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7月23日 午後8時2分

もう一つ思い出した。

優月は手にしていたスマートフォンを楕円形の小さいセンターテーブルに静かに置くと、ベッドに横になって正対するように天井を見据えた。両腕を前へ伸ばし部屋の空気を押し上げ、天井を掴むように両手でゆっくり指を曲げる。緩慢な動作を何回か繰り返していると、物憂げな記憶の動画が逆再生で蘇ってくる。それはもう十年以上も前の出来事なのにぼやけも掠れもしていない鮮明なカラー映像で、その明瞭さがかえって恐怖心を増大させる。それでもその映像から“母”と“畏れ”で検索をかけて抽出された動画を、この部屋への餞別にと脳内再生を試みた。


幼稚園から帰ってきて昼寝をしていたある日、いつもの時間より早く目が覚め母親を探したことがある。リビングに母を見つけ、ソファに一人で凭れている母を窺い見たところ、何故だか異様な雰囲気にたじろぎ声をかけられなかった。母の揃えた膝の上にはピンクの表紙のノートのような薄い本のようなものが置かれていた。その時彼女は45度程視線を上げ、何もないお絵描き前の画用紙のようなオフホワイトの壁を見つめていた。時折、頭を軽く振り両目を閉じて俯くと、しばらくの間、心臓の位置に右の掌を押し当てて何かを呟いている。小さくて何も聞き取れなかった呪文のような言葉が数分で終わると、再び目を開いて斜め上を見上げる。それは彼女のルーティンのようでもあり何かの儀式のようにも見えた。

儀式ならば、きっと私も音を立ててはいけない。息さえも潜めて、もとの部屋へ戻りベッドに入る。その頃の私は何も解らず知らぬ顔で寝たふりを続けることしかできなかった。タオルケットの端を指先が白くなるほど強く握ってしまったのは、どこかで恐怖を覚えていたのだろう。見た光景を忘れようとすればするほど、鮮やかな色と聞こえた筈もない声を伴って思い出される。母の呪文は毎回聞こえずとも、数年経つとそれが何なのか自然と理解できてきた。

母は私の姉と対話していたのだった。


小学校にあがってからは、平手で頬を叩かれることが増えていった。理由は、無かった。正しい言葉で説明するならば、理由は何でも良かった、だろうか。私の側にその原因を見い出すよりも、母の心の中に巣食う感情の軋轢にそれは起因していた。

ただ、彼女も叩いた直後だけは我に返るようで、じとりとした眼ではあるがその時は“私”だけを見てくれる。ママの黒光りするその瞳に確かに私が映る、という事実は、母の本心までは探り当てられなくとも、私は確かに存在し得ていると実感できる貴重な時間だった。

そしてまだ小さな身体の奥底に溜まる澱の気配を自身が感じ始めた頃から、私は母へ宛てて手紙を書くようになる。そしてそれは必ず

「ママ、大好き」

で結ばれた。私にとって手紙は母親に対する愛情の証明書であり、この関係を社会的に担保した契約書であった。初めてそれを差し出した時、私は息を殺して彼女の表情を窺い見た。もしかしたら喜んでくれるのではないか、と少なからず予想していたのだが、母はピンクと赤の花柄の封筒に丁寧に収めた二つ折りの便箋を、ちらと一瞥しただけで眉をひそめた。二分の一の確率を外した私は、気付かない振りをすることが精一杯だったが、だからといって手紙を捧げる儀式を止めることはできなかった。この女性の庇護から外れることを畏れたのか、いつか慈愛に満ちた返信が来る、という一本の絹糸ほどの希望を持っていたのか、今となってはその断片さえも思い出せない。ただ一つ確かなのは、中学生になると母へ向けていた筈のベクトルが不思議と消えていたことだ。

そうだ、私ははじめから透明だったのだ。

本当の“私”は透き通ったこの躰と精神の先の彼方にのみ存在が許されていたのだ。一度それを真実として認識してしまえさえすれば、この泥に塗れた劣等感は纏っていた布のようにするりと脱ぎ捨てられるのだった。マイナスの感情にプラスの感情を掛け合わせたところで答えはマイナスでしかない。なんと無意味で徒労に暮れる作業だったのだろうか。


そして私は母に無関心になった。

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