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7月22日 午前11時57分

私はあの時、子どもとともに自分をも失ったのだ。


優子はダイニングテーブルの斜向かいの席に目を向けながら既に冷め切った紅茶に口をつける。7月も下旬になればアイスティーが欲しくなるものだが、優子は温かい紅茶の香りを好んだ。


夫とは短大を出て新卒採用された輸入雑貨の会社で出会った。今はだいぶ業績も伸び社名も知れ渡った企業だが、当時は新入社員は20人にも満たないぐらいで、私は一般職、彼は総合職の同期だった。就職して研修期間が終わると、少しばかり社会人としての余裕が出てきた6月頃から同期会が開かれるようになり、フロアでも隣りだった部署の私と彼が、回を重ねるごとに親しくなっていったのは自然なことだったのかもしれない。

入社3年で私達は結婚した。女性が結婚を機に退職する風習はまだまだ色濃かったが、私は辞めなかった。“女性の結婚”で新陳代謝を図る職場に居続けることに心のどこかでは罪悪感を覚えてはいたが、私は“働かない”ことで味わう不安の方を怖れていた。

3歳下の妹はまだ大学生だ。幼い頃に事故で両親を失った私達は小学校の時分から親戚の家に引き取られて育った。伯父や伯母は優しく生来真面目な性格の夫婦で、私達は金銭面を含めた環境としてはとても恵まれていたと思う。

その伯父伯母夫婦には私より二つ年下の従姉妹がいた。愛らしい香澄という名前を体現したような小柄で華奢な女の子で、血縁の私達にも半年程は人見知りをしてしまい、「おやすみなさい」をいつも「おやす………」までしか聞こえない声で返してきた。それでも彼女なりに私達姉妹と親しくなりたいという気持ちはあったようで、いつも頬を林檎のように染めながら声もなく微笑むのだった。

養父母は実の娘と私達を分け隔てなく育ててくれていたと思う。勿論、私はその愛情に感謝し、家庭内では率先して家事の手伝いや従姉妹と妹の面倒をみた。


数年経ち私が中学に上がったある日、こんなことが起きた。

部活動のバドミントンの練習で遅くなり、帰りは初夏といえど陽は大分傾いていた。二階に上がり私と純子の部屋に戻ると、純子は中央の低いテーブルで香澄と二人、お絵描きを楽しんでいるようだった。共通のテーマで絵を描くことにしているようで、今日は“いつか着てみたい服”にしたようだ。それぞれが自由帳を開いて熱心に色付けしていく。色鉛筆は香澄が先日両親に買ってもらった24色入りの新品で、私が蓋の右下に名前シールを貼ってあげたばかりだ。ファッション雑誌に出てくるようなタイトなワンピースのベルトにピンクを使おうと、香澄が色鉛筆ケースに手を伸ばす。と同時に純子もミニドレスの色付けに取り掛かっていたらしくピンクの色鉛筆を右の指が探した。そう、純子はピンク色が好きでいつもどこかに取り入れたがる。母がいた頃、姉妹で何かを揃える時には私が赤、妹がピンクを与えられたのだが、それはお互いが持ち物を間違えないように、とのラベリングの一種だったのだろう。母にとっても便宜上に決めたことで他意はないと思うのだが、純子にとっては母親が自分自身に選んでくれた特別なプレゼントだと捉えているようだった。もう母に会うことができない今となっては、どうやらその色は神聖視された手垢を決してつけてはいけないシンボルになっている。ピンクは幸せな親子の象徴なのだ。

ピンクの色鉛筆を取るのは香澄の方が早かった。だが、それでも純子は後からまだ新しく長いピンクの軸の端を掴む。瞬時、無言の時間が訪れる。二人とも指先に力を込める。どちらかが譲れば済むことなのだが、今日に限っては意固地になっている。もしかしたら香澄もピンクを奪われたくないのだろうか。

私は、何もしなかった。ちょうど部活の荷物を勉強机の足元へ下ろし、部屋着へと着替えようと制服のブレザーへと手を掛けながら、それでも右目の端で彼女達の動きを追っていた。二人が色鉛筆のそれぞれ端と端を握り少しずつ引っ張り合う。どちらも決して手を離そうとしない。このままならば、いずれどちらかの手からピンク色がするりと抜けて勝手に決着が着くだろう、と思っていた。

案の定、すぐにその展開になった。ただ、二人とも力みすぎていたことが想定外だった。ピンクの色鉛筆は先の方を掴んでいた香澄の手を抜け出すと、同時に急に手応えを失った香澄と純子の躰は弾かれるように後ろへ放り出された。純子の背中が強張りながらも弓のようにしなる。

「っっ、危ないっ!」

と小さく叫び、私は純子の後頭部に右腕を投げ出した。一瞬の出来事に少し驚いた表情で低めの天井を見上げる純子の頭は、ちょうど私の右の手首の上だ。良かった、間に合った、頭を打ってはいないようだ、と細く息を吐く。私は背中を駆け上った熱を落ち着かせるように左手で強く額を押さえた。その時、

「………あ…」

と香澄が呻いた。

声のした方に目を遣ると、香澄は左肘と左の掌を床のラグの角にぴたりと着けて左に大きく傾いた躰のバランスを何とか保っていた。どうやら頭を打ち付けた訳でもなさそうで、こちらも息をつく。ただ香澄の視線が気になった。純子を見ている訳でも色鉛筆の行方を追っている訳でも、ましてや私を見ている訳でもなく、空を掴んだ右腕を凝視している。何事だろうか、と視線を辿れば、香澄の右手首の親指の付け根の更に3センチ程下に赤く滲んだ細長い傷があった。

少し落ち着いていた筈の熱い何かが再び背中を侵していく。今度は脳天まで達した気がした。

(傷をつけてしまった。もう駄目だ)

沸いた脳内を後悔が駆け巡る。

香澄の傷は恐らく色鉛筆を離した際に純子が勢い余って付けてしまったものだろう。故意ではない。この状況ならば香澄ではなく純子が傷付く可能性だってあった。だが、傷付いたのは香澄だった。その事実が何より重い。この部屋だけが倍増した重力に押されて潰れそうだ。

(これから一生負い目を胸に住まわせて生きていかなければならないのか)

この程度のことで、と人は嗤うだろう。しかし、私にはもうここで人生を終えても良いと思えてしまう程の事件だった。

名実ともに穏やかでピースフルなこの家族の一員になればなる程に、そして義理の両親や妹が私達姉妹に優しくしてくれればくれる程に、実は心の隅でそれが砂上の楼閣のような儚さと一抹の罪悪感を覚えていたのだ。強者が強者たる理由を確認するための私達への優しさだと。または、それはある種の隷属的な関係を本当は伴っていたのだと。

(私は、この子に敗けたのだ)

きっと数日経てば消える小さな傷を見ながら、私は少しずつ視界がぼやけていくのをどこか冷静な面持ちを保ちながら感じていた。


いつまでも養父母の元で安穏と過ごす訳にはいかない。

それは、色鉛筆の一件で白日のもとに晒された感情だった。私達は三姉妹などではなかった。伯父や伯母、香澄がどのようにこの家族像を真に捉えているのかは解らないが、少なくとも私が“一つの家族”であると思っていたのは、“そう思いたい”感情が成せる業だったのだろう。結局、胸の奥底では血の濃さを特別視してしまっているのだ。血縁としてより近い純子を庇護しなければならない、という本音を覆っていたヴェールが、この小さな波風で何処かへふわりと飛んで行ってしまった。このまま隠していてくれればどんなに楽であったろうと悔やまれるが、重要なのはこれから先の生活である。

高校に上がる際、私は伯父に「アルバイトを始め、多少なりとも生活費を家計に入れたい」旨を申し出た。当然のこととして彼は反対し

「アルバイトはしても良いと思うがね、生活費はいらないよ。優子はこの家の子なのだから気兼ねは一切いらないんだよ。稼いだお金は将来のために貯めておけばいいじゃないか」

と諭してきた。あまりにも予想通りの問答に堪らなくなった私は、

「お父さんとお母さんが亡くなった時、もう小学生だったんだよね、私。二人のことはよく覚えているし、純子を含めた思い出だって沢山あって、きっとこれからも忘れられない。私は伯父さんと伯母さんを確かに両親だと思って育ってきたし、感謝してもしきれない。でもね、本当の親って話になるとやっぱり違うんだと思う」

と実際には微塵にも思っていないことを、敢えて伯父に聞こえるように呟く悪い子どもだった。


紅茶を淹れ直そう。

そう思い立ってリビングからキッチンに移る。ここが私の聖域だとカトラリーを整理している引き出しをさらりと撫でる。しかし、今日は撫でるだけでは治まらない胸の鼓動が、引き出しの取っ手に指を絡ませさせる。ほんの少しの力で滑らかに引き出しは、私にその中を曝露してみせた。

カトラリーが整然とトレーに並んでいる何の変哲もない幅30センチ程の引き出し。左の指でトレーを持ち上げ、右の掌をその下に差し込む。するとすぐにビニールのつるつるとした感触に行き着いた。それを丁寧に丁寧に引っ張り出す。絶対に汚したり破いたりしてはいけない。これは私の聖典なのだから。

トレーの下に眠っていた冊子を引き抜くと、表紙の淡い赤ん坊のイラストが少しぼやけている気がした。

(違う。私、泣いてるんだ)

何よりも大切な母子手帳を濡らさないよう急いで天を仰いだけれど、もしかしたら遅かったかもしれない。

淡い赤ちゃん像が更に滲む。

(あの子を失ったのは4センチの赤い傷の代償だったんだよね)

どこからか遠い蝉の声が聞こえてくる。ジリリリと鳴く声が雨雲の気配も連れてきた。


「ごめんね」

落ちるべきところに涙が落ちて、流れた。

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