7月23日 午後8時51分
夜ご飯に作ったカレーの残りを皿に取り、明日まで冷蔵庫で寝かせることにする。シルバーが光る大きな冷蔵庫の扉を開けると、上から下までぎっしりと食材やら調味料やらが詰まっており、なかなか深皿の場所を確保することができない。
(明日から夫婦二人だけの生活になるのに、この量はさすがに多すぎるわね)
優子はそう自嘲しながら右端の保存容器を重ねて奥へ押しやると、その前にゆっくりとカレーを入れた深皿を置いた。
(優月は朝、これを食べて行ってくれるかしら)
すぐに不安になってしまうのは、まだ本当の気持ちを彼女に伝えられていないからかもしれない。
(先生には、ちゃんと言葉にして伝えてみなさいって言われたのに)
いざ娘を前にするとその言葉の最初の一文字さえも喉から先に出てこようとしない。感情を吐露することは、ついその場の状況判断をし、場に沿った行動をしようとしてしまう大人にとってはとても難しい作業なのだと悟った。
カウンセリングに通うようになり随分長い月日が流れた気がするが、先生とのやり取りを記録した手帳のような自分だけの覚え書きノートを繰ってみると、ちょうど今年の8月で3年だった。つまりカウンセリングに通い始めたのは優月が中学3年の夏だということになる。
その頃の優月は受験生として市内のトップとされる進学校を目指していた筈だった。それを“筈だった”と曖昧な言葉で説明を濁してしまうのは、優月自身から受験先について希望を聞いていなかったからだ。この辺りでは進学校で名の通ったあの高校を恐らく受験先とするだろう、と検討をつけたのは、中学校での上位の成績と妹の純子が結菜ちゃんからそう聞いたという情報からだった。
母親にとって子どもの高校受験は一大イベントらしいのだが、私が優月の志望校を知らずとも心が波立つこともなく過ごせたのは、彼女に関心がなかったからではない。むしろその真逆で、優月に心を寄せ過ぎるあまり彼女に関する全ての事柄に触れることに恐怖心を抱くようになったからなのだ。
きっかけは彼女が中学3年になったばかりの春に私に向けた一言だ。
その日の私は今日と同じように夕食用にカレーを作っていた。私が作るカレーは市販のカレールウを3種類混ぜる。フルーツの風味があり子ども達に人気のもの、まろやかさが特徴のCMでよく流れているもの、スパイスの効いた少々大人向けのものをそれぞれ1対1対2で混ぜる。夫がカレー好きで以前もっとスパイシーにしてくれと言ってきたこともあったが、私にはこの組み合わせがベストに感じられた。それは優月が小学校にあがったばかりの頃に編み出した味だった。
夕焼けで鮮やかなオレンジに染まった台所でカレーを煮詰めていると、程無くして優月が帰宅した。今日は部活が早く終わったらしい。彼女は美術部に入っているのだが、実のところ活動内容はよく分かっていない。新聞社の主催するコンクールに応募する作品を仕上げるから遅くなりそうだ、と今朝は事務的な口調で素っ気なく言っていたのに、こんなに早い時間に帰ってきたのは一体どういうことか。
「思ったより、早いじゃない。何かあったの?」
顔だけを少し動かして優月を見る。彼女は台所に入ってくると、紺色の学生カバンを肩から下ろすこともなく冷蔵庫を開け、左側扉からコンビニで売られているカフェラテのチルドカップを取り出した。
「別に………何もないよ」
何とも歯切れの悪い言葉が返ってくる。
私はあの一件以来、“正しい”行いを何よりも好ましく感じて生きてきた。だから、このような何か含みを持たせる言い回しが以前から嫌いだ。何か言いたいことがあれば、はっきりと言えば良い。言えないのはそこに罪やら悪しき感情やら詳らかにしたくない何かがあるからではないのか。
「何かあったんじゃないの?」
同じ問いかけを今度は少し強めにしてみる。きっと早い帰宅の理由など、蓋を開けてみれば“今日は気分が乗らなかった”程度のことなのだろうが、私としてはそれを包み隠さず明らかにしてほしいのだ。
「…………ほんとに何もないよ」
優月は、私から距離をとるようにリビングへ移動しカフェラテにストローを勢いよく突き刺す。プチリと音をたてたカフェラテに一口だけ口をつけると、自室のある2階へ行くためにリビングのドアノブに手をかけた。
二度目の“何もない”という言葉に、いつものように自然と苛立ちを覚える。
(なんで、こんなにも可愛げがないの)
動き出しそうな右手をぎゅうと握りしめて堪える。爪の鋭さがもたらす痛みをしっかりと感じながら
(あの子だったら)
と思わずにはいられない。それでも最近は大分我慢できている筈なのだ。その証拠に私はもう2年もこの手に痛みを味わわせてはいない。
今日は4度も唾を呑み込んで眼を固く瞑る。
(大丈夫、抑えられる……)
私の怒りの行方を“正しい”という言葉で括ることができないのは十分承知している。私の日々全てを理想的に生きられないのが、あの時の罰なのだとも理解している。
そんなことを瞼の裏をしかと見つめながら今日も考えて耐える。
「…………カレー、もうすぐ出来るから」
リビングの扉を閉めずに2階へ上がろうとしていた優月に、息苦しさを隠しながら声をワントーン上げて投げかける。優月は階段の一段目に右脚をかけて少しだけこちらに視線を向けると微かに口唇を震わせた。
「……………………それ、そもそも好きじゃない」
小さな声だった。
私には水紋がじわじわ広がるように届いてきた。
彼女の声は私の知らないそれ、だった。
ただ、そんな気がした。
何の躊躇いもなく赤信号を渡れる人の気持ちを私は知らない。
知りたくもない。