7月27日 午後10時58分
「今から帰る」というメッセージがスマートフォンに届いたのは、もう一時間も前だ。その字面があまりにも美しくて、私は胸の奥に五月雨のような銀色の閃光を見た気がした。
出て行った愛娘が戻って来るという事実は深い意味を持っている。つまりそれは、結菜は家を出るという事象に一時的に惹かれはしたが、母親という唯一無二の存在と比較した結果、より魅力的な私を選んだということに相違ない。決して表情には出したくないのだが、言い得ない高揚感に全身を支配されていることをまざまざと感じる。
純子は、この一時間というもの、その酔いそうな程の幸福の波に身を任せたまま静かに漂っている。こんな自分を誰かに見られ羨んでほしいような、一方で余りある感激を誰の手にも触れられない場所まで引きずり込みたいような、自分でも分析できない感情の波のうねりに合わせて、頭をゆるりと左右に振る。
リビングで自慢の大きい窓の近く、無機質な漆黒のテレビ画面に目を遣ると、向こう側からこちらを見つめる女があまりにも幸福そうでうっかり嫉妬しそうだ。テレビ横のデジタル時計が23時を告げた時、カチャリと玄関の扉の音がしたことを認めた。瞬間、ざわりと全身が粟立つ。
「……結菜?……結菜なのね」
玄関の方向に向けて声をかけながら、それまで座っていたリビングのソファから立ち上がる。あまりの嬉しさに右足の親指に力が入るのがわかる。そのままの勢いで玄関へと続く扉を開けた。
「………お母さん…」
律儀に玄関扉の内鍵をかける結菜は、出て行った時と同じ服装だ。学校にも好んで着て行くことがあるネイビーのポロシャツ、合わせるパンツはワイドタイプのブラック、スニーカーは厚底のお気に入りブランド、リュックは友達と色違いで買ったという、駅ビルに入っているセレクトショップ入口に掲げられていた瞬きさえ拒むような大振りなイエロー。
結菜はちらりと上目遣いでこちらを窺うと左足を玄関ラグに置いた。その細身の足を包む白い靴下には見覚えがない。
結菜は白い靴下は持っていない、
通学の時は紺か黒を好んで履く、
でも、靴下は消耗品だから途中どこかで購入したに違いない、
と純子は瞬時に娘の全身をチェックし胸のざわめきと何とか折り合いをつけた。
「あの、心配かけてごめんなさい………ただいま」
結菜は靴を脱ごうとしていたが、母親の焦りを含んだ声を聞いて急いで顔を上げた。表情は硬いが顔色は悪くなく、素早く服装以外の全身に視線を走らせてみたところ怪我をしている訳でもないようだ。
「ああ………良かった、本当に」
純子は呻き声を少しずつ唇の隙間から洩らしながら本心を紡ぐ。
「何か……事件とか事故とかに巻き込まれていた訳じゃないんでしょう?」
何よりも確認しておきたいことだったし、確認せねばならないことでもあった。
ここまで発してやっと沈黙が訪れる。私がこれ以上言葉を続けないことを示して、次はあなたの番だと視線で結菜に水を向ける。
「……うん、大丈夫。ちょっとあの時感情的になっちゃってたから、私も頭を冷やす時間が欲しくって………」
目を合わせはしてこないが、躰はこちらを向けてくれているところから対話の余地を感じる。
「あれは私が悪かったのよ。あなたの希望もよく聞かないで………お母さん、本当に駄目ね。結菜は全く悪くないのよ。あなたが気に病む必要なんか少しもないの」
私は今までで一番優しい表情を作ることに徹した。ちゃんと慈愛に満ちた母の顔は出来ているだろうか、と少し不安だったが、ここで結菜に私の想いを伝えられなければ意味がないのだ。もう二度と結菜のことで不安な時間を過ごしたくはない。二度もこの腕の中から逃す気もなかった。
結菜はこちらの腹の内を知ってか知らずか、気の抜けた微笑を口の端に浮かべながら
「お母さん、お願いがあるんだけど………疲れたから今日はもう寝たい」
さざ波のような声で呟く。
「帰ってきてすぐ、お母さんと同じことで喧嘩ばっかりしたくない。それにあの時感情的になりすぎたからか私もいろいろ混乱してて………実はあの時のこと、なんて言ったかとかお母さんがどうだったとか、あまり覚えてないんだ」
玄関からリビングまできたところで歩みを止める。結菜はソファの下のラグに視線を落とすと暫し目を閉じた。純子は結菜の眼の奥にもっと潜り込みたかったが先に拒否をされてしまったようだ。
「………私、思っていたより興奮していたみたい。いろいろ、頭の整理もしたかった、だから帰るが遅くなった……」
途中で口を挟む余地を与えないように語尾を短く切りながら話す様子から、娘が息継ぎさえもしていないことだけが分かる。
「うん、うん………分かった、もう過ぎたことよね。これ以上、何も言わないわ。とにかく今日はもう休みましょう。夜ご飯も用意してあるし、お風呂だって準備してある」
私にできることは受け容れることだけ、と純子は手を広げて笑ってみせた。
「………本当にごめん………ありがとう、ママ」
結菜は少し首を傾げて謝罪と感謝の言葉を贈る。少ないラリーであっても、立ち位置などは目まぐるしく変わる不安定なものだと知っている。第三者が私たち親子の会話を聞いていたとすれば、素直な娘に心を許す筈だ。勿論その第三者はいるはずもないのだが、黒いテレビに反射する高校生は私から見ても守るべき女の子だった。
結菜はリビングを足早に退出すると、二階にある自室へと続く階段に右足をかけた。
(こうやって、ママを悪者にする、きっと)