋は、ポケットの中で自分の指をつねった。痛みが、ちゃんと“現実”であることを教えてくれた。校門をくぐりながら、千尋は思った。

 ――今のが、日常? 誰かが名前を呼び、挨拶をして、笑う。たった今の出来事が、現実だとは思えなかった。まるで、映画の中のワンシーンみたいにきらきらしていて――それが、自分に向けられたものだということが信じられなかった。

 誰かが自分の名前を呼ぶ。笑って挨拶をしてくれる。その光景は、ずっと夢の中やテレビの中にしか存在しないものだと思っていた。――こんなにも、眩しいものだったのか。

 笑われることには慣れていた。だが、“笑ってくれる”ことは、まるで異質だった。心臓の奥が、きゅう、と音を立てた気がした。何かが、長い間閉じ込められていた箱を、内側からノックしている。気のせいだ、と千尋は首を振った。そんな温かさに期待するほど、愚かじゃない。

 でも――もし、今日が「少しだけ違う日」だったとしたら。それを知るには、あと数時間、この地獄のような教室を、いつものように、何事もなかった顔で過ごさなければならなかった。


 靴箱の前で、足が止まった。中に入っていたはずの上履きが、なかった。代わりに、くしゃくしゃになった雑巾が押し込まれていた。濡れて、重くなって、雑菌の匂いが鼻を突く。千尋は無言で雑巾を取り出し、そっと廊下の隅に置いた。そして、靴下のまま教室へ向かう。それが彼の“日常”だった。

 ガラガラ、と引き戸を開けた瞬間、空気がひんやりと変わる。朝の教室はざわついている。誰かが笑っている。誰かがゲームの話をしている。

 そのすべてが、千尋には関係のない世界だった。誰も、彼に気づかない。それどころか、彼の存在は空気よりも希薄だった。自分の席に向かいながら、千尋は視線を下ろす。机の上に、マジックペンで書かれた大きな文字。〈死ね〉その下に、小さな文字でいくつも連なっていた。〈ごみ〉〈バイ菌〉〈キモ〉〈消えろ〉乾いたマジックのインクが、天井の蛍光灯に照らされて、鈍く光っていた。インクの“跡”が新しいことが、まだ誰かが見ていたことを示していた。

「……うまく書いたな」

 千尋はぽつりと呟いた。誰かへの言葉ではない。この机と、この教室と、この世界への、淡々とした皮肉だった。座る前に、ポケットからティッシュを取り出す。指にインクがつくのも気にせず、何度も何度も拭く。けれど、文字は消えなかった。教室の壁に掛けられた時計の秒針が、無慈悲な音を刻んでいる。

 先生が入ってきて、点呼が始まった。名前が呼ばれていく。「田村……石川……三好……」……沈黙。――ほんの少しの間が空いたあと、担任は次の名前を読み上げた。「……瀬川」千尋の名前は、飛ばされた。いや、飛ばされたわけじゃない。ただ、“存在そのものが視界に入っていなかった”。教室の中にいても、自分の名前は、音にならない。先生の記憶にも、クラスメイトの認識にも、“水瀬千尋”という存在は薄れていた。

 ――千尋は、ただ静かに息を吸って、吐いた。そして、机に視線を戻す。さっきの「死ね」の文字が、蛍光灯の光ににじんでいた。涙ではない。それは、自分でもよくわからない何かだった。――ここにいても、いなくても、同じなんじゃないか。そんな考えが、まるで朝の雲のように、薄く、重く、頭上に広がっていく。けれど、千尋は机に座った。あくまで“当たり前”のように。

 ――名前を呼ばれなくても、机に書かれるだけマシか……。呼ばれないくらいなら、まだ“見えてる”方がマシ――そんな皮肉が浮かんだ。そう思った瞬間、自分の中で何かが小さく笑った。壊れたみたいな笑い方だった。そのとき、背後で誰かがくすくすと笑ったのを、確かに聞いた。笑い声が、自分を笑っているのかどうかなんて、もうわからない。けれど――わからないことが、今は一番の救いだった。

 

 給食の時間。給食当番が「いただきます」と言う声が、どこか上ずっていた。生徒たちは食器の音を立て、牛乳パックを開け、プリンのアルミを剥がす。教室の空気はざらついていて、けれど、その中には確かに“日常”の匂いがあった。千尋は、自分の配膳されたトレイを見つめていた。パン。ポトフ。ひじきの煮物。牛乳。そして――小さなプリン。

「……プリン、か」

 呟きながらスプーンを手に取ったが、すぐに動きが止まる。テーブルの上で、手だけが浮いたまま。“食べたい”という気持ちはある。けれど、“食べていい”という気持ちは、なかなか湧いてこない。……そんなふうに迷っていた、その瞬間だった。

「ちょーだい」

 隣の席の男子が、千尋の手元からプリンをひょいと取った。悪びれた様子もなく、アルミの蓋を剥がして、そのまま口にダイブ。

「うめぇ~、これ」

 そう言いながら、空になったプリンの容器を逆さまの状態で振って、名残惜しそうにしてる。

 千尋は、驚かなかった。怒りもなかった。ただ、その様子をぼんやりと眺めていた。

 ――ああ、プリンって、人気なんだな。

 なんでもないその発見に、なぜか、ほおがふわっと緩んだ。思わず口の端が上がったことに、自分でも気づく。笑ったなんて、いつ以来だろう。ほんの一瞬、自分の中で、何かが微かに溶けた気がした。

 その日、千尋はパンだけをかじって、牛乳を半分残して、静かに給食を終えた。プリンはなかった。けれど、それが妙に“満たされた”気分にさせた。心が“食べられた”みたいだった。それだけで、今日はもういい。

 ほんの一滴の甘さが、この乾いた日常を、ほんの少しだけ潤してくれた気がした。それは、確かに救いだった。

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