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足らないんじゃない?

 山道を登っていくと八合目あたりに陀羅尼助茶屋がありました。これまでの茶屋とは違い休憩所というよりは店舗になっています。ただ、季節が冬ということもありシャッターが閉まっていました。雪山の中でひっそりとしています。陀羅尼助とは、ここ大和洞川で販売されている和製漢方薬のことで胃腸薬になります。起源は古く飛鳥時代まで遡り、言い伝えによると役行者が黄柏のエキスを陀羅尼経を唱えながら煮詰めて調合したとされます。当時は、疫病の流行に対する明確な手立てがない時代でした。万能薬として重宝されたようです。


 陀羅尼助茶屋を抜けると道が左右に分かれていました。右は階段、左は鐘掛岩になります。どちらの道を選んでもその先で合流するのですが、どうせなら鐘掛岩を見てみたい。ただ先人の足跡は右へと続いています。ネットの履歴では、雪と暴風が原因で鐘掛岩を諦めたとの記述がありました。多分、鐘掛岩に至る道は危険なのでしょう。でも、でも、僕は鐘掛岩を選択することにしました。僕の中の好奇心を抑えることが出来ません。また、左の登山道は誰も歩いていないので新雪でした。フカフカのパウダースノーが堆積しています。僕が最初に足を踏み入れることが出来るのです。これも嬉しい。足を踏み入れました。


 ――スポッ!


 膝下まで一気に沈み込みました。これは怖い。これでは足元が登山道かどうかの判別が、踏み込むまで分からない。登山道は細い。踏み場所を間違えると落ちてしまいます。慎重に歩みを進めました。雪がそれなりに多いので、まるでラッセル車みたいです。しばらく進むと大きな岩壁が僕の行く手を遮りました。岩肌には氷柱が垂れ下がっています。まるで簾のように幾つも幾つも横並びに垂れ下がっていました。樹氷を見たのが初めてなら、氷柱も初めてになります。これには感動しました。また写真をパチリ。


 ただ問題は、この先の道でした。目の前の岩壁の左側は斜面。岩に張り付けば、かろうじて進めそうな気もしますが、かなり怖い。足を踏み外せば、斜面に転げ落ちてしまいます。新雪だ~、と喜んでる場合じゃありません。先人の足跡は、僕にとって道標だったのです。素人の僕ではどれが正解の道なのかが分からない。途方に暮れていると、岩肌に妙なものを見つけました。長い長~い一本の鎖が垂れ下がっています。雪に埋もれていて、最初は分かりませんでした。つまり、登山道はここから岩登りに変わるのです。このことに気が付くのに、少しばかり時間がかかりました。


 手に持っていたストックを折りたたみナップザックに仕舞います。僕は冬登山用の手袋をはめていました。その鎖を掴みます。鎖は岩肌にへばり付いていて凍っていました。バリバリと引き剥がします。足はアイゼンではなくチェーンスパイクでした。本格的な仕様ではないので少し心配。チェーンを掴み、岩に足を乗せます。体重を掛けました。


 ――ジャラ、ジャラ。


 鎖が音をたてながら、ピ~ンと伸びます。ゆっくりと足を運び岩壁を登りました。かなりスリリング。先人が鐘掛岩を諦めたのが理解できました。登り切った後も、険しい岩肌が続きます。両手で岩を掴み、前かがみの姿勢で進みました。この日は風がなかったから良かったものの、風が吹けば立つことすら出来なかったと思います。


 鐘掛岩には展望台が二か所ありました。テラスが用意されている大きな展望台からは、奈良の街並みを見下ろすことが出来ます。当然のことながら、下界は雪が積もっていません。ここ山上ヶ岳の1,500mから上だけが銀世界なのです。ただこの展望台にやってきて、気が付いたことがありました。普段の風の強さです。この日は無風に近い上々のお天気だったのですが、テラスにこびり付く雪の様子から風が如何に強かったかが分かったのです。


 テラスを形成する木材にも当然のことながら雪がこびり付いているのですが、風を受ける面は吹き飛ばされていて砂やすりのようになっています。ところが、風を受けない裏面は、雪が堆積していました。氷柱のように雪の山が、下ではなく横長に伸びているのです。漫画のイラストなんかで風を線で表したりしますが、あれと同じようにリアルに雪の造形で風が通った道筋が雪の堆積加減で分かるのです。これは面白かった。あと、樹氷が見え始めた頃は先っぽが尖がっていましたが、ここ鐘掛岩付近になるともう尖がっていません。雪が木を全部覆い隠していて、モコモコとしています。まるで着ぐるみのトイプードルのようでした。


 この鐘掛岩は、岩の天辺に登ることが出来ました。これが二つ目の展望台になります。ただ、そこに行くまでがちょっと危険でして、鎖を掴んで登らなければなりません。でも、折角なので登ってみました。見える景色はテラスの展望台と変わりませんが、足元が悪いのでスリル満点。


 ――登ってやった!


 という満足感が加味される分、価値がありました。ただ、ゆっくりと展望を楽しむ心の余裕がないので、直ぐに降りましたけど。


 ところで、今回の登山での僕の服装ですが、下半身はタイツ、ズボン、カッパをという三重の重ね着。上半身は、上からダウンジャケット、タートルネック、長袖シャツ、半袖シャツの四重の重ね着だったのですが、途中からダウンジャケットを脱いでしまいました。汗をかいて暑かったからです。正確ではないのですが、気温は氷点下10度くらいだったと思います。そうした極寒ともいえる環境なのに、歩き続けていると暑い。ダウンジャケットがいらない。これは驚きでした。


 それと、喉が渇きました。前回の大台ヶ原では登山に1リットルの水分を用意します。これで十分でした。今回の登山では、500mlのペットボトルの緑茶と500mlのドリップしたコーヒーを持っていったのですが、結果的に足りませんでした。鐘掛岩を越えた辺りで、緑茶は半分以上も飲んでいます。緑茶を節約するために、熱いコーヒーを飲むことにしたのですが、コーヒーでは喉の渇きを癒せない。というか、カフェインを含む緑茶とコーヒーの組み合わせが最悪だったのかもしれませんが、とにかく喉が渇いたのです。


 あともう一息ですが、まだ頂上に到着していません。この水分が足りない問題は、僕に大きく圧し掛かりました。マラソンで経験しているのですが、水分が足りないと行動が出来なくなります。途中の茶屋で何とか購入できないかな~と思いましたが、それは無理です。なぜもう一本、水分をナップザックに入れなかったのかと悔いました。でも、後の祭りです。目の前の新雪を掴んで「食ってやろうか」とも思いましたが、火を入れていない水分は怖い。お腹を下したら、もっと最悪な事態に陥ります。我慢しつつ、節約して飲むことにしました。


 西ノ覗岩という展望台から下界を見下ろした後、更に歩みを進めると大峯山寺の境内に入ります。雪に覆われた宿坊の横を通り過ぎていくと、目の前に大きな山門が姿を現わしました。なかなかの貫禄です。雪に埋もれた感じがとても良い。写真をパチリ。山門を抜けると長くて大きな階段が続くのですが、これも雪で埋まっています。階段を登っているのか、雪の坂を登っているのか分からない。登りきると広場があり本堂が姿を現わします。この本堂から少し上ると山頂になります。


 山頂周辺は大きく開けており「頂上お花畑」との石碑がありますが、一面雪景色。見上げると透き通るような青空で、青と白のコントラストがとても最高でした。風はないし、誰も居ない。僕一人だけ。立ち尽くしました。……というか、座る場所がないんですよね。全て雪だから。


 ナップザックの中から行動食を取り出しました。大豆の塊「SOY JOY」。美味しいんですが、これを食べるときは水分がないと口の中がモシャモシャする。節約している水分のうち、コーヒーを取り出しました。まだ半分ほど残っているコーヒーを「SOY JOY」と一緒に全部飲み干しました。これで、残りの水分は緑茶が120mlほど。


 ――ヤバイ。


 残りの距離は下りとはいえ、まだ5kmほどあります。ちょっと心配。いや、かなり心配。今は喉の渇きが癒えましたが、これでは絶対に足りない。この時は、それでも何とかなるだろうと思っていました。


 休憩が終わったのでこれから下山なわけですが、僕には二つの選択肢がありました。一つは、登ってきた道を戻っていくルート。もう一つは、レンゲ辻を経由して渓流を下っていくルート。安全を選ぶのであれば、来た道を戻った方がよい。でも、それは面白くないんですよね~。僕の目線は、頂上お花畑に向けられていました。広い広いお花畑は雪に覆われています。人が歩いた形跡がない。純白の平野。


 ――穢したい。


 雪の上のナップザックを掴み、背中に背負いました。トレッキングポールを掴みます。足跡のないお花畑に向かって、足を踏み出しました。

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