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7月22日 午後2時36分

「許せない」

美羽は春先に駅ビルのセレクトショップで買ったパールピンクのリュックから小ぶりのマフラータオルを引き出して言った。

「何が?」

隣りでリードの調整しながら、同じクラリネットパートの莉子が間髪入れずに訊ねる。

今は午後のパート練習の時間だ。今月末には最後の大会があるため、今は何をおいても練習に集中しなければならない。それなのに、これ程にまで胸に湧き上がる不快な入道雲のような感情は何なのだ。勢いよく頭を振って音楽室の窓から外を見れば、本物のグレイの雲が宇宙までの階段を造って浮かんでいる。また夜にでも雨が降り出しそうな色だ。

「…………………………この蒸し暑さだよ。まだ梅雨が明けてないのになんか許せない」

汗が楽器につかないように5分前に引っ張り出したタオルで手を拭う。気温は楽器の音色を左右するため、いつもはこの音楽室もクーラーが入っているのだが、クーラーは寒いと言って誰かが昼休憩の後にスイッチを切ったらしく、午前中の雨とも相まって今は水蒸気が湿度計を振り切っている感じだ。

「やっぱクーラーつけようよ。音、変わっちゃうよ」

美羽はクラリネットを譜面立ての横の机に横たわらせて立ち上がる。

入口脇の空調のコントロールパネルまで近づいてボタンを弄っていると、背中にストレートな声がダーツのように投げつけられた。

「………山之内さんって、どこ行ったの?」

きっと朝からずっと訊きたかったのだろう。その質問は少し芝居がかっていて、いつもの莉子よりも早口のようにも聞こえる。

どう答えたものか、と莉子に背中を向けたまま温度設定ボタンを0.5℃ずつ上げたり下げたりしながら口唇を噛む。結菜は母親と進路について喧嘩したから家を出たみたいだ、と結菜の母からの電話を受けたお母さんから聞いてはいる。

(お母さんはそれで納得してるみたいだけど、そんな簡単なことじゃないでしょ)

私は知っている。

結菜とは深い仲なのだ。“深い仲”という言葉を使うと何だか意味深になってしまうのだが、それは恋愛の情を伴っていなくとも、使われて良い言葉なのだと思っている。

(ただ、そうだな、深い仲“だった”というべきか)

私は私自身に対して静かに訂正する。


「テニス部の山之内さんだよね」

中学3年になったばかりの春の日、私はそう言って結菜に話し掛けた。

それは、クラス替えが行われたばかりの始業日故のくだらない心細さからだったのだろうか。何故たくさんいる新しいクラスメイトの中で結菜に声を掛けたのかは私自身も明瞭な答えることはできない。きっと、その時近くにいたから、とか、結菜も一人を持て余していそうだったから、だけではなく、彼女自体に少なからず興味を抱いていたからだったのだろう。


テニス部は、私が所属する吹奏楽部が使用する音楽室からよく見えるグラウンドの校舎寄りのエリアで活動していたので、パート練習や全体練習の合間に外に目を向けた際に自然と視界に入っていた。

(あの子、サーブ上手いな)

今日も何とはなしに眺めていた校庭でポニーテールにピンクのシュシュをつけた女の子に目を留める。私の中学ではヘアアクセサリーは禁止でヘアゴムも黒、紺、茶だけと決まっていたのだが、部活動の時間は割とルールが緩くなり、色とりどりのヘアゴムやアクセサリー、スニーカーなど楽しめた。そんな私も放課後は色つきリップを使っている。

(同じ2年かな。そういえばあの子見たことあるかも)

私は記憶をたぐる。同じクラスになったことはなくとも、学年で5クラスしかない小規模の学校なのだ。同学年は同じ2階に教室があるために日々廊下で大体の生徒はすれ違っている。

(ああ、あの子か)

確かに数週間前に教室の前ですれ違っていたことを思い出した。

お互いに隣りの子と会話しながら廊下を歩いていた時、何だか奇妙な笑顔が気になって、すれ違った後に思わず振り返ってしまったあの時の女の子だ。

(何が気になった?)

さらさらストレートの髪の毛を羨ましいと思ったことは確かだが、それを気にした訳ではない。もっと肌が一瞬で粟立つような何か。

(………そうだ、なんだか目の奥が空っぽだったんだ)

焦点が合っていそうで合っていない、ちゃんと相手を見ていそうで見ていない、自分を最大限に持て余している苦悩の眼差し。形容が難しいその瞳が少し気になった。


(あ、サービスエース)

鋭く、それでいて綺麗に空間を切り裂いたボールで我に返る。ボールがインに決まった瞬間、左手で小さくガッツポーズをした彼女の表情は遠目では嬉しそうに上気して見える。

(だけどね、きっと空っぽの眼をしてる)

それはただの勘ではあるけれど、私が何かを嗅ぎ分ける力を有していることは今までの長くない人生で十分知っていた。

(きっと、私、あの子と仲良くなれる)

それは勘というよりも確信、いや、願望でもあったことは自明だった。


「すごい上手いよね、私、ずっと3階から見てたんだよ。あ、音楽室ね。私、吹奏楽だから」

そこまで息継ぎをせずに捲し立てる。彼女の瞳を覗き込めば、その奥の柔らかな淡い蕾がまるで綻ぶように揺れた。もしかしたら、と美月は結菜の全身を一瞬で観察する。

「あ、今日のシュシュ、かわいいね。その青、すっごい似合ってる」

私は正しかった。この駄目押しの言葉で、ついに結菜のそれは花開く。やはりこの同級生は認めてもらうという行為に飢えているのだと再確認する。それと同時に、他者の欲求をすぐに嗅ぎつけてしまう自分の本能のあまりにも高い性能に、今日は久しぶりに胸が湧き立った。


「………私には連絡来ないんだよね……」

莉子が欲しがりそうな“可哀想な”台詞を吐いて、もとの席に戻る。これ以上この話題でラリーは続けない、という意思表示でもある。案の定、察した莉子は何も答えず、リードを新しいものに替えるべく楽器ケースに手を伸ばした。横目でその姿を確認した後、視線を水平に180度スライドさせて窓からグラウンドを見下ろしてみる。そこにあのサーブの上手かった青いシュシュの似合う女の子はもういない。


ああ、なんだか飼い犬に手を噛まれたような気分だ。

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