7月25日 午前9時8分
朝のラッシュ時をくぐり抜けたネットカフェは静かだった。下手に音を立てると、他のブースの客に自分の一挙手一投足を知られてしまいそうだ。別に指名手配をされている訳ではないのだが、今少し息を潜めておきたいのはまだ胸の中の海原が荒れているからか。そんなことを考えながら、結菜は細く細くゆっくりと息を吐いた。
「こんなことで家を出るなんて」と人は言うだろう。端から見れば何とも詰まらない親子喧嘩と映るに相違ない。物心がついたばかりの子どもではない分、家を出た挙げ句にしばらく時間を潰すための方法論だけは知っているから自然とこうなっただけだ。泊まる場所はネットカフェで良いし、食べるものはコンビニかファストフード店で調達すれば良い。18歳という年齢のお蔭で夜の孤独に一人咽び泣く必要などなくなっている。この極度に騒々しい街が何故か私を守ってくれているのが滑稽だ。ここに思い入れなど何一つない私に、見知らぬ人しか交差しない場所はこんなにも優しい。
「結菜には誰よりも幸せになって欲しい」
母は何度もそんな魔法の言葉をくれた。その度に私はいつも、この世で一番愛されているという歓びと喩えようのない全能感を感じていた。
時として「私が母の生きる証になっている」と思うことさえもあった。そして次第に私は母のために「母が望む幸せ」を体現しようと思うようにもなった。
母は儚さ漂う淡いピンク色が好きだった。そう、あれは私が5歳になったばかりの頃だ。向かいの家の小学生のお姉さんに憧れて、紫色の靴が欲しくなったことをよく憶えている。あまりにもそれが大人びて見え、母に一度おねだりしてみようかと思った。「今度は紫がいい」と言うだけだから簡単なことだ。だがデパートの子ども靴売場で「やっぱり結菜にはこの色が似合う」と、まるで宝物の宝石を手に入れた少女のようにうっとりと小さな靴を両手で掲げる姿は、私を黙らせるに十分な程どこか神々しさをも感じさせた。この広い世の中の右も左も分からない子どもではあったけれど、ここで本音を吐露してはいけないだろうことは何故だか理解できたのだ。
小学生になると母は「大人になったら何になりたいか」と訊いてくるようになった。大人になったら、などと想像もつかない未来の話は私にはとても苦手な問いだったが、学校で特に仲の良い友達がアイドルであるとか学校の先生であるとかパティシエであるとか、職業について持てるだけの知識を最大限に広げて喜々として夢を膨らませていることは知っていた。そんな中で、果たして母親が求める正解は何だろうか、と私は反射的に考える癖がついてしまっていた。結局私は何も答えられず、母が「幼稚園の先生は?」と言えば「うん、私、なりたい」と返し、「看護師さんは?」と言われれば「それもなってみたいな」と答えた。今だって時々思い返すことがある。結局のところ、あの時の最適解は何だったのだろう。
ネットカフェのフリードリンクを取りに行く。「麦茶………は、ないか」とラインナップを左から右へと目で追う。種類が多い割に飲みたいものや飲めるものは少なくて少し驚く。
(コーラもやめておくか)
取り敢えず、いつもは飲まない炭酸ジュースで目を覚ましたい、と勢いよくボタンを押し続け、右手が重くなるぐらいに、なみなみと注いだ。紙コップの際で弾ける泡が、外に出たがって藻掻いているようにも見える。そのまま口を近づければ、私の薄い唇にもそのジュースが小さな気泡を抱いてぶつかってきた。
(まるで井の中の蛙だ)
そんな事をぼんやりと思った。この子達も大海に出たがっているのだ。