帰りたい
山上ヶ岳のお花畑は、雪の中に沈んでいるとはいえ道と畑の区別は出来ました。畑には笹の葉が茂っており、被さっている雪の上に葉の先っぽが所々飛び出しています。それに対して道はゆるく凹んでいて、山の尾根に向かって伸びていました。白いお花畑は学校のグランドのように広い。その先には大峰山脈が見えました。大普賢岳、八経ヶ岳、弥山、釈迦ヶ岳、どれも1800mから1900m級の山々で山頂には雲がかかっています。もしそれらの山頂に立っていたら、ガスで視界が遮られていたでしょう。ここ山上ヶ岳の上空だけは雲がなく、まるで天界のようでした。青い空が広がっている。
パウダースノーが堆積した山道に足を踏み入れると、足が沈み込みました。これから雪をかき分けて進みます。ミドルカットの登山靴ですが、靴の中に雪が入ったら大変。ズボンの裾を登山靴に覆いかぶせました。これで雪が入らない。雪の中に足が沈む。足を雪から引き抜く。その運動を繰り返しながらザクザクと前に進みます。お花畑の真ん中に大きな木が一本、枝を広げていました。道に覆いかぶさっています。前屈みにならないと前に進めません。その枝の下を潜ろうとすると、被っていたニットの帽子が枝に引っ掛かりました。
――ザバッ!
枝に張り付いていた雪の塊が、僕の首めがけて落ちてきます。タートルネックの隙間に入り込みました。
――冷たい!
首をすぼめます。雪を落とすためにナップザックを背中から下ろしましました。ナップザックも雪だらけ。首周りの雪を払い、もう一度ナップザックを背負いなおします。木の枝を潜る時は気を付けなければいけません。
しばらく歩くと、三叉路に出くわしました。真っすぐ歩くと大峯山寺の境内に戻ります。左に曲がると、レンゲ辻に続く山の尾根でした。かなりの急こう配です。滑り台のように道が落ちていました。部分部分に階段が設置されていますが、雪で覆われています。階段が無い登山道は新雪の白い道なのですが、先客の足跡がありました。とても小さな足跡。キツネかイタチの足跡だと思われます。野生の動物も、この登山道を使っていました。
小さな足跡を追いかけるようにして、山の尾根を下りていきます。かなりの急こう配なので慎重に足を運ぶ必要があるのですが、少し問題がありました。山の尾根に生えている木の枝が道に覆いかぶさり、所々がトンネルになっているのです。小さな動物なら問題はありませんが、僕だとまた雪を被ってしまいます。腰に巻いていたダウンジャケットを着ることにしました。フードを被って強引に突き進みます。足元は深い雪、トンネルを潜ると頭から雪が落ちてきます。雪まみれになりながら前に進みました。
このような雪の中を歩くのに大いに役立ってくれたのが、チェーンスパイクでした。下り坂であっても、地面に食いついてくれます。とても安心できました。また、このレンゲ辻に至る登山道は所々に岩場があります。道がない場所は鎖が用意されていて、その鎖を掴みながら岸壁を進みました。岩の上にも雪が積もっているので、登山靴のままなら滑ってしまいます。このような場合でも、チェーンスパイクは、岩を噛んでくれて滑らない。また、トレッキングポールも大活躍。急な斜面を下りるとき、ポールがあるだけで身体を安定させることが出来ました。
岩場を抜けると、小さな広場に到着します。小さな門が設置されていて、「女人結界門」と書かれていました。現代的な感覚とは相いれませんが、この山上ヶ岳は古くから女性の入山を禁止しています。門の横に、これは宗教的な理由である断り書きが添えられていました。振り返ると、今まで降りてきた山の尾根が見えます。かなりの傾斜でした。短時間で一気に降りてきたことが分かります。ここで一旦、休憩を取ることにしました。汗をかいていたので、ダウンジャケットを脱ぎます。ペットボトルを掴み、残りのお茶を飲もうとしました。
――ん?
ペットボトルを傾けているのに、お茶が飲めません。不思議に思いペットボトルを確認すると、お茶が凍っていました。
――!?
息が切れてフーフー言っている僕には、現在の気温が氷点下だということが分かっていませんでした。調整しながら水分補給していたのに、ここにきて飲むことが出来ません。ペットボトルを縦にシャカシャカと降ってみました。氷がシャーベットに変わります。ペットボトルの内側にそのシャーベットが貼りついてしまい落ちてこない。ペットボトルを叩いてシャーベットを落とし、口にしました。幾らかの水分補給はこれで出来ました。喉は乾いていましたが、これで我慢することにします。
見回すと、この広場から道が二つに分かれていました。真っすぐに進むと稲村ヶ岳、右に曲がるとスーパーカブを停めている登山口に辿り着くことが出来ます。稲村ヶ岳に行ってみたいのですが、素人の僕では遭難しそうなので、今回は右に曲がることにします。ただ右に曲がるといっても、これが道とよべるのか疑問に感じる道でした。これまでの下りも結構な急斜面だったのに、それを上回る崖なのです。道らしい道がない。試しに丸めた雪を転がしてみました。超高速で落ちていきます。このような登山道では、コツがありました。ピンク色のビニールテープを探すのです。
スタート地点からここ女人結界門までは、明確な登山道がありました。多くの人によって踏みしめられた道は雪が積もっていても分かります。このまま尾根伝いに真っすぐに進み稲村ヶ岳に行く場合でも、登山道は続くでしょう。しかし右に曲がる道は、そのような明確な登山道がありません。山上川の渓流を伝いながら下っていくのですが、V字の渓谷になります。渓谷の底は岩が積み重なっており、歩きやすい道を探しながら進むしかありません。足場が悪いので、道を間違えると滑落の危険もあります。安全なルートを探すことが登山者に求められました。
ただ、そうした明確な道がない登山道には先人が残した印があったりします。それがピンクテープでした。木の枝の先や、岩の縁にちょこっと貼り付けられています。そのピンクテープを追いかけると、僕のような初心者であっても道を見失わずに進むことが出来るのです。ただ、だからといって安全なわけではありません。比較的歩きやすいルートくらいの意味合いなので、注意は必要です。
森の中と違って、渓谷は見晴らしが良い。壁のように屹立する岩壁や山の背に挟まれるようにして、谷底が下に下に落ちています。足元に注意しながら、一段一段下に降りていきました。山上ヶ岳は標高1,719mの山でした。小一時間で一気に700mくらい高度を下げていきます。その時、体の異変が始まりました。
初期症状は吐き気でした。その時は、なぜ吐き気がするのか分かりません。まず食べたものを疑いました。昨晩の豚が悪かったのだろうか。それともSOY JOY? 喉が渇いたからといって雪を食べたわけではありません。いや、喉が渇いているのに我慢していることが起因しているのか?
めまいも始まりました。立っていることが辛い。ピンクテープを目印に渓流を横切る時に、手ごろな岩を見つけました。その岩に座り込んでしまいます。トレッキングポールに額をのせて前屈みになりました。少し休みたい。暫くすると、今度は寒くなってきます。歩き続けている間は寒さを感じませんでしたが、活動が停止すると氷点下の気温が身に堪えました。腰に巻いていたダウンジャケットを慌てて羽織ります。再び前かがみになり休みました。
雪が積もる冬山なのに、ニイニイ蝉の鳴き声がひどく五月蝿かった。ニーニー、ニーニーとひっきりなしに鳴いているのです。顔を上げました。渓谷の中を見回しましたが、蝉がいるのはおかしい。実は、僕の耳鳴りでした。この時に至って、これは高度を急に下げたことによる酔いだと認識しました。座り込んだまま、また目をつぶります。そのまま30分ほど仮眠を取りました。
目が覚めてからは、少し楽になりました。腰を上げます。足は重いですが、歩かなければ帰れません。喉も乾きました。その頃になると、足元の雪が消え始めます。石しか見当たらなかった渓流も、いつしか川のせせらぎになり、サラサラとした流れる音が聞こえる様になりました。ピンクテープの道筋は、何度も渓流を横切ります。横切るたびに、「この清流なら口にしても大丈夫なのでは?」と思ったりもしました。
岩場を歩くルートから、人によって踏みしめられた登山道に変わりました。ここまで来れば足場を気にすることはありません。腰を下ろして、チェーンスパイクを外しました。普通の山道においては、登山靴の方がよっぽど歩きやすい。
――早く帰りたい。
そんな気持ちで一杯でした。黙々と歩き続けます。登山道からアスファルトの道に変わりました。スーパーカブまで駆けだしたい気持ちになります。
――帰りたい。
――帰りたい。
――帰りたい。
現実を忘れるために山に登るのですが、山を登りきると帰りたい気持ちで一杯になります。家に帰れるということは、とても幸せなことです。もしかすると、そんなことを再確認するために山に登っているのかもしれません。嫁さんに会いたい。子供たちに会いたい。
登山口に到着した僕は、真っ先に自販機でスポーツドリンクを買いました。一気飲みです。スーパーカブは既に荷造りが出来ています。キーを差し込み、エンジンを掛けました。家路に向かってアクセルを回しました。