表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/37

7月22日 午後10時20分

スマートフォンの発信ランプが小刻みに点滅する。その白いランプを見つめていると光のまわりに淡い虹色の環が見えてくるのだが、もしかしたらそれは先程から感じる目眩の所為なのかもしれなかった。

程なくして相手が出る。純子は急いでスマートフォンを左耳に押し当てた。

「…………ああっ、お姉ちゃん。こんな時間にごめんね。実は昨日から、うちの結菜が帰ってこないんだけど、そっちに行ってたりしない?」

電話が繋がった気配がするやいなや、息せき切って話しかけると耳元で小さく息をのむ音が聞こえた。私程ではないだろうが、姪の一大事に少しは動揺してくれているのだろうか。

「え、結菜ちゃん?こちらには来ていないし、何の連絡も受けていないけど………何かあったの?」

聞こえてくる姉の声は思いの外冷静だった。その温度差が私の思考回路を少しだけ落ち着かせてくれる。

「……………うん………まぁ…ちょっと昨日大きめの喧嘩をしちゃってね。それで家を飛び出して行っちゃって………まさかそのまま帰って来ないなんてこと今までにはなかったから…………」

別に私は悪いことなどしていないのだが、言葉にして経緯を反芻すると何故か胸のあたりで罪悪感が湧き上がってくる。その気味の悪い感情に戸惑い暫し口をつぐむと姉は私のその気配を察したのか、いつもより倍近くのスロウな話しぶりで

「………そうなんだ。大丈夫よ、純子。焦らないでもう少し待ってみたら?…………あなたの子なんだから、結菜ちゃんは良い子に決まってる。私も連絡がきていないか優月に確認してみるから」

と諭すような、それでいて私を宥めるのに最適な声色で、小鳥の羽根のように優しく鼓膜を震わせ、寛い言葉で大きく抱きしめてくれた。

「ありがとう。何かわかったら連絡して。よろしくお願いします」

姉の声はいつだって私のささくれだった心を静めてくれる。逆に澱んでいる時は優しく掬い上げてくれるから、まるで精神安定剤だ。


早くに両親を失った私達は伯父夫婦に育てられたが、私は伯父と伯母というより姉に育てられたと感じている。伯父達は親を亡くした幼い姉妹を不憫に思ってか、厳しい態度も言葉も決して投げ掛けてくることはなかった。しかし姉は私に対し母親役を買って出るように細かく世話を焼いてくれる一方で、私が彼等に甘えきってしまう際には叱ってもくれた。

いつから姉が私の母役を兼ね始めたのかは分からないが、確かに中学に入る頃には“母”の雰囲気も纏っていたことを覚えている。

姉は高校生になるとアルバイトを始めるようになり、公立高校の授業料も自らのアルバイト代で賄っているようだった。伯父夫婦の家は経済的に余裕もあるように見受けられていたため、私はその行動を不思議に思い姉に訊いてみたことがある。

「私達はここではお客さんなんだよ。私はそれを忘れたくないだけ」

そう返してきた姉の真意は未だに解らない。ただ、私の学費をも背負うために短大に進学した後もアルバイトを掛け持ちしていた姿には、こちらの胸も締め付けられる思いがした。

当時の彼女の姉としての、そして母としての責任感には例えようのない一種の頑固さが秘められているような気がする。それでも、妹とはいえ、人のために自分の時間と体力を差し出す姿はどこか神々しく感ぜられたのは確かだ。

そういえば、あの出来事の時も特別な感情を抱いたのだった。まだ私が小学生だった頃、そして姉は中学生だった。


伯父夫婦には香澄という私の1つ下の年齢の娘がいた。彼女は引っ込み思案で当初なかなか私達姉妹と馴染むことはなかったのだが、姉は毎日食卓で彼女の隣りに座り必ず声をかけ、夜になれば宿題を、時には私が焼きもちを焼く程にきめ細やかにみてあげていた。そのような日々の積み重ねがあって一年も経てばまるで三姉妹のように仲睦まじい関係を築けるようになっていた。

ある日の放課後、私は香澄と二人でお絵描きをしていた。私が「着てみたい服を書こう」と提案し、香澄も「この前のテレビで素敵なのを観たんだ」と乗ってきた。

私はピンク色が好きなのでその色を後で色付けに使うことをイメージして大輪の花が綻ぶようなドレスを描く。ふわふわとしたミニドレスの裾が我ながら上手に描けたと一人悦に入りながら次の段階へと進むべく右手を伸ばした。人差し指がピンクの色鉛筆の軸に触れる。軽く爪を立てて引き寄せようと思っていたが、上手くいかない。不思議に思い目を向けると香澄も同じ色鉛筆を掴んだところだった。

(私がお姉ちゃんなんだから先に使わせてよ)

と、渡すまいと色鉛筆の端を掴む。ピンク色の軸の両端を掴んだまま暫く無言の時が流れた。いつもは引っ込み思案で何事にも遠慮がちな香澄の、今日に限っては全く退かない態度を見て、私の指にも力が入る。負けたくないという意地がさざ波のようにこの身体を冒していく。

膠着状態は5秒程度だったが、先に焦れてしまったのは私だ。更に力をこめて色鉛筆と彼女をぐいと引き上げる。視線も徐々に上にあがる。

それでも手を離さない香澄を見ながら更に一段階力の度合いをつり上げたところで、不穏な陰に気が付いた。

(……………抜けるっ、倒れるっ!)

そう思ったのと、実際に倒れたのはどちらが先だっただろう。視界が途切れ、大きく揺れたことだけは覚えている。気付いた時はただ白い天井を見上げていた。やはり倒れたのだ。だが、痛みはない。左に目を遣ると姉の姿があった。

つい先程帰宅したばかりの姉が、私の背中から首元へと細い腕を差し込み、床へ叩きつけられることから私の頭を守ろうとしてくれていた。倒れることを防ぐことはできなかったが、頭を打ち付けることは彼女の手首と私の頭を包んだ手のひらで回避されていた。

強張らせていた全身が少しだけ緩み血液が一気に方々を巡る。思考回路が徐々に回復する。動き始めた私の脳内に最初に浮かんだことは

(これが無償の愛だ)

だった。無償という言葉を当時の幼い私が知っていたかは分からないが、そんな神から与えられた加護を確かに自覚した瞬間だったことは疑いようがない。

横たわったままの私が首を少しだけ横にずらし香澄の行方を窺うと、彼女が左腕を床に敷いたラグにぴたりとつけて身体を支えている姿が目に入った。あれならば、頭を打ってはいなそうだ。未だ速く打っていた鼓動も元の速度へ戻ろうとしているようにその存在を潜め始める。

残ったのは、姉が私を選んでくれたという幸福感だった。やはり血の濃さが本能的な行動をさせる。私達は三姉妹ではないのだ。

ただ一つ不思議だったのはその時の姉の顔が安堵の表情ではなく、部屋の温度を数度下げてしまうほど蒼白だったことだ。


その後、姉は短大を卒業し、中堅どころの企業に就職し、そして同期の男性と結婚した。流れるような人生の旅路に足止めを食ったのは出産だった。姉は詳しいことは私には話さないが、断片的にそれは伝わってきていた。私の力では姉夫婦が授かりにくいことをどうすることもできない。私ができる唯一のことは祈ることだけだった。

残念なことに、彼女達の思いが通じてやっと授かった赤ちゃんは少しだけ弱かったらしい。ただ多くを語らない姉にかける言葉など当時の若い私には見つからなかった。姉は悲しみを引き摺り続け何ヶ月も外に出ず自分の巣の中で抜け殻を抱きしめる日々を送った。

そんな姉に対して、

義兄は“運命”という言葉で全てを片付けようとした。

伯父は“次”という無神経な言葉を使った。

伯母は無理やり公園への散歩に誘った。

真綿で首を締められるように姉は親切な空気の圧に潰されかけ、一層残像を追い続けてしまっている。

(だけど、それをグロテスクだなんて決して思わない)

そう心に決めている。

(私だけは)

それは加護を受けた者としての誓だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ