7月22日 午前9時32分
何も考えたくはない。
そんな時は音が欲しくなる。
純子は手当たり次第スイッチを押しつつリビングを一周する。テレビでは朝の情報番組のお天気コーナーが進み、ラジオからは生命保険のCMがピアノの軽薄なメロディとともに流れ、スマホアプリからは今年流行っているらしいスローなラブソングが鳴る。
ああ、この曲は結菜が7月の初めから観始めたドラマのエンディングに流れているものだったか。私もまだ2回しか観ていないから不確かではあるけれど。
もっと雑音をミックスさせたくてリビングの大きい窓を開ける。比較的静かな住宅街ではあるが、午前中の街は人を忙しくさせるもので、車や自転車の行き交う排気や金属の音、人々の挨拶や談笑が網戸の小さな穴を器用にすり抜けて侵入してくる。
音の情報が多ければ多いほどマスキングのように脳内の回路を阻んでくれる。脳を音の薄布で覆っている言っても良い。
“考えない”という作業にも必ず儀式が必要なのだ。今日もその儀式の作法に則っている筈なのに、後から後から湧き上がる気持ちの悪い感情は何なのだろう、と純子は音の波間に佇んで外に目を向ける。とうに朝の気配を消した空の立体的な雲は薄墨色を何段にも積んで如何にも重そうだ。
(もう梅雨が明ける筈なのに)
そうぼんやりと思って、純子はまた何かを考え始めようとしている自分に項垂れた。
娘を愛している、と胸を張って言えないのは何故だろう。勿論、愛していない訳ではない。ただその言葉にはどこかで後ろめたさが拭えないのも事実なのだ。
結菜は赤ちゃんの頃から時折、その顔に見覚えのある表情を湛えた。あれはどこかで見た気がする、誰だろうとその都度立ち止まって頭を捻るのだが、一向に思い出されない。それがふと“自分そっくりだ”と気付いたのは、結菜が4つになった時だ。
結菜が4つになった日、つまり誕生日に私は彼女を連れて駅ビルの一階入口すぐに店を構えるケーキショップへ出掛けた。勿論、誕生日ケーキを買うためだ。そのケーキ屋はクリスマスやバレンタインなどのイベント近くなると予約をしないと好みのケーキはなかなか購入できないのだが、結菜の誕生日はイベントごとから外れた6月だったため、今日はゆとりを持って選べるのだった。
ショップの前面に大きなショーケースが2つ鎮座しており、いつの時期に訪れてもおよそ20から25種類の多種多様なケーキが美術館のようにディスプレイされている。結菜もこの駅を利用する際には、私に手を引かれ改札に向かう途中であっても、ケーキショップのある方面をいつもちらりと見ていた。まだ4歳であっても魅力のあるものはすぐに覚えてしまうようだ。それを知っていた私は、今回の結菜の誕生日について思いを巡らせた時、ケーキは真っ先にここだと決めた。
私の弾んだ予想はぴたりと当たっていたようで、結菜はショーケースのガラスぎりぎりまで顔を近づけると、首を上下左右に動かしてケーキを隈なくチェックしている。彼女の一歩後ろに立ってその背中を見れば、結菜は小さな鳥のように身体を小刻みに動かし、時に首を傾げて思案しているようだった。
(なんと幸せな時間だろう)
胸の奥の名前も知らない場所が温かくなっていることを自覚する。
(この時間こそラッピングして持って帰りたい)
ショーケースに反射する結菜と私をぼんやりと見つめた時、結菜がケーキから視線を外して足元のピンクの靴を見ていることに気付く。
「どうしたの?たくさんあるよ、ケーキ。好きなのを選んでいいんだよ」
私は少し腰をかがめ結菜の二つに結んだ髪の毛近くまで顔を寄せると、彼女に優しく語りかけた。
「ショートケーキもあるし、チョコレートケーキもあるし、モンブランも、あと、フルーツタルトでしょ、あれはピスタチオの色ね。赤っぽいのはカシスかな?ちょっと結菜にはお姉さんすぎるかなぁ」
無言の結菜に向けて、私はケーキの種類を上段の左端から順にレクチャーしていく。けれど結菜の「それがいい」という返事はなかなか聞けない。
長い時間をかけて結菜に説明し終えたあと、ショーケースの端まで小さな手を掴んで移動すると、もう一度彼女に問いかけてみる。
「どれがいい?」
結菜は私の方をちらりと見た後にケーキの並びを振り返ると、ショーケースの向こう側でにこやかに待っていてくれる私とそう年の頃の変わらない女性店員を見上げた。店員は一層笑みを深くして私に会釈する。すると何故だか今までの娘とのやり取りが全て不毛のようにも思え、少しの苛立ちを覚えた。
ケーキの種類などどれでも良いのだから早く決めてほしい。そう思いながらも最後の理性で口にすることを阻むと、背中を向けてショーケースを覗き込む小さな肩に手を置いた。
びく、と肩に置いた左手に振動が伝わった後、結菜がゆっくり身体ごとこちらへ向き直る。その表情を見た時、私は全てを悟った。
窓の外から雨音が聞こえる。網戸にしていた一番大きい窓を閉めようとソファから立ち上がった。外の雨がもたらした湿度と温度でガラス窓に靄がかかって、私の姿も徐々にぼやける。
(私の姿?)
窓側に二歩進んで立ち止まり、正面からガラスの中の顔を確認する。
(ほら、違う。やっぱりあの結菜の顔だわ)
輪郭は曖昧だけれど、表情は読み取れた。そこにいたのは、ケーキのショーケースの前で振り返った結菜の表情のそれだった。
(自分ではどれも選べなくて助けを求める顔)
昨日磨いたばかりのガラスに手を置くと向こう側からも手を重ねてきた。
(小さい時の私とおんなじ。私もお姉ちゃんがいなきゃ何も決められなかった)
手を離すと手のひらの形に跡がつく。しわも指紋もくっきりと浮かび上がったことを確認しながら、
「やっぱり私があの子を導いてあげなくちゃいけない…………どんなに時間がかかっても」
呟きつつ、一思いに窓についた右手の跡を指先でぐじゃぐじゃに消す。今度は指先についた雫が歪んだ私を映しているような気もしたが、淡いさくら色が殊更気に入っているこの服の裾で拭って見ないふりをした。




