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7月22日 午後11時59分

都会の終電は遅い。そのおかげで結菜は余裕をもってネットカフェのあるターミナル駅まで戻ってくることができた。ただ、荷物はネットカフェから出かける度に、この街の心臓部ともいえる複雑怪奇な駅のコインロッカーに預けていたので、今回はネットカフェとは反対側の北口に引き取りにいかなければならない。

深いともいえる時間だが、駅は静まる様子もなく家路を急ぐ人と遊びに向かう人がただただ交差をする。よくぶつからずに向かってくる人を避けながら歩けるものだと感心しながら、結菜も自然と人を身体を左右へと細かく傾げさせて避けつつ改札と売店の先の駅のエンドへ歩みを進める。

ここは壁面全体にコインロッカーが広がっているのだが、足を運ぶ度にその姿が恣意的に造られたオブジェのようにも見えてきて、ここ数日ですっかり気に入ってしまった。誰かが四角い岩を几帳面に積んだようにも思える。


美羽は高貴な猫のようで庇護すべき兎のようで賢しい馬のようだ、と思う。

生まれ付きと本人が話していた髪は長くも緩やかなウェーブを描いていて、直毛ボブの私にはその姿が異国のお姫様のようにも見えた。そんな彼女を真似て長く伸ばしてみた時期もあったが、ただの黒髪ストレートでは面白みを感じることができず、去年の夏にバッサリと切った。美羽と同じ長さにしてみたところで、他人の眼からはただの比較対象に据えられるだけと恐れたことも理由ではあった。暫くの間、彼女の隣に並ぶことが嫌だと感じたのは、彼女に対して引け目を感じていたからだけではない。彼女のパーソナルエリアに私という不純物を侵入させたくなかったことが大きいのだ。

美羽とは中学3年の時に同級になった。私達の学校は公立中学でも比較的規模が大きかったためか、同じクラスになるまでは名前をちらりと聞いたことがある程度の関係で、特に興味を払うことはなかった。そのような私だったが、桜も暦を追うように散り急ぎ、とりわけ南風が強かった始業式の日の4月5日、その日に限って目覚めが殊更悪く気怠い身体を引き摺って何とか登校したあの朝、私は教室の窓際に座る彼女に声をかけられた。

「テニス部の山之内さんだよね」

「………えっ?」

「すごい上手いよね、私、ずっと3階から見てたんだよ。あ、音楽室ね。私、吹奏楽だから」

少しだけ薄い色素の大きな丸い目をくりくりとさせて覗きこまれれば何故かこちらの胸が騒がしく音を奏でた。

そんな簡単な遣り取りをきっかけとして友人関係が始まったのだが、私は、本当は大して上手くもないテニスを誰かに見られていたことがどこか恥ずかしくも、それをわざわざ言葉にして「見ていた」と伝えてくれた彼女の真っ直ぐな純真さが、まるで幼い子どもが褒められ頭を撫でられているような錯覚をも起こしたようで、喩えようの無い程こそばゆく、美羽の視線から自分の内に眠る劣等感を隠すように反射的に俯いた。初めて対面した相手に声を掛けることは割と勇気のいることだと思うのだが、美羽にとってはそんなことは取るに足りないことで、いとも容易く相手のエリアに入り込んでいくことができるようだった。私とてノーガードだった訳ではなく、むしろ人並みよりも高い頑丈な有刺鉄線を半径1メートルには隙間無く設置しているつもりではあった。それでも美羽は馬術のような優美な曲線を描いて軽々と越えてくる。それは彼女の性格として誰に対してもそうだった。

同じ高校へ進んだ時にはすっかり彼女の右側が私の定位置になり、その空間のポケットにおさまることが心地良くなった。それは、小さい頃から何かが足りないと常に抱いていた欠乏感が成した“不完全な自分”像がウォームカラーの吐息で補完されていく感覚だった。たった一人の女の子と出会っただけで、いとも簡単に私が“私”たり得ることを実感したことが我ながら不思議で仕方がない。

高校2年の冬、そんな美羽に彼ができた。サッカー部でクラスメイトという彼はクリスマスを機に美羽と心を通じ合わせたようだ。ようだ、と伝聞調になってしまうのは、私がそれを知ったのが年明けの新学期だったからだ。高校生の親友関係ならば、恋愛話など一から十まで筒抜けだろうと思っていたのに、美羽からは何一つ気配を感じなかった。冬休みの間も頻繁にメッセージのやり取りは続いていたけれど、その内容は部活で使う音楽室が寒くて楽器の音程が変わってしまって困るとか、駅ビルでセールがあるはずだからお正月が過ぎたら一緒にいかないか、など、他愛もないやり取りだった。

私が新学期に知ることになったのは、彼が嬉しさのあまり正月に友人に話したことがきっかけで、数日の内にクラス全体に波のように広がり、ついには私の耳にまで到達したためなのだが、私は美羽にその噂の真偽の程を確認することはなく、僅か2週間前と同じように接してた。しかしそれは、静かに二人を見守ってあげたいと思った訳でも、美羽から私に直接打ち明けられるまではいたずらに振り回されないようにしようとした訳でもなく、ただの思考停止からくる行動だった。

私は彼女の右隣を失いたくはなかった。サッカー部の次期エースが私のポジションを奪ってゆくことを何より怖れた。週に2回、サッカー部の練習がグラウンドのスケジュールにより早く切り上げられる火曜と金曜は美羽も部活を早退し、何処かで待ち合わせをしたあと下校しているようだった。事実、私が散らばったテニスボールを拾いながらコートを一周すると、二人の後ろ姿を緩やかな下り坂に認めることが多々あった。いつもその姿が視界に入ると、途端に私は固まってしまったかのように脚が動かなくなり、ただその場に立ち尽くすと黙ってじいと見つめながら彼等を橙が溶ける夕日の先に見送った。

沈む夕日が道路の向こう側に建つ白い家の、茶色い屋根に徐々に滲み色を塗り替えていく光景をとても綺麗だと思いながら、私は同時に嫉妬という感情を覚えていた。


美羽は猫のようで兎のようで馬のようで、私を惑わす魔女だ。

私はあの日からこの苛烈な憧憬を胸の内にどのように住まわせれば良いのか解らない。


駅から聞こえる音が途切れ途切れになり始める。朝まで電車の来ない駅には皆、用はないのだ。

ふと、目の前のシシュフォスが積んだ岩がぐるりと反転したような気がして吐き気がした。無機質なロッカーの扉にそっと両手をつけて息を整えると、両手から伝わるひんやりとした感触が血流と混じって身体中を巡る気がする。暫くするとその心地良さから少しだけ気分も楽になり、冷たさの残る掌で胸を擦った。

しかし、結菜が大きく息を吐き出して再度岩を見上げると、先程まで整然と積み上げられていた筈の正方形と長方形にずれが生じている気がしてならない。一段ごとにずれが大きくなり最上段はもしかしたら浮いているのではないかと思うほどの不安定さなのだ。

(危ない)

(早く逃げなければ)

そう思い急いで解錠すると押し込んでいたリュックを引っ張り出す。勢いよくベルト部分を引いた反動で重い荷物が身体にぶつかりコンクリートに鈍い音を響かせて落ちる。身体が衝撃を受け止めきれず前後に揺れ、倒れないよう必死に二本の脚で踏ん張った。その時遠くで何かのサイレンが鳴っていることに気づいて身体中が粟立つ。

(逃げる…………………どうやって……………?)

徐々にサイレンは駅に近付き、私を責めるように鼓膜を烈しく震わせると、喧騒を巻き込んだつむじ風とともに一瞬で通り過ぎた。

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