7月28日 午前7時19分
「お姉ちゃんにも電話しなくちゃ……」
たった今切れた通話画面には“伊藤”の文字と通話終了のゴシック体が残る。伊藤美羽ちゃんは娘の中学時代からの友人だ。
「………お姉ちゃん………お姉ちゃん……」
知らず知らずのうちに声が漏れ、梅雨の朝のいくらか冷涼な空気とともにリビングの中央で渦を巻く。
急いでスマートフォンの履歴を探る。探すまでもなく、履歴の三分の一は姉の番号だった。
「…………………………………あ、お姉ちゃん?今、大丈夫?」
姉は4コールで電話をつなげてくれた。きっと私達のことを気にして身近に携帯を置いてくれていたのだろう。やはり優しい姉だ。昔と何ら変わらない。
駅にして二駅しか離れていないこの住宅地に家を購入した際も、決め手は“お姉ちゃんの家に近い”ことだった。それ程に私達の距離は物理的にも心理的にも近い。
「あ、うん、大丈夫だけど、どうしたの?もしかして結菜ちゃん帰ってきたの?」
やはりそうに違いなかった。姉の優子はその名の通り優しい人で、昔から私のことを何よりも一番に考えてくれている。たとえそれを姉に伝えていなくとも、帰ってこない娘を想って眠れない夜が続いた私のことを彼女は本能的に悟っている。
そして、その気持ちが嬉しくてつい上擦った声が出てしまったことも最初の一声で姉もきっと気付いただろう。
「そうっ、そうなの。昨日の夜なんだけどね。本当はもっと早く連絡したかったんだけど、遅い時間だったし、結菜も私も昨日はいっぱいいっぱいだったから今朝になっちゃった」
高鳴る胸を右の掌で潰すように薄手のコーラルのシャツと一緒に押さえ込みながらも、一息に伝えるべきことを伝えれば、彼女も電波の彼方で息をのむ音が聴こえた気がした。
「あぁ、そう、うん、それは良かったわね、本当に。優月にもメールしておくわ。まあ、今はあっちも大変な時だろうからすぐに返事はこないだろうけど。一応ね」
「うん、そうして。今はまだ結菜は寝てるんだけど、起きてきても責めたり話を蒸し返したりはしないようにしようと思って。その方がいいでしょう?」
私は最後の判断を他人に、できることならば正しい判断を下してくれる姉に全て放り投げてしまう悪い癖がある。今までも大なり小なり判断を委ねてきた。自分自身は決して信じられないが、姉の考えならば委ねても良い、と全自動的に思考が収斂されてしまうのは、幼い頃から姉が私の道を照らしてくれてきたからか。事実、それは私にとって全て“正解”の道標だったから、この癖は今日まで改善されたことはない。
ただ、今朝は姉の次の言葉は待たない。私には、この瞼が重く感ぜられる程一晩めぐらせた想いの答えが出たばかりなのだから。
「結菜も一週間離れていた間に少し大人になった気がしたわ。………何ていうか芯が通った感じが………うん、昨日、した。まあ、昨日も殆ど話していないから、あくまで雰囲気の話なんだけどね」
姉はこの間に何ら雑音を挟まない。いや、挟ませないように一息で捲し立てたのはこちらだ。私が音を立てないようにこっそりと息継ぎをした直後、ようやく姉が口を開いた。
「………そうねぇ、今みたいな多感な時期はどんどん変わっていくから。一週間離れていたというのは大きいのかもしれないわね。よく言うじゃない、通過儀礼って。そういうの、あるのかもね。長い目でみたら、今回のことも決して悪い方向には行かないと思うけど?」
昨夜までの雨の名残りの靄が残る朝には、全く似つかわしくないカラリとした声色で、まるで私を落ち着かせるようゆっくり諭すように言葉を並べると、姉は最後に少し笑った。だから、私も一気に気持ちが軽くなる。
「うん、きっと何年か後には笑い話よね。うん………あぁ、良かった」
その言葉に嘘はない。
ただこんな言葉までつい口をついてしまったことを後悔している。
「…………………………………でも、匂いがしないの」