7月28日 午前9時41分
「…どこか具合でも悪いんじゃないの。やっぱり少し顔色も悪いし…一週間といっても随分痩せたように見えるし。なんだか雰囲気まで変わっちゃっているわ。」
やっと部屋から出てきた結菜はダイニングテーブルを水拭きしていた私の横を滑らかに通り抜けて、無言のままテレビ前のソファに座る。点いていないテレビはさながら鏡のようで、正面に鎮座した娘の輪郭を浮かび上がらせるように反転させて映していた。逆さまの結菜は一瞬だけ黒い画面の自分に目を合わせるが、次の瞬間には手にしたスマホに視線を落とす。
この一連の動きはまるでスローモーションのようで、私は速度を操作した動画を見せられているみたいだ。だから、ついその時間を正すように矢継ぎ早に声を浴びせてしまった。その一方で、やはり私はどこか焦っているらしい、と脳が自身を客観視していることも自覚する。こんな時にそんなことに気付くなんて何とも可笑しい。昨日までとは違ってどうやら余裕も持ち合わせ始めたようだ。
「そんなことないよ。ただいろいろなことがあって少し混乱してる………ちょっとだけ静かに過ごしたいだけ」
昨夜よりも殊更低いトーンで返ってくるその言葉達から、彼女の胸に潜む何らかの感情を掬い上げようと耳を澄ませ目も凝らしてみるが、皆目分からない。とにかくデータが少なすぎるのだ。
「それはもちろん。疲れているでしょうしね」
結菜からの反応はない。ただ視線だけはこちらに向けられた。
「あなたの気持ちに気付いてあげられなかったお母さんが全部悪いの」
距離を詰めるために結菜が座るソファへ二歩だけ足を進める。
「でもね、あなたがいなかった間私だって辛かったということは……解らなくてもいいから、ただ知っていてほしいの」
本当はどれだけ心配をしていたか、この憂いを漂わせる眼尻を向けてくる娘に時間をかけて説いておきたい。だが、それは時期尚早とも場違いとも感ぜられて、これ以上は、と短い息を喉の奥へと押し込めた。もし結菜が私に少しでも敵意を向けるようなら、次の呼吸で全て台無しになるぐらいに、その感情は声帯の直下に潜んで時を待っている。これを収めるには少なくとも6秒以上の時間が必要になりそうだ。
「………うん、わかった。心配してくれてありがとう。………私ね、一人で考えてみてさ、やっぱりお母さんが言ってた大学にしようかなって思ったんだよね。だって、お母さんから見て私に一番合うと思ったってことでしょ。なんかあの時は私もただの興味だけで選んでて先のことなんて何も考えてなかったから、さ」
結菜は一息に想いを打ち明けると両手でネイビーのスウェットパンツのポケット部分を掴んだ。私には、娘のその姿が何やら途方もなく健気に映ってしまい、もう何もかも赦してやりたい心持ちにもなってしまう。
「私さ、今日から本当に頑張ろうと思ってる………全部やり直すつもりで。お母さんには………私の味方になってほしいし、応援もしてほしい」
ゆっくりと一つ一つ確認するように応えたその結菜の言葉で、私はやっとひとつ吐息を継ぐ。どうやら峠は越えられたらしい。
「そうね、応援するわ。お母さんにはいつだって、あなただけなんだから」
この目の前の彼女が“新しい結菜”として生き直すというのなら、私だって“新しい母”として生き直せる。その準備は既に数時間前からできているのだ。ただ、覚悟はすれども胸の中に巣食う面影がまだ消えてくれないだけ。
「ありがとう、ママ」
その言った結菜の声もまた、鮮やかに香を放つ残像を揺さ振ってくる。