7月26日 午後4時47分
陽は傾き始めているというのに、全く暑さが和らぐ気配はない。どうやら今夜も熱帯夜に違いない。5月あたりから夏の息苦しさを味わわされてまだ2ヶ月しか経っていないのに、もうウンザリな気分だ、と母は言っていたが、まだまだ盛夏としては走りなのだから、恐らく9月の中頃まで続くだろう夜の暑さを今から思って辟易する。
何故だろう、いつからか胸の中に根付いている名も知らぬ植物から落ちた種の一つが、背骨の継ぎ目をなぞって腹の奈落へと落ちるイメージが湧き出てくる。きっとその闇底には既にいくつもの種が澱となっと層を築いているに違いない。もしかしたら澱の中の澱の下の澱の底あたりでは、見たこともない何かが芽吹いているのかもしれないが、今の私には知る術もない。
「私は、欲深いと思う?」
自分にも聴こえない言葉を唇を動かすだけで
そう呟いて、右手で彼女の左手首を掴む。突然の行動に驚いた彼女は左腕を広い空に向けて大きく振った。彼女の二度目の大振りで、少し伸びた爪が私の唇を掠めていく。
唇の薄い皮を抉った感触があったのか、または私の唇に血が滲んできたのか、彼女は目を見開くと腕をだらりと下げて細い声で「ごめん」と言った。
ああ、やっぱり血が出ているみたい。
大丈夫、この味はまだ小さかった頃からよく知っているんだ。
今度はゆっくり両手で彼女の左右の手首を掴んでみる。
そのまま数秒息を殺して纏う梅雨の湿った空気を落ち着かせる。徐々に音が聞こえなくなる、視界から動きのあるものが消えて行く。まるで凪ぎいたこの半径1メートルだけ時間が止まったようだ。
もう彼女は抵抗してはこない。私は手首を掴んだままの掌を肘から肩へとゆっくり滑らせた。
柔らかくしっとりとした腕は細く長く、肘の骨張った感触を一層際立たせていて私は少し息を洩らす。
肩の丸みをそっと撫でてみる。徐々に指に力をこめてみる。もう抵抗はしない。その代わり雨上がりの蒸し暑さを忘れる程に冴え冴えとした眼で正面から私を見据えてきた。
「どうぞ」
そんな言葉を不躾に投げてくるものだから、こちらだって意地になる。
右の人差し指で鎖骨の窪みをなぞってから華奢な首の後ろへと回し、親指で薄い唇の下へ伸ばした延長地点の喉元を押さえる。左手を同じように肩から首へと滑らせると、ついに左の指先がそれぞれ右の指先に触れた。
私の一見非力に見えるだろうこの掌だって抵抗さえされなければ一人の人間の生死を決めることができる。
「………でも、これじゃ辻褄が合わなくなるんじゃない………?」
彼女は首と顔を1ミリも動かさずにゆっくりと瞬きをしながら問いかけてくる。やはり多少は息苦しいのか声はか細く、肩とて上下に小刻みに震えていることに気づく。改めて彼女を真正面から見据えれば、微塵も動かない顔の中で、眼と唇だけ微かに揺れる様は不気味にも感じた。そう意識してしまった時点で、もう私は負けているのかもしれなかった。
「私はね、いつも耐えられなくなったら死んじゃえばいいやって思ってるよ。いざとなればそうやって逃げたいって思ってきた………私は“私”を18年も生きた。もう十分」